譜札の記録官
「第一声列、北門を押さえろ。第二声列、南の返り場へ回れ。救護班は東だ。生存者を白い面から引き剥がすな、黒い土へ誘導しろ」
グレゴールの命令は短かった。
怒鳴ってはいない。
それなのに、白い衣の列が一斉に動いた。
北門に声が集まる。南の端へ別の声が流れる。東の畑道へ救護の白衣が走る。誰も倒れた人の腕を強く引かない。白い面に沈んだ体は、無理に動かせないものとして扱われていた。
湊はそれを見ていた。
ヴァルグが白骨の六弦を上げた。
低い一音。
白い線が、湊とエルゼの足元へ走る。
グレゴールが前へ出た。
銀と群青の鎧が、白い線の前に立つ。
儀礼剣が振り下ろされた。金属の音はしなかった。白い粉が剣にまとわりつき、刃を薄く抜いていく。
グレゴールの靴が沈みかけた。
少女が札を一枚投げた。
札はグレゴールの足元で開き、青い譜線を地面へ広げた。
「第五譜札、足場固定」
譜札。
それが、少女の持っていた細かな札の名らしかった。薄い白札の表面に、楽譜のような青い線が走っている。その声に合わせて、線だけが震えていた。
グレゴールの靴が止まる。
白い線も、そこで止まった。
「灰喰いのヴァルグ」
グレゴールが言った。
「四使徒記録と照合。封鎖対象、第一級」
灰喰い。
四使徒。
湊には意味が分からない。
だが、聖歌院は、目の前の敵を知っている。
ヴァルグの仮面がわずかに傾いた。
次の低音が来る。
湊は再び低い二本を押さえた。左手が痛い。右手は熱い。だが躊躇する時間はなかった。
「…プライマル・ブースト」
低い二本を鳴らした。
そのとき、少女が湊の前に膝をついた。
白い粉の中で、淡い金髪が揺れる。
近くで見ると、彼女の顔は冷たいほど整っていた。けれど、指は速い。もう二枚の譜札を抜いている。
そのうちの一枚を湊が抱えている六弦に貼り付けた。
その瞬間、譜札がバチンという音を出して弾け飛んだ。六弦の音も完全に消えた。
「聖歌院記録照合官、セラフィナ・ルーン。救助対象二名を保護します」
セラフィナ・ルーン。
彼女は湊とエルゼの間へ譜札を置いた。
青い線が足元を囲む。白い粉がその外で止まった。壁のようには見えない。だが、白い面はこちらへ来られなくなった。
「もう、その弦を鳴らす必要はありません」
彼女は湊の目を見て言った。とても澄んだ瞳だった。思わず目をそらす。
「対象一、所属不明の六弦使用者。直前の低弦二本。正規奏法ではありません」
譜札の一枚に、青い文字のようなものが浮かんでいた。
セラフィナはそれを見ずに続けた。
「対象二、女性六弦使い。重傷。王冠胴あり。救護優先」
恐らく、あの譜札に文字を残しているのだろう。
記録照合官。
湊の指から漏れる熱が、譜札の青い線に触れて弱まったように感じた。
グレゴールの剣が、またヴァルグの一撃を受けた。
今度はヴァルグ本人が少し前へ出ている。
白骨の六弦の胴が、儀礼剣の刃をまた押し返した。
乾いた音がした。
グレゴールの肩が沈む。
しかし、膝は折れない。
足元の譜札が青く光っている。
「下がらせろ、ルーン」
「了解。救助対象の保護を優先。団長、足場はあと二拍です」
セラフィナの返事は早かった。
グレゴールは笑わなかった。
剣の角度だけを変え、ヴァルグの六弦を横へ流す。
白い線が北門の石にぶつかり、粉になって散った。
「ここは通さん」
グレゴールが言った。
不意に、セラフィナは湊の手を握った。柔らかい手だった。
「立てますか?後ろに下がってください」
「あ、ああ、分かった」
湊はゆっくりと立ち上がり、エルゼの方へ下がった。
セラフィナは湊の手を離し、杖を構えた。
ヴァルグはグレゴールと対峙しながらそれをじっと見つめていた。
「未調律の増幅。ここで逃がすわけにはいかんな」
その声は、湊へ向いていた。
セラフィナの譜札が一枚、勝手に震えた。
彼女はすぐに指で押さえる。
「灰喰いの発話、記録。未調律の増幅、照合不能」
ヴァルグが弦を鳴らした。
白い面が低く盛り上がる。
譜札の青い線がきしむように震えた。
セラフィナが杖を地面に立てた。
「第二声列、救助対象の外縁。第三声列、団長の後背」
声列の歌が変わる。
北門の端と、湊たちの周りと、グレゴールの背中に、別々の声が重なっていく。
セラフィナが息を吸った。
「聖歌支援に入ります」
彼女の歌が、声列の上に重なった。湊は固唾をのんだ。まるでオペラ歌手のような、とても美しい歌声だった。
それはメタルやロックのような力強さというよりも、クラシックの荘厳さと歴史を感じさせる、聞く者を魅了する、圧倒する歌声だった。
グレゴールの剣にまとわりついていた白い粉が落ちる。
ヴァルグは白い六弦で剣を弾き、後ろへと飛び下がった。
一瞬だけ、白い仮面に亀裂が入ったのが見えた。だが、次の瞬間には元に戻っていた。
グレゴールが一歩詰めた。
「灰喰いのヴァルグ。逃がすわけにはいかんな」
ヴァルグの仮面が、わずかに傾いた。
笑ったのか、見ただけなのか、湊には分からない。
「なるほど六弦だけでは分が悪いな」
ヴァルグが言った。
次の瞬間に、またヴァルグが六弦を鳴らした。メタリカのリフだ。グレゴールは剣で構える。セラフィナは杖を立ててまた聖歌を歌った。
地面の白い粉がヴァルグとグレゴールの間で舞い上がった。セラフィナの歌声で押し返されたようだった。
白い粉が落ちる頃には、そこにヴァルグの姿はなかった。
逃げたのだろうか。
退いたのだろうか。
グレゴールは追わなかった。
「追撃するな」
声列の前へ、儀礼剣を横に置く。
「封鎖を優先しろ。救護班、東へ。第二声列は南の黒い土を守れ。ルーン記録官、救助対象を保て」
「承知しました」
セラフィナは杖を持ち直し、譜札を押さえたまま答えた。




