サイレント・タグ
フェルドが息を引き取ったあと、村は弔いと備えを同時に始めた。
どちらかだけを選べる時間はなかった。
北門の外には、白旗が残っている。聖歌院への早鳴りは出た。返事は、まだない。
フェルドの体は北門の内側へ運ばれ、井戸へ続く道の脇に寝かされた。北門の正面ではない。門から村へ入る道と、東の井戸へ曲がる道が分かれる少し手前だった。
白い布が掛けられている。
布の下に人の形があると分かるだけで、湊は目を逸らしたくなった。
ダーヴは逸らさなかった。
「北門の正面を空けろ。荷車は南へ向ける。子供と年寄りは水を持たせて、見張り台側へ流せ」
男たちが荷車の向きを変える。車輪が土を削り、フェルドの布から離れていく。
「井戸で止めるな。水桶を持たせたら南だ。火皿は倒すな。荷を積みすぎるな」
ハンナがうなずき、子供たちを東の井戸へ一度寄せた。水桶を持たせるためだった。そこに留めるためではない。ルカは胸の木札を片手で押さえ、もう片方の手で小さな子の袖をつかんでいる。
北門の内側は、村へ入る道と、東の井戸へ曲がる道と、南の見張り台側へ抜ける道が近くで分かれる場所だった。そこが詰まれば、北から戻る者も、南へ逃げる者も、同じ場所で止まる。
「ミナト」
エルゼに呼ばれ、湊は顔を上げた。
エルゼは門の外を見ていた。フェルドを見ていないわけではない。ただ、見続けている余裕がない。
「冠一二は抱えていろ。弾くな」
「分かってます」
「分かってる顔をしろ」
湊は返事を飲み込んだ。
分かっているつもりだった。だが、フェルドの布を見ていると、右手の奥が勝手に熱くなる。何かしなければ、という焦りが、朝の一音を都合よく思い出させる。
一本だけなら鳴った。
でも、それは止まった広場での一音だ。
エルゼは湊の右手を見て、短く息を吐いた。
「今は、鳴らさないことも仕事だ」
その言葉は、思ったより重かった。
村人たちが集まり始めた。
誰も大きな声を出さない。正式な葬儀ではないのだと、湊にも分かった。火を組み直し、長い歌を歌い、家族が別れを言うような時間はない。けれど何もしないまま荷車の邪魔にならない場所へ置いたままにすることはできない。
ハンナが小さな火皿を持ってきた。
昨夜の宴で使っていたものよりずっと小さい。火は細く、風が吹けば消えそうだった。ハンナはそれをフェルドの頭のそばに置き、布の端を直す。
指先は震えていなかった。
震えないようにしているのだと、湊には分かった。
ダーヴが胸元から木札を外した。門番たちもそれにならう。村の子供たちが胸に下げているものより古く、角が丸い札だった。
ダーヴが札を鳴らす。
こつ、と乾いた音がした。
一人ずつ、同じように鳴らした。こつ。こつ。こつ。音は短い。歌ではない。拍にもならない。それでも、フェルドの名前を呼ぶ代わりの音なのだと分かった。
湊は自分の革袋へ手を入れた。
昨夜、エルゼに見せた木札が指に触れる。
村の札ではない。護符でもない。正体は分からない。そう言われた札だった。
湊はそれを取り出し、そっと鳴らしてみた。
何も返らなかった。
木と木が触れたはずなのに、音が薄い。いや、音になっていない。手の中で、ただ乾いた重さだけが残る。
周りの木札は、短くても鳴っている。
自分の木札だけが黙っている。
「ミナトにいちゃん」
ルカが小さく呼んだ。
いつもなら、もっと近くへ来る。だが今はハンナのそばから離れない。
「歌ったほうがいい?」
ルカはフェルドを見ていた。子供の声で聞いているのに、その顔は子供だけのものではなかった。戻り火で、村の声をつないでいた子だ。何かを歌えば、何かが返ると思いたいのかもしれない。
湊は答えられなかった。
ハンナがルカの肩へ手を置いた。
「今はいい」
ルカはハンナを見上げた。
「でも」
「今は、歌で送る時間じゃない。聖歌院の返事を待つ時間だよ。あんたは南へ行く子を見て」
ハンナの声はやさしかった。
だから余計に、ルカは口を閉じた。
ダーヴが最後にもう一度、木札を鳴らした。
こつ。
その小さな音が終わったあと、誰もすぐには動かなかった。
湊はフェルドの布を見ていた。
北の討伐隊の兵士。
そう言えば、知らない人で済んだかもしれない。
でもフェルドは、昨夜の鍋の話にいた。
鍋を焦がすとうるさい人。
帰ったら最初に鍋を見に来る人。
人の顔より先に鍋を見ると、ハンナに笑われていた人。
そういう人が、白い布の下にいる。
帰ってきたのに、戻れなかった。
北の森から、鳥の声が消えた。
最初は気のせいだと思った。弔いの間、村人が黙っていたから、周りまで静かに聞こえるだけだと思った。
だが、違った。
北門の外に立っていた門番が、ゆっくり顔を上げる。ダーヴも見張り小屋の方を見た。エルゼの右手が、実戦用の六弦の首へ伸びる。
湊も門の外を見た。
見張り小屋の横の白旗が、朝より薄く見えた。
風で揺れたのではない。布の皺が遠くから分かりにくくなっている。旗の下に落ちている影も、輪郭が薄くなっていた。
その奥。
森道の入口の草が、一本ずつ色を失っていった。
枯れるのではない。焼けるのでもない。葉の形は残ったまま、緑だけが抜ける。土の車輪跡も、黒さを薄くしていく。森の奥から、白く抜けた領域がこちらへ滲んでくる。
「これは…グレイアウトだ…」
エルゼが低く言った。
聞き慣れない言葉だった。だが、エルゼの声で、それが名前なのだと分かった。
「あの中では音が返らない。鳴り板も木札も、…六弦も」
ダーヴの顔が変わった。
「みんな、南へ逃げろ!見張り台側だ。井戸で止まるな!」
村人たちが動き直す。水桶を持った子供が南へ走り、年寄りを支える大人がその後を追う。ハンナはルカを荷車の脇へ寄せ、食料袋と火皿を選び分けていた。全部は持てない。持てるものだけを積む手だった。
湊は冠一二を抱えたまま、白旗の向こうを見ていた。
白くなった範囲は、燃えたあとの灰ではない。
音を投げても、返ってこない場所だ。
誰かが息を呑んだ。
言葉になる前に、北門の鳴り板が短く鳴った。
一度だけ。
乾いた音は鳴った。だが、とても奇妙に聞こえた。グレイアウトと呼ばれた場所に、何か大きな塊があるような感覚だ。
グレイアウトの側から反響音が聞こえてこないからだろう。目に見えない壁のような、音を吸う何かがあるような奇妙な音の鳴り方だった。
フェルドの弔いは、まだ終わっていない。
それなのに、森道の奥から、次の何かが来ていた。




