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呼び歌

いや、歌うのかよ。


もっと早く言ってほしかった。女神もそこはかなり大事な説明だっただろう。

ただの作業歌みたいだった節回しが、泥の塊へ目に見えて効いていた。溝の内側へ閉じ込めるために置かれた石と木片も、さっきからかすかな音を返している。道の脇に雑に見えたもの全部が、ここでは「そういうもの」なのだ。

細かい理屈は分からない。ただ、鈴が鳴るたび泥の震え方が少し変わることだけは、妙に目と耳へ引っかかった。


女性たちの声が、一段高く揃った。


泥の塊が、びくりと縮む。


少年が叩く桶の底が、乾いた音で拍を打つ。


その一連が、あまりにも手慣れていた。


湊は差し出したままの自分の手を、そっと下ろした。

最強魔法で一発、という未来は、いま目の前で一度消えた。


頭巾の女性が歌の合間に言う。


「ぼさっとしてるなら、その石から動くな」


「あ、はい。動かないで見てます」


とっさに返事はしたものの、視線だけは泥の塊へ吸い寄せられたままだった。

泥の表面が、今度は内側から何かを押し返すみたいに盛り上がる。さっきより大きい。しかも一つではなかった。溝の奥、見えにくい草の陰でも、同じような揺れがいくつも起きている。

少年の顔から、さっきまでの物珍しさが消えた。


「まずい。増えてる」


女性の声が、今度ははっきり張りつめる。


「村まで呼ぶよ。急げ」


歌の調子が変わった。


さっきまでの短い輪唱ではない。もっと遠くまで通すための、細く鋭い呼びかけの節だった。森の向こうへ放たれた声が、湿った空気の中を滑っていく。


返ってきた。


遠くの方から、別の歌が。


村だ、と湊は思った。


あそこから人が来る。


いや、人だけではない。歌そのものが、応援として戻ってきている。


泥の溝はなおも脈打ち、灰色の森は静かなまま、その奥でまだ何かが増えている気配だけがあった。

湊は自分の胸の奥に、さっきとは別の種類の高鳴りを感じていた。


異世界へ来た。


最強魔法もある。


なのに、自分は何ひとつわかっていない。


その現実が、遅れて本格的にのしかかってくる。


そして同時に、たまらなく面白いとも思ってしまった。


最初の予定とはだいぶ違う。違うが、これはこれで、かなり嫌いじゃない。

この世界では、魔物を相手にするとき、人は歌う。だったら、自分はこれから、その常識を覚えなければならないのだろう。


最強魔法を持っているのに、音楽の側では完全な素人。


その組み合わせが、思っていたよりずっとまずいものなのかもしれないと、湊はようやく疑い始めた。


湿った風が木々を鳴らし、村からの応答が少しずつ近づいてきた。


湊は溝の向こうでうごめく灰色の泥を見つめながら、無意識にもう一度だけ、自分の右手を握り直した。

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