森から始まる
落ちた、と思った。
今度はサーフでも交通事故でもない。ただ、足場そのものが消えて、身体ごと下へ抜けた感じだった。
反射的に目を閉じ、次に開けたとき、白い空間はもうなかった。
冷たい風が頬を打った。
鼻に入ってきたのは、湿った土と、濡れた木の匂いだった。足元には踏み固められた泥道があり、両脇には灰色がかった木々が密に立っている。空は曇っていて低く、朝のようなのだが森の中は薄暗い。枝の先にはまだ春になりきれない硬い色が残っていた。
「うわ……ほんとに森から始まるのか」
異世界の第一声としては、だいぶ情けない。
だが仕方がなかった。もっとこう、あると思っていたのだ。巨大な門とか、荘厳な神殿とか、少なくとも「ここから先はファンタジーです」とわかるような何かが。実際に目の前へあったのは、都会の高校生が一人で放り込まれたら十分困る、ただひたすらに知らない森の道だった。
異世界一発目としては、だいぶ渋い。
もっとこう、あるだろう。歓迎の光とか、勇者召喚っぽい余韻とか。女神の重大発表ならせめてFOX DAYくらいには仰々しく始まってほしい。少なくとも「がんばれ新生活」みたいな空気くらいは欲しい。
湊は自分の身体を見下ろした。ライブ帰りの服ではない。白一色でもなかった。生成りのシャツに濃い灰色の上着、粗い織りのズボン、革靴という、いかにも旅人めいた格好に変わっている。腰には小さな革袋がぶら下がっていた。中を確かめると、硬貨が数枚と、小さく畳まれた手拭い、それに短い木札のようなものが入っていた。札の表面には、焼き跡みたいな細い刻みが絡むように走っている。文字なのか傷なのかも、湊には見分けがつかなかった。
「雑に送り出したわりには、そのへんは用意してくれるんだな……」
返事はない。白い空間も、女神も、もうどこにもいなかった。
とりあえず、本当に異世界らしいということだけはわかる。知らない言葉、知らない服、知らない空気だ。胸の奥で、じわじわと実感が広がっていく。怖さがないわけではない。それでも、期待の方が少し勝っていた。
剣と魔法の世界。
最強魔法つき。
歌えないとか、楽器が弾けないとか、そういう現実はここでは関係ない。少なくともこの時点の湊は、かなり本気でそう思っていた。
交通事故で死んだ高校生が、ここから成り上がる。
言葉にして並べると、だいぶ都合がいい。だが、実際にそういう状況へ放り込まれた以上、乗らない手はなかった。
まずは人のいる場所を探そうと思い、泥道の先へ目を凝らす。緩やかな下り坂の向こうに、かすかに煙が見えた。村か町かはわからないが、少なくとも誰かはいるらしい。
歩き出してすぐ、道の脇に細い溝が掘られていることに気づいた。森から流れてきた水を逃がすためのものだろう。その溝のところどころに、平たい石と木片が並べられている。適当に捨てたというより、何か意図して置いてあるように見えた。しかも、木片の方には簡単な筋が何本も刻まれていた。
楽器の部品みたいだ、と湊は思った。
いや、そんなわけがないとも思う。こんな道端に、わざわざ楽器を置いておく理由がない。だが、木片を風が撫でたとき、かすかな高い音が鳴った。偶然ではなく、鳴るように置いてあるのだとわかった。
そこまで来て、前の方から歌声が聞こえた。
ひとりではない。女性の声がふたり、その後ろから子どもの声がひとつ。旋律は素朴だった。上手いとか下手とか以前に、畑仕事や水汲みの手を止めずに口ずさめるような短い節回しで、同じ四小節くらいを何度も繰り返している。
単純なのに、耳へ引っかかった。どこで音が返ってくるかも分からないのに、次の一拍を身体だけが待ってしまう。ライブでサビ前の溜めを待つときに近い感覚だった。
歌いながら、道を歩いてくる。
最初に見えたのは、大きな籠を背負った年かさの女性だった。その隣に、同じような年頃の女性が棒の先へ鈴を下げたものを持っている。後ろには十歳前後の少年がいて、桶を抱えたまま鼻歌みたいに同じ旋律をなぞっていた。
異世界の第一村人だ。
もっとこう、門番とか、兵士とか、ギルド受付みたいなやつを想像していた湊は、少しだけ面食らった。
いや、受付嬢はさすがに欲張りすぎかもしれない。せめて「ようこそ旅人さん」くらいの空気で来てほしかった。
向こうもこちらに気づき、足を止める。
三人とも、露骨に警戒した顔をした。
湊は慌てて片手を上げた。
「あ、すみません。えっと」
日本語で通じるのか。そもそも会話できるのか。そこで初めて、その根本問題に思い至る。
だが女性たちは顔を見合わせたあと、灰色の頭巾をかぶった方が口を開いた。
「あんた、旅の人かい」
わかった。
少なくとも、言葉は通じる。
「はい。旅の者だとは思うんですが、その、事情が少しややこしくて」
「たぶんって何だい」
「いや、その、気づいたら森に」
自分でも酷い説明だと思ったが、正直それ以上でも以下でもない。
年かさの女性はますます訝しげな顔をした。もう一人の女性は、手にした鈴つきの棒を少し持ち上げる。武器というより道具に見えるが、警戒の仕方は明らかに慣れていた。
少年だけが、遠慮なく湊をじろじろ見ていた。
「奏士じゃないよな」
いきなりそう言われ、湊は目を瞬かせた。
「そうし、って何ですか」
「歌ったり鳴らしたりして、ああいうのとやり合う人」
少年は当然みたいに言った。
歌ったり鳴らしたりして戦う。その発想だけで、湊の胸が少し跳ねた。女神が言っていた細部は現地で理解できる、という雑な説明の中にも、たしか音の輪みたいなものはあった。世界の基音だの何だの、意味はわからなかったが。
頭巾の女性が、値踏みするように湊を見た。
「じゃあ、あんたは何ができるんだい」




