白い紐の外側
救護所の外れで、黒い土が白い粉へ変わっている。その境目には銀の杭が打ち込まれ、何枚もの譜札が結ばれていた。夜明けの風が吹くたび、札の端が小さく震える。紙の音はするのに、その向こうの白い粉からは何も返ってこない。
湊の両手首には、白い手錠がかかっている。輪と輪の間に鎖はない。けれど、細い青い譜線がつながっていて、両手を離そうとすると右手の奥の熱が輪の内側へ押し戻される。
手錠をかけたあと、セラフィナはそれを封音手錠と呼んだ。世俗の罪人を縛る道具ではなく、裁定前の音を外へ出さないための仮封じ。内響の急上昇、無断の六弦接触、右手の熱を記録するものだと説明された。
村は、そこにある。
北門も、井戸道も、倒れた荷車も、白い粉の向こうにある。
なのに、もう村とは呼べなかった。
湊の前には、白い紐で囲われた小さな記録台があった。
台は救護所の内側ではなく、黒い土と白い粉の境目に近い場所へ置かれている。そこまでの地面にも譜札が並び、湊の立つ場所からは三歩以上離されていた。
記録台の上に、割れた冠一二がある。
胴は裂け、切れた弦はまとめて白い布へ留められていた。腕はまだ、あれを抱えていた重さを覚えていた。
湊は、記録台から目を離せなかった。
手錠のかかった両手を、腹の前で握った。
「白い紐の内側には入らないでください」
セラフィナがすぐ横で言った。
湊は足を動かしていなかった。彼女は、湊の視線だけを見て先に言ったのだ。白金の聖歌衣の袖を少し汚したまま、細い杖を持って立っている。粉と血の跡が乾き、白い布の上で薄い茶色になっていた。視線は湊の顔ではなく、記録台と白い紐に向いていた。
「はい。入りません」
湊は反射的に答えた。
それから、言葉を探した。
「これは、どうなるんですか」
セラフィナは記録台を見る。
「あなたに貸与されていたものだとは記録しています」
「はい」
「ですが、破損原因は未調律の直出力です。現時点では、あなたへ返却できません」
「エルゼさんの六弦もですか」
湊は記録台の隣を見た。
別の封鎖台がある。
弦を外された王冠胴が、胴と首を分けて固定されていた。エルゼの六弦だった。ヴァルグの白い面に低いリフを食い込ませた六弦だ。
今は、銀の杭のそばで沈黙している。
「持ち主本人の確認が終わるまで、こちらも封鎖記録です。救護が優先ですので、今は動かしませんが」
「勝手に廃棄するな」
かすれた声がした。
少し離れた荷布の下で、エルゼが横たえられていた。左腕は板で固定され、脇腹には白い布が固く巻かれている。
湊は息を止めた。
エルゼが目を開けていた。顔色は悪い。額に汗が浮いている。それでも、青灰の目は封鎖台の方へ向いていた。
「エルゼ」
「私のだ。確認するなら、私に聞け」
言い終えるだけで、エルゼは短く息を吸った。脇腹の布が少し沈む。
「起きて、大丈夫ですか」
「大丈夫に見えるか」
「……見えません」
セラフィナがエルゼへ一歩近づいた。
「動かないでください。止血が開きます」
「動いてない。目を開けただけだ」
「今の発声でも脈が上がっています」
「見なくていい」
「救護記録上、見ます」
二人の声は噛み合わない。けれど、話題は同じところへ戻っていた。湊と、湊から離された二本の六弦だ。
「救助対象は南側へ集めろ。声が返る者から先だ。返らない者を動かすな」
グレゴールの声が、救護所の外で響いた。
白い衣の者たちが動く。命令は短い。誰も返事を大きくしない。白い粉の近くでは、余計な音を立てないようにしている。
湊は救護所の外を見た。
生き残った人たちは、黒い土の上に集められている。泣く声がある。押し殺した息がある。木札を叩く乾いた音もある。
ただ、その返事は少なかった。
ハンナの木札は鳴らない。
ダーヴの剣も、北道側に残ったままだ。
湊は喉の奥が詰まった。
「神代湊」
セラフィナが名を呼んだ。
「あなたは救助対象です。歩けるなら、こちらの指示に従ってください」
湊は前にそろえられた両手を見た。
白い輪の内側で、皮膚が少し赤くなっている。
「手錠をかけられていても、救助対象なんですか」
自分でも、声が小さいと思った。
セラフィナは少しだけ眉を動かした。
「はい。あなた本人は救助対象です。ですが、今のあなたの音は、周囲の救助対象に被害を出す可能性があります」
湊は言い返せなかった。
畑を壊した。
冠一二を壊した。
低い二本で足元だけは保った。
でも、ハンナは戻らない。ダーヴも戻らない。南へ逃げた列の木札も、まとめて消えた。
「あなたを助けることと、あなたの音を自由にすることは、同じではありません」
セラフィナはそう言って、譜札を一枚閉じた。
青い線が紙の中で細く消える。
「その違いを、今は守ってください」
「……分かりました」
湊は、白い杭の向こうを見た。
ハンナの木札は鳴らない。
ダーヴの剣も動かない。
ここに立って見ていても、誰も返事をしない。分かっているのに、白い杭の前から足が離れなかった。
セラフィナが救護所の端を示した。
「救護記録を取ります。歩ける状態か、右手の熱が上がっていないかを確認します。こちらへ」
「はい」
その返事が情けないくらい小さくなった。
それでも、湊は白い杭から下がった。救護班が担架を通す道を空け、黒い土の上をセラフィナが示した方へ一歩ずつ歩く。前にそろえた両手の手錠が、小さく鳴った。
冠一二も、王冠胴も、白い紐の内側に残った。




