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本人理解なし

救護所(きゅうごしょ)の端に、木箱を二つ並べただけの机が作られていた。

セラフィナはそこに譜札(ふさつ)を広げている。紙の上には、青い線が細かく走っていた。楽譜にも見えるし、地図にも見える。湊には読めない。

湊は机の前に立ち、手錠のかかった両手を腹の前で動かさないようにしていた。

エルゼは机から少し離れた椅子に座らされていた。左腕は吊られ、脇腹の布はさらに巻き足されている。立つなと言われているのに、横になろうとはしない。

グレゴールは救護班へ指示を出しながら、こちらの声が届く位置にいた。

湊は、朝から耳に残っていた言葉を思い出した。

聖歌院(せいかいん)裁定(さいてい)が下るまで。

セラフィナはそう言った。あの時は、自分の音が封鎖対象(ふうさたいしょう)になるという言葉の方ばかりが怖かった。けれど、机の上に譜札と封鎖箱(ふうさばこ)が並ぶと、裁定という言葉の方が逃げ場なく近づいてくる。

「あの、裁定って、何ですか」

湊は、机の前で立ったまま聞いた。

セラフィナの指が譜札の上で止まる。

「裁定は、罰を決めるというか、処遇を決める手続きです」

「俺をどう扱うかを決める場、ですか」

「近いです。ただし、領主(りょうし)評定(ひょうじょう)や都市の裁きではありません。聖歌院の裁定審(さいていしん)は、救助対象(きゅうじょたいしょう)監視対象(かんしたいしょう)封鎖対象(ふうさたいしょう)をどう扱うかだけでなく、免状(めんじょう)、監視役、戦線(せんせん)への同行可否(どうこうかひ)も決めます」

湊は言葉を飲み込んだ。

救助対象(きゅうじょたいしょう)

監視対象(かんしたいしょう)

封鎖対象(ふうさたいしょう)

自分がどれなのか、聞くまでもなかった。

「俺の扱いは、何を理由に決まるんですか」

セラフィナはすぐには答えなかった。

湊を見る目が、少しだけ変わる。怯えた救助対象を見る目ではない。記録に合わない空白を見つけた時の目だった。

「その前に確認します。あなたは本当に、裁定審を知らないのですか」

「…はい」

「領主の評定も、都市の裁きも、聖歌院の免状も、知らないのですか」

湊は答えられなかった。

白い紐。譜札。封鎖箱。救護班の歌。

目の前にあるものの役割は少しずつ分かってきた。けれど、この世界の制度としてどうつながっているのかは、何も分からない。

「知らない…です」

セラフィナの筆先が止まった。

「なるほど。その状態で、未調律(みちょうりつ)直出力(ちょくしゅつりょく)を使ったのですか」

責める声ではなかった。

だからこそ、逃げ場がなかった。

「あなたが悪意を持っていたからではありません」

セラフィナはそこだけ先に言った。

所属不明(しょぞくふめい)未調律(みちょうりつ)直出力(ちょくしゅつりょく)禁制機材(きんせいきざい)との接触。灰森での広域影響(こういきえいきょう)。本人にも説明できない加護(かご)。加えて、灰喰(はいぐ)いのヴァルグがあなたの音を観測(かんそく)して撤退(てったい)した事実」

一つずつ、譜札の上に線が増えていく。

「それらを、放置できません」

「助けようとしただけでした」

「はい、意図は記録します」

セラフィナは顔を上げた。

「ですが、結果も記録します」

湊は封鎖箱を見た。

曲がって黒く焼けた小さな金具。

たぶん、冠一二(かんいちに)から外れたものだ。

自分のことを説明できないまま、また誰かが自分の音を説明する。

それが怖かった。

「俺は」

喉が詰まった。

エルゼの視線が動く。何を言う気だ、と問い詰めるような目だった。

けれど、その先を彼女が知っているわけではない。黙っていれば、この世界の音も、聖歌も、裁定も、全部が他人の言葉で決まる。

湊は息を吸った。

「俺は、この世界の人間じゃありません」

救護所の外の歌が、耳に入りにくくなった。

セラフィナは、すぐには書かなかった。

「異国、という意味ですか」

「違います」

湊は右手を見た。

「別の世界で死にました。気づいたら白い場所にいて、そこで女神に会いました。最強魔法を渡すと言われて、プライマル・ブーストを渡されました」

言葉にすると、あまりにも馬鹿みたいだった。

でも、馬鹿みたいなまま、ここに来た。

「女神の名は」

セラフィナの声は固かった。

「確か…ルミ、なんとか…」

セラフィナの筆先が止まった。

暁律(ぎょうりつ)の女神、ルミネアですか」

「ああ、そうです。そう名乗っていました」

セラフィナはじっと湊を見つめていた。

「あなたが来た世界の地名は」

「東京、というところです」

セラフィナは眉をしかめた。知らない地名なのだろう。

「プライマル・ブーストの術式(じゅつしき)は」

「…術式、が良く分かってません。最強だと言われただけで、ルミネアは使い方も教えてくれなかったので…」

セラフィナは、まだ見つめていた。

異界来歴(いかいらいれき)自己申告。神性接触(しんせいせっしょく)自己申告。神名(しんめい)ルミネア自己申告。申告加護名(かごめい)プライマル・ブースト。正規加護名(せいきかごめい)照合不能(しょうごうふのう)本人理解(ほんにんりかい)なし」

本人理解なし。

その言葉が、胸に刺さった。

その通りだった。

エルゼが低く息を吐いた。

「……異世界(いせかい)から来たとはな」

湊は顔を上げた。

エルゼはじっと湊を見ていた。怒っているというより、痛みと驚きで目の奥が硬くなっている。

「すみません」

「謝るな。あとで聞く」

言い終えて、エルゼは脇腹へ右手を当てた。

「今は嘘を混ぜるな。知らないことは知らないと言え。知ったふりで鳴らしたら、また誰かを巻き込む」

セラフィナがエルゼを見る。

エルゼは目を細めた。

「そいつは、この世界の音を知らない。なら、それも記録しろ」

湊は何も言えなかった。

グレゴールが机の横まで来た。銀と群青(ぐんじょう)の鎧は白い粉で汚れている。顔の古傷(ふるきず)にも、細かい粉が入り込んでいた。

神代湊(かみしろみなと)

「はい」

現場判断(げんばはんだん)を伝える。君を今ここで処断(しょだん)することはしない。だが、許可なく六弦(ろくげん)に触れるな。許可なく内響(ないきょう)を上げるな。右手に熱が上がった時点で、近くの聖歌院員(せいかいいん)へ報告しろ」

命令は短かった。

湊は頷きかけて、声にしなければいけないと思い直した。

「分かりました」

グレゴールは頷かなかった。ただ、次の命令へ移った。

「ルーン記録官。移送対象(いそうたいしょう)の一覧を」

重傷者(じゅうしょうしゃ)十三名、歩行可能な救助対象(きゅうじょたいしょう)十二名、証言保持者(しょうげんほじしゃ)三名。子どもは一名です」

子ども。

湊は顔を上げた。

「ルカは、どこにいますか」

セラフィナの指が止まる。

「東の荷布(にぬの)にいます。命に別状はありません」

命に別状はない。

「会うことはできますか」

監視下(かんしか)でなら」

セラフィナは譜札を閉じた。

「ただし、歌わせようとしないでください」

「分かりました」

エルゼが椅子の肘へ手をかけた。

「あたしも行く」

「あなたは動かないでください」

セラフィナが即座に言った。

「歩ける」

「歩けるかどうかではなく、傷が開くかどうかです」

エルゼは立とうとして、顔を歪めた。

湊は反射的に両手を出しかけた。

手錠が鳴る。

二つの輪に引かれた手は、届く前に止まった。支えるつもりの動きでも、今の自分は周囲を警戒させる。

同じ瞬間、セラフィナがエルゼの肘へ手を伸ばした。

湊の手だけが、宙で行き場を失った。

「お前は動くな」

エルゼが湊に言った。


聖歌院(せいかいん)支院へ護送(ごそう)する。異界来歴(いかいらいれき)を含め、裁定審(さいていしん)は今日始まる」

今日。

その一語で、湊の足がまた動かなくなった。

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