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18/23

黙った木札

夕方、戻り火の本体は終わった。

東の井戸も、西の柵も、南の見張り台も、北門も、最後まで返った。ダーヴが広場の土に引いていた四本の線を足で消すと、村人たちはそこでようやく肩を下ろした。

冠一二(かんいちに)は、広場脇の荷台へ布をかけて寝かされている。湊の肩にはまだ革帯の痛みだけが残っていた。

火皿の明かりが増え、誰かが最初に笑う。

張っていた空気が、一気にゆるんだ。

そこからは宴会だった。

麦と豆と根菜の煮込みが配られ、焼いた芋が灰の中から掘り出される。肉は少ないらしく、鍋の中身はほとんど畑と井戸のものだった。火皿を運んでいた子供たちは木札を胸に下げたまま椀を抱え、大人たちは交代で北門や見張り台へ戻りながら、酒を薄く割って飲んでいた。

昼のように村を数える歌ではない。

それでも、誰かが鍋の縁を軽く叩き、別の誰かが短く歌う。子供たちの木札が歩くたびに鳴る。夜の広場は、正式な行事を終えたあとも、まだ小さな音で満ちていた。

「食べとけ」

ハンナが湊へ椀を押しつけた。

「空っぽで火を見ると、余計な音を聞くんだ」

「そんなことがあるんですか」

「昔からそう言われてる。それに、腹が鳴ったらルカの歌に混じる」

近くでルカが笑った。

湊は熱い椀を両手で持った。うまい、というより、体が受け取る味だった。昨日から続いていた緊張が、ほんの少し腹の底へ落ちる。

「肩、痛んでないか」

横から声がして、湊は椀を落としそうになった。

エルゼが隣に立っていた。いつの間に来たのか分からない。

「痛むだろ」

「え、いや、平気です」

「平気な肩じゃない」

言い終わる前に、エルゼの指が湊の肩帯の跡を押した。

「っ」

声にならない息が漏れた。痛みというより、思っていたより体が固まっていたことに驚いた。

「肩が上がったままだ。布」

ハンナが笑いながら、濡らした布を投げた。エルゼはそれを片手で受け取り、湊の肩へ当てる。

「冷たいです」

「冷やしてる」

「分かってます」

「なら動くな」

湊は椀を持ったまま固まるしかなかった。エルゼは真面目な顔で肩から鎖骨の下を押し、腕の付け根を確かめる。距離が近い。灰金の髪に編み込まれた細い束が、火皿の明かりを受けて頬の横で揺れている。

青い目は、湊の肩しか見ていない。

戦っていた時の鋭さも、教える時の容赦なさも残っている。なのに、火皿の色を受けた頬だけがやけに近い。


美人なんだな。


思ってしまった瞬間、湊は椀を持つ手に余計な力を入れた。

知っていたはずだ。初めて会った時から、整った顔立ちだとは思っていた。けれど昨日は獣がいて、畑が黒くて、右手が熱くて、今日は朝から冠一二に振り回されていた。だから、そんな単純な言葉でエルゼを見る余裕がなかった。

今、宴会の声の中で急にそれが来た。

「ミナト」

「はい」

「息」

言われて、湊は息を止めていたことに気づいた。

近くでルカが焼き芋を抱えたまま首をかしげる。

「ミナトにいちゃん、顔赤い」

「火のせい」

湊は反射で答えた。

ハンナが鍋をかき混ぜながら笑う。

「火皿はそっちじゃないよ」

周りで小さな笑いが起きた。湊はますます椀の中を見た。煮込みの湯気で顔が隠れないかと思ったが、まったく隠れなかった。

エルゼだけは笑わない。真面目な顔で湊の額へ手の甲を当てた。

「熱が戻ったか」

「戻ってないです」

「なら食え。力が抜ける」

エルゼは布を湊の肩へ残し、自分の椀を持って少し離れた。離れただけで、胸の奥が遅れてどくんと鳴った。

楽しいのに、落ち着かない。

湊はそういう時間があることを、ずっと忘れていた気がした。

ふと、湊は子供たちの胸で揺れる木札を見た。

細い刻みの入った札が、歩くたびに小さく鳴る。

腰の革袋の中で、自分の木札だけが黙っている。

「エルゼ」

湊は声を落とし、革袋から短い木札を出した。

「これ、戻り火の札と同じものですか」

エルゼは椀を置き、湊の手元を見た。

「違う。この村の札じゃない」

「文字ですか」

譜線(ふせん)にも見える。だが、村の札とは刻み方が違う。森で拾ったのか」

「違います。気づいた時には、革袋に入ってました」

「持ち主の印は」

「分からないです」

エルゼは木札の端を指でなぞった。火に当てても、札は鳴らなかった。子供たちの胸で揺れている札とは、やはり違う。

「護符でも、戻り火の札でもない。少なくとも、この村のものじゃない」

「じゃあ、何なんですか」

「今は分からない。しまっておけ」

返事は短かったが、興味がないわけではなかった。むしろ、声が硬い。

湊は木札を革袋へ戻した。

村の木札は鈴と一緒に鳴っているのに、自分の札だけは黙っている。

ダーヴが焼き芋を二つに割り、頬いっぱいに食べながら喋った。

「北の討伐隊が戻ったら、まず鍋が空になるな」

討伐隊。

その言葉が出たとき、ハンナの手が一瞬だけ止まった。

だが、ダーヴはわざと明るい声を続ける。

「村の出が一人いるんだよ。フェルドっていってな。食うのが早くて、鍋を焦がすとうるさい」

「あいつは帰ったら最初に鍋を見に来るよ」

ハンナも鍋をかき混ぜ直しながら言った。

「人の顔より先に」

笑いが起きた。

その笑いは、思ったより長く続いた。

ルカが焼き芋を熱がって指を振り、ハンナに笑われる。ダーヴは焦げた鍋底の話を盛り、別の大人がそれはフェルドよりお前のほうがうるさかったと横から言う。エルゼは酒を薄めた椀を受け取っただけで、ほとんど口をつけない。


湊も笑った。


笑えたことに、少し遅れて気づいた。

湊の知っている物語なら、こういう楽しい時間は長続きしない。助かった。飯を食った。少しだけ受け入れられた。そういう夜のあとには、たいてい次のページで何かが起きる。

いや、馬鹿な考えだと思う。

ここは本の世界ではない。目の前の椀は熱いし、ルカは本当に芋で指を熱がっている。ハンナの笑い声も、ダーヴの大きな声も、紙の上の都合ではない。


宴はまだ続いていた。


北門の方へ交代で歩いていく大人の背中が、火皿の明かりを外れて暗くなる。広場では、誰かが鍋の縁を叩き、子供たちの札が小さく鳴る。湊の知らない村の夜が、当たり前みたいに続いていた。

だから余計に、思ってしまった。

こういう時間は、長続きしない。


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