表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/25

ホワイト・フラッグ

白旗が降伏の印ではないと知ったのは、北門へ向かう途中だった。

さっきの話は中途半端になった。エルゼは続きを聞かない。聞かないまま、北へ急いでいる。背には、傷だらけの王冠胴(おうかんどう)の六弦があった。ハンナは濡れ布と水の椀を抱え、ダーヴは門番へ短く合図を飛ばしていた。

「白旗は助けを呼ぶ旗だ」

エルゼが歩きながら言った。

「白旗を見たら、聖歌院(せいかいん)早鳴(はやな)りを出す。それが村の決まりだ」

湊は冠一二(かんいちに)を肩にかけたまま歩いていた。置いていけとは言われなかった。弾くためではない。持っていろ、とエルゼが目で言ったから持っているだけだった。

朝は少しだけ軽く感じた胴が、北門へ近づくほど重くなる。

広場から北門までは遠くない。

門に近づくほど、人の声が小さくなった。

門番も、荷車を押していた男も、誰も大声を出さない。白旗という言葉だけで、村の北側の空気が薄くなったようだった。

門番の一人が、外を指した。

「見張り小屋です。白旗も小屋の横に」

北門といっても、立派な城門ではなかった。荷車が通れる幅の出入口に、太い門柱と鳴り板がある。低い木柵と浅い堀が左右へ続き、外へ出ると道はすぐ細くなった。

右手に低い土手。

左手に、灰森へ続く藪。

見張り小屋は門から五十歩ほど先にあり、壁は半分だけで、屋根と横木と火皿台が残っていた。

そこに、男が寝かされていた。

白い布を結んだ棒が、小屋の横木に立てかけられている。白いはずの布は、色を吸われたようにくすんでいた。

ハンナが息を吸った。

「フェルド」

その名前で、昨夜の笑い声が湊の中へ蘇った。

鍋を焦がすとうるさい。帰ったら最初に鍋を見に来る。人の顔より先に。

目の前の男は、鍋のことを笑って言える顔ではなかった。

若いはずなのに、頬が乾ききっている。唇は割れ、首筋には細い譜線(ふせん)みたいな、色の抜けた跡が走っていた。手の指にも同じ線がある。

声を出す場所。

弦を押さえる場所。

そこだけを狙われたように見えた。

「水」

ハンナは椀に水を汲み、飲ませようとした。

エルゼが手首を押さえた。

「飲ませるな。口を濡らすだけ」

ハンナは唇をかみ、布を湿らせてフェルドの口へ当てた。手が震えている。それでも、雑にはならない。

門番が白旗を見て言った。

「聖歌院へ早鳴りを出します」

「行け」

ダーヴが答えた。

門番は村の方へ走った。ダーヴは残り、北門と道と荷車を見ている。フェルドのそばへ膝をつきたい顔をしているのに、目は村の導線を離さない。

エルゼがフェルドのそばへ膝をついた。

「何を見た」

フェルドの目だけが動いた。

喋ろうとすると、喉の色の抜けた跡が細かく震える。声になる前に、息が折れる。唇の端に白い粉が残った。

「フェルド、村だよ」

ハンナが手を握った。

「帰ってきた。分かる?」

フェルドの目が動いた。

分かっている。

でも、安心していない。

その動きだけは、湊にも分かった。

「おう……じゃ」

声はそこで切れた。

王。

湊の中で、畑で聞いた噂が戻る。北の討伐隊。帰らない人たち。村の大人が冗談みたいに言うという、無響王(むきょうおう)の下。

「無理しないで」

ハンナが言う。

フェルドは、かすかに首を振った。

「王……じゃ……ない」

エルゼの目が細くなる。

「王ではない何かがいたのか」

フェルドの唇から、白い粉が落ちた。

王ではない。

つまり、噂の一番奥にいるもの本人ではない何かだけで、北の討伐隊はここまで壊された。

フェルドの目がエルゼを見る。

まだある。

そう言っているように見えた。

「ヴァ……」

声が折れる。

ハンナが首を振った。

「もういい。もう言わなくていい」

フェルドはもう一度だけ息を吸った。

「ヴァル……グ」

名前が出た。

ヴァルグ。

湊は、その音だけを覚えた。

フェルドは小屋の外へ目を向けた。朝の光が、門の外の道を白く照らしている。土手の草も、火皿の赤い布も、まだ色を持っていた。

フェルドの指が板をかいた。

鍋をかき混ぜるみたいな、小さな動きだった。

「鍋……焦がすな」

ひどく小さな声だった。

それでも、ハンナには聞こえた。

「帰ってきて最初にそれ言うの」

フェルドは笑おうとした。

笑いにはならなかった。

息が抜け、喉の奥で白い粉がこすれる。

それきり、胸の上下が止まった。

ハンナはしばらく、手を握ったままだった。


湊は冠一二を抱えて立っていた。

何もできなかった。


ダーヴが低い声で門番へ指示を出した。

「フェルドを門の内側へ運べ。白旗は下ろすな」

門番たちはうなずき、フェルドの体を白い布ごと持ち上げた。ハンナは最後まで手を離さず、門をくぐる直前でようやく指をほどいた。

白い旗だけが、見張り小屋の横に残った。


人は、帰ってきても助からないことがある。

湊は初めて、それを目の前で見た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ