ホワイト・フラッグ
白旗が降伏の印ではないと知ったのは、北門へ向かう途中だった。
さっきの話は中途半端になった。エルゼは続きを聞かない。聞かないまま、北へ急いでいる。背には、傷だらけの王冠胴の六弦があった。ハンナは濡れ布と水の椀を抱え、ダーヴは門番へ短く合図を飛ばしていた。
「白旗は助けを呼ぶ旗だ」
エルゼが歩きながら言った。
「白旗を見たら、聖歌院へ早鳴りを出す。それが村の決まりだ」
湊は冠一二を肩にかけたまま歩いていた。置いていけとは言われなかった。弾くためではない。持っていろ、とエルゼが目で言ったから持っているだけだった。
朝は少しだけ軽く感じた胴が、北門へ近づくほど重くなる。
広場から北門までは遠くない。
門に近づくほど、人の声が小さくなった。
門番も、荷車を押していた男も、誰も大声を出さない。白旗という言葉だけで、村の北側の空気が薄くなったようだった。
門番の一人が、外を指した。
「見張り小屋です。白旗も小屋の横に」
北門といっても、立派な城門ではなかった。荷車が通れる幅の出入口に、太い門柱と鳴り板がある。低い木柵と浅い堀が左右へ続き、外へ出ると道はすぐ細くなった。
右手に低い土手。
左手に、灰森へ続く藪。
見張り小屋は門から五十歩ほど先にあり、壁は半分だけで、屋根と横木と火皿台が残っていた。
そこに、男が寝かされていた。
白い布を結んだ棒が、小屋の横木に立てかけられている。白いはずの布は、色を吸われたようにくすんでいた。
ハンナが息を吸った。
「フェルド」
その名前で、昨夜の笑い声が湊の中へ蘇った。
鍋を焦がすとうるさい。帰ったら最初に鍋を見に来る。人の顔より先に。
目の前の男は、鍋のことを笑って言える顔ではなかった。
若いはずなのに、頬が乾ききっている。唇は割れ、首筋には細い譜線みたいな、色の抜けた跡が走っていた。手の指にも同じ線がある。
声を出す場所。
弦を押さえる場所。
そこだけを狙われたように見えた。
「水」
ハンナは椀に水を汲み、飲ませようとした。
エルゼが手首を押さえた。
「飲ませるな。口を濡らすだけ」
ハンナは唇をかみ、布を湿らせてフェルドの口へ当てた。手が震えている。それでも、雑にはならない。
門番が白旗を見て言った。
「聖歌院へ早鳴りを出します」
「行け」
ダーヴが答えた。
門番は村の方へ走った。ダーヴは残り、北門と道と荷車を見ている。フェルドのそばへ膝をつきたい顔をしているのに、目は村の導線を離さない。
エルゼがフェルドのそばへ膝をついた。
「何を見た」
フェルドの目だけが動いた。
喋ろうとすると、喉の色の抜けた跡が細かく震える。声になる前に、息が折れる。唇の端に白い粉が残った。
「フェルド、村だよ」
ハンナが手を握った。
「帰ってきた。分かる?」
フェルドの目が動いた。
分かっている。
でも、安心していない。
その動きだけは、湊にも分かった。
「おう……じゃ」
声はそこで切れた。
王。
湊の中で、畑で聞いた噂が戻る。北の討伐隊。帰らない人たち。村の大人が冗談みたいに言うという、無響王の下。
「無理しないで」
ハンナが言う。
フェルドは、かすかに首を振った。
「王……じゃ……ない」
エルゼの目が細くなる。
「王ではない何かがいたのか」
フェルドの唇から、白い粉が落ちた。
王ではない。
つまり、噂の一番奥にいるもの本人ではない何かだけで、北の討伐隊はここまで壊された。
フェルドの目がエルゼを見る。
まだある。
そう言っているように見えた。
「ヴァ……」
声が折れる。
ハンナが首を振った。
「もういい。もう言わなくていい」
フェルドはもう一度だけ息を吸った。
「ヴァル……グ」
名前が出た。
ヴァルグ。
湊は、その音だけを覚えた。
フェルドは小屋の外へ目を向けた。朝の光が、門の外の道を白く照らしている。土手の草も、火皿の赤い布も、まだ色を持っていた。
フェルドの指が板をかいた。
鍋をかき混ぜるみたいな、小さな動きだった。
「鍋……焦がすな」
ひどく小さな声だった。
それでも、ハンナには聞こえた。
「帰ってきて最初にそれ言うの」
フェルドは笑おうとした。
笑いにはならなかった。
息が抜け、喉の奥で白い粉がこすれる。
それきり、胸の上下が止まった。
ハンナはしばらく、手を握ったままだった。
湊は冠一二を抱えて立っていた。
何もできなかった。
ダーヴが低い声で門番へ指示を出した。
「フェルドを門の内側へ運べ。白旗は下ろすな」
門番たちはうなずき、フェルドの体を白い布ごと持ち上げた。ハンナは最後まで手を離さず、門をくぐる直前でようやく指をほどいた。
白い旗だけが、見張り小屋の横に残った。
人は、帰ってきても助からないことがある。
湊は初めて、それを目の前で見た。




