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17/23

火は四方から返る

エルゼの家を出ると、村の形が朝よりはっきり見えた。

家は、家並みの中に埋もれていなかった。東寄りの外れにあり、細い土道を少し下ると、低い木柵と浅い溝の切れ目から村の内側へ入る。高い壁も立派な門もない。家畜を出さないための柵と、水を逃がすための溝と、ところどころに吊られた木札が、村の輪郭を作っている。

湊が最初に立っていた森道は、ここからは見えない。北西の木立と低い地形の向こうで道が曲がっている。あの時、煙だけが見えた理由が少し分かった。

村の裏手の畑は、その森道側の水路につながっていた。黒ずんだ畝の一角には、まだ縄が張られ、白い粉の袋が積まれている。昨日、湊が溝を焦がしたあと、濁りはあそこまで回ったのだ。

冠一二(かんいちに)の肩帯が、急に重くなった。

「見るなとは言わない」

隣を歩くエルゼが言った。

「ただ、見た顔で止まるな。今日は戻り火だ」

「戻り火って、昨日の後始末とは別なんですか」

「別だ。畑が荒れた年も、何も起きなかった年もやる」


広場には大きな鍋が三つ並び、底を洗う音が乾いて響いていた。井戸から水を運ぶ人、薪を割る人、木札の紐を結び直す人。子供たちは小さな火皿を磨き、大人は火の粉が飛ばないように土をならしている。

笑い声はある。

けれど、昨日の畑があるせいか、誰の手も少し速い。

「戻り火って、何を戻すんだ」

湊は冠一二(かんいちに)を肩にかけたまま、鍋の底をこすっているルカに聞いた。

ルカは顔も上げずに答える。

「火」

「それは名前で分かる」

「家の火。畑の火。井戸の火。あと、人の足の火」

分からない言葉が増えた。

湊が困っていると、薪を束ねていたハンナが口を挟んだ。

「家だとか畑だとか井戸だとか、こういうのはみんな火を持ってるんだ。それがバラバラにならないように、音を当てて揃える」

この世界では、全てを音で合わせるってことだろうか。色が変わってきていたら、同じ色に合わせるように、音が変わってきていたら、同じ音に合わせる。

湊の頭の中で、村が少しだけ形を持った。

家がある。畑がある。井戸がある。柵がある。門がある。

それぞれがばらばらに立っているのではなく、広場の鍋底から順番に呼ばれる。

「祭りというより、点検みたいですね」

湊が言うと、ハンナは少し笑った。

「点検だけで終わったら腹が減るだろ。夜は食べる」

「そこは祭りなんですね」

「そこだけ楽しみにしてるやつも多い」

ダーヴが薪の束を肩に担いで通りかかった。湊の冠一二(かんいちに)を見ると、片眉を上げる。

「お前、それ持って働くのか」

「持っているだけで手いっぱいです」

「なら薪は持つな。落とされたらエルゼに俺まで怒られる」

「俺が怒られる前提なんですね」

「お前が落とす前提だ」

周りの村人が少し笑った。

昨日までの冷たい視線とは違う。完全に受け入れられたわけではない。だが、危ない素人を見る目に、少しだけ余白ができている。

湊はその余白を、逃げ場にしてはいけないと思った。

「そろそろ始めるぞ」

ダーヴが言った。

広場にいた人たちが、それぞれの持ち場へ分かれた。子供たちは木札を胸に下げ、火皿を抱える。井戸へ向かう者、西の柵へ走る者、南の見張り台へ上がる者、北門へ向かう者がいる。

広場に残ったハンナが、鍋の底を棒で叩いた。

かん、と乾いた音が鳴る。

ルカがすぐに同じ拍で鍋底を叩いた。

かん。

かん。

単純な拍だ。

だが、広場のあちこちに散っていた作業の音が、その拍へ少しずつ寄っていくのが分かった。薪を置く音。桶が井戸の石に当たる音。木札を揺らす鈴の音。誰かが口ずさむ短い歌。

メトロノームみたいだ。

湊はそう思った。だが、口には出さなかった。言っても伝わらない気がしたし、今の自分にはその拍へ合わせることすらできていない。

「ミナト」

エルゼが広場の端から呼んだ。

朝のやり取りのせいで、名前を呼ばれただけでも少し落ち着かない。

冠一二(かんいちに)を下げるな。背中と腹で支えろ」

「広場でもやるんですか」

「何しに来たんだ。鳴らせ」

湊は思わず冠一二(かんいちに)を見下ろした。

「本番で?」

「端で、一音だけだ。村の歌にかぶせるな。邪魔しないなら、それでいい」

それでいい。


言い方は軽いが、湊にはまったく軽くなかった。

ルカが鍋底を叩きながら言った。

「邪魔しないの、難しいよ」

「知ってる」

湊は広場の端に立ち、冠一二(かんいちに)を抱え直した。

かん。

かん。

かん。

鍋底の拍に合わせて、ルカが短い歌を始める。歌詞は簡単だった。火を呼び、灰を払えと歌っているらしい。村の女性たちがそれへ別の節を重ね、子供たちが木札を揺らす。

聖歌ではない。神殿の厳かな歌でも、戦うための強い声でもない。鍋を洗い、薪を運び、火皿を磨きながら口ずさむ歌だ。だが、湊の掌の奥に残っていた熱が、その声を聞くと少し静かになる。

昨日エルゼは、声で整えるのが声律だと言った。

その声律は、特別な人だけのものではないらしい。

「一音」

エルゼが横に立った。

湊は(ばち)を持つ。

「小さく。鍋の拍に合わせろ。拍の後ろを汚すな」

難しい注文が増えた。

湊は鍋の音を聞いた。

かん。

次の拍までのあいだに、真ん中の弦を短く鳴らす。そう考えた瞬間、体が固まった。

かん。

遅れた。

(ばち)を下ろした時には、次の鍋底が鳴っていた。

ぴん、と鳴った一音が、鍋の拍へぶつかる。

ルカの歌が少し詰まった。

「遅い」

エルゼが言った。

「分かってます」

湊は唇を結んだ。

耳では分かる。

鍋底の拍が来る。ルカの声がそこへ乗る。村人の作業音が少し後ろで支える。どこへ入れば邪魔にならないか、耳だけなら見えている気がする。

だが、手が遅れる。


(ばち)を持つ指が固まり、冠一二(かんいちに)の重さで肩が上がり、左手が弦を押しすぎる。やっと動いた時には、もう拍は次へ行っている。

「もう一回」

「鍋を聞け」

「聞いてます」

「自分の失敗を聞くな。先に鍋を聞け」

エルゼの言葉は短い。だが、何を見ているかは分かった。

湊は息を吐いた。

自分の弦を見ない。鍋を見る。ルカの声を見る。見えるわけではないが、そちらへ意識を向ける。

かん。

ルカが歌う。

次の拍へ行く前の、ほんの小さな隙間。

湊は(ばち)を下ろした。

ぴん。

少し早い。

だが、さっきほどぶつからなかった。ルカの歌は止まらない。

「まし」

エルゼが言った。

ルカも鍋を叩きながらうなずく。

そこから先も、うまくいったとは言えなかった。早い。遅い。肩が上がる。左手が余計な弦へ触れる。

それでも、何度かに一度だけ、鍋の拍の後ろで一音が小さく鳴り、ルカの歌を止めずに済んだ。

たったそれだけだった。


それでも、湊は少し楽しかった。


エルゼはそんな湊を見て、ほんの少し口元を緩めた。

それから、自分の六弦を短く鳴らす。

低いリフだった。昨日、畑で聞いたような鋭さではない。鍋底の拍へ背中を合わせるように、村の音の隙間へ入っていく。ルカの歌が伸び、木札の鈴が少し澄む。

しばらくすると、広場の外から音が返ってきた。

東の井戸から、桶の縁を打つ軽い音と鈴が返る。

西の柵から、木札の乾いた音が返る。

南の見張り台から、少し高い鈴が返る。

最後に、北門の方から鳴り板の短い音が返った。

「揃ったな」

ダーヴが言った。

広場から出した拍が、村の四方を回って戻ってきた。湊には詳しい仕組みは分からない。だが、東の井戸も、西の柵も、南の見張り台も、北門も、今はちゃんと返事をしたのだと分かった。

かん。

かん。

かん。

鍋底の拍は、また広場へ戻っている。

その規則正しさの中で、村がひとつずつ数え直されていく感じだけが、妙に耳へ残った。

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