ワン・ノート
夜の宴が終わったあと、湊はエルゼの家へ戻された。
戻された、という言い方が一番近い。自分では広場の片づけくらい手伝うつもりだったが、エルゼが「寝ろ」と言い、ハンナが「寝ないやつは朝に手を切る」と言い、ルカがあくびをしながら手を振った。
逆らう理由も、体力もなかった。
明け方、薄い麦湯だけを飲まされ、湊はエルゼに連れられて東外れの家を出た。
村の中央へ向かう道には、夜の火の匂いがまだ残っている。低い木柵の向こうでは、畑へ出る大人が鍬を肩に担いでいた。東の井戸では、子供が木札を胸で鳴らしながら水桶を押さえている。
広場脇へ着くと、昨夜の火皿は片づけられ、灰だけが丸く土を染めていた。三つの大鍋は伏せられ、ハンナが包丁で朝の支度をしている。昨日は笑い声と歌で埋まっていた場所が、今は水を汲む音と、木札を束ねる乾いた音だけになっていた。
エルゼが荷台の上から布を外した。
冠一二が出てきた。
増幅器は外されたまま。歪響箱もつながれていない。古い胴と六本の弦だけが朝の光を受けている。
「肩」
エルゼが短く言った。
湊は肩帯へ腕を通した。昨日よりは迷わなかったが、重さは変わらない。胴が腹へ当たり、首が少し前へ倒れる。慌てて背筋を戻すと、今度は肩が上がった。
エルゼはそこを見逃さない。
「右手を小さく」
それだけ言って、湊の正面から一歩退いた。
湊は低い弦へ左手を置いた。
鳴らすのは一本。
止めるのは五本。
昨日、戻り火の中で一音だけ鳴らせたはずだった。だが朝の広場では、体のどこも昨日の成功を覚えていない。左手の人差し指は低い弦の上で固まり、親指は首の裏を押しすぎる。右手の撥は、狙った一本の隣まで欲張って触ろうとする。
ぼん、と濁る。
次は鳴らない。
その次は、余計な弦が一緒に震える。
「低い一本だけを見すぎるな」
エルゼは湊の左手を見ていた。
「他の五本が起きている。鳴らしたい一本だけじゃない。鳴らしたくない五本を止めろ」
「止める方が多いですね」
「だから難しい」
あっさり言われて、湊は息を吐いた。
今度は撥を落とす前に、左手の腹で隣の弦へ軽く触れた。力を入れすぎると、全部が詰まる。抜きすぎると、余計な音が出る。
低い一本へ、撥を小さく落とす。
ぼん。
さっきより、ましだった。
余計な弦は鳴っていない。少なくとも、湊の耳にはそう聞こえた。
「今のが一番いい」
エルゼが言った。
湊はうなずいた。
それでも、胸の奥が少し熱くなる。
一本だけなら鳴る。
「弾けた、って言っていいですか」
「だめ」
即答だった。
「今のは、止まった場所で一本だけ鳴った。弾けたんじゃない。崩れなかっただけだ」
「それでも、昨日よりは」
「昨日よりは進んだ」
エルゼはそこで、ほんの少しだけ声をやわらげた。
「次はまた崩れるぞ。気を付けろ」
湊は返事に迷った。普通なら嫌な言い方だ。だが、エルゼが言うと、脅しというより現場の天気みたいに聞こえる。晴れたら影が出る。水を汲めば桶は重くなる。少し進めば、そのぶん次の失敗もはっきり見える。
広場の端で、ハンナが大きな包丁を使っていた。
昨夜の鍋に残った根菜を薄く切り、焦げたところを落としている。包丁は料理の道具でしかないはずなのに、朝の光を受けた刃は思ったより白く見えた。
畑で灰色の獣が飛び出した時、村人たちは鍬や棒を握っていた。
門番は槍を持っている。
ハンナの手には包丁がある。
なのに、獣の奥をほどいたのはエルゼの六弦だった。
「エルゼ」
「何だ」
「ああいう刃物で、魔物って倒せるんですか」
エルゼの目が、ハンナの包丁から湊へ移った。
「倒せる相手もいる」
「いる、ってことは、倒せない相手もいるんですか」
「獣なら切れば死ぬ。人も同じだ。けれど、鳴核を持った魔物は違う」
エルゼは冠一二の胴へ指を当て、まだ残っていた震えを止めた。
「刃で足は止まる。殻も割れる。核が見えれば、歌や六弦がそこへ届く。だから槍も剣も盾も要る。前で止めてこじ開ける奴がいなければ、歌う奴も弾く奴も食われる」
「じゃあ、物理攻撃が無意味なわけじゃない」
「無意味なら門番が槍を持つか」
エルゼは短く言った。
「ただ、刃だけで鳴核ごと潰すと後が悪い。畑に濁りが残る。次に出るものが、もっと悪くなることもある」
湊は畑の黒い溝を思い出した。
自分が撃った強すぎる力。獣は止まった。だが、畝は深くえぐれ、黒く濁った。
「倒すのと、終わらせるのは違うんですね」
「そうだ」
エルゼは湊の右手を見る。
「お前の力も同じだ。強く押すだけなら、外側は壊せる。だが、後が濁る。今の冠一二で受けたら、楽器の方が先に壊れる」
湊は右手を握った。
「鳴らせたから使える、と思うな。今朝の一音は練習の一音だ。戦いへ持ち込むには早い」
「分かってます」
「分かってる顔じゃない」
エルゼの目が少し細くなる。
「それより、お前はどこまで知らない」
「え」
「刃が効くかどうかなんて、子供でも知ってる。お前は村の名も、聖歌院も、六弦も知らない。なのに、返しを別の言葉で知っている」
湊は息を止めた。
リフ。
畑でエルゼの音を聞いた時、自分はそう言った。あの時から、エルゼはずっとそこを見ていたのだと分かった。
「どこの生まれだ」
「遠いところです」
「遠いだけなら、包丁と槍くらいは知っている」
エルゼの声は怒っていない。だから逃げ道がなかった。
湊は冠一二の肩帯を握った。昨夜、木札を見せた時も、エルゼは知らないと言った。女神の白い部屋。海。目を覚ました森。言わないまま進むには、もう無理がある。
「エルゼ」
「何だ」
「俺、本当は、ここで生まれた人間じゃない。普通の旅人でもない。俺は、一度……」
北門の鳴り板が叩かれたのは、その時だった。
一度。
少し間を置いて、二度。
広場の音が止まった。
ハンナの包丁も止まる。エルゼの視線が北へ飛ぶ。湊はまだ言いかけた言葉を口の中に残したまま、冠一二の肩帯を握っていた。
ダーヴが井戸の方から走ってきた。
「白旗だ。討伐隊の誰かが戻った」
朝の光の中で、その言葉だけがやけに乾いて聞こえた。




