火は四方から返る
エルゼの家を出ると、村の形が朝よりはっきり見えた。
家は、家並みの中に埋もれていなかった。東寄りの外れにあり、細い土道を少し下ると、低い木柵と浅い溝の切れ目から村の内側へ入る。高い壁も立派な門もない。家畜を出さないための柵と、水を逃がすための溝と、ところどころに吊られた木札が、村の輪郭を作っている。
湊が最初に立っていた森道は、ここからは見えない。北西の木立と低い地形の向こうで道が曲がっている。あの時、煙だけが見えた理由が少し分かった。
村の裏手の畑は、その森道側の水路につながっていた。黒ずんだ畝の一角には、まだ縄が張られ、白い粉の袋が積まれている。昨日、湊が溝を焦がしたあと、濁りはあそこまで回ったのだ。
冠一二の肩帯が、急に重くなった。
「見るなとは言わない」
隣を歩くエルゼが言った。
「ただ、見た顔で止まるな。今日は戻り火だ」
「戻り火って、昨日の後始末とは別なんですか」
「別だ。畑が荒れた年も、何も起きなかった年もやる」
広場には大きな鍋が三つ並び、底を洗う音が乾いて響いていた。井戸から水を運ぶ人、薪を割る人、木札の紐を結び直す人。子供たちは小さな火皿を磨き、大人は火の粉が飛ばないように土をならしている。
笑い声はある。
けれど、昨日の畑があるせいか、誰の手も少し速い。
「戻り火って、何を戻すんだ」
湊は冠一二を肩にかけたまま、鍋の底をこすっているルカに聞いた。
ルカは顔も上げずに答える。
「火」
「それは名前で分かる」
「家の火。畑の火。井戸の火。あと、人の足の火」
分からない言葉が増えた。
湊が困っていると、薪を束ねていたハンナが口を挟んだ。
「家だとか畑だとか井戸だとか、こういうのはみんな火を持ってるんだ。それがバラバラにならないように、音を当てて揃える」
この世界では、全てを音で合わせるってことだろうか。色が変わってきていたら、同じ色に合わせるように、音が変わってきていたら、同じ音に合わせる。
湊の頭の中で、村が少しだけ形を持った。
家がある。畑がある。井戸がある。柵がある。門がある。
それぞれがばらばらに立っているのではなく、広場の鍋底から順番に呼ばれる。
「祭りというより、点検みたいですね」
湊が言うと、ハンナは少し笑った。
「点検だけで終わったら腹が減るだろ。夜は食べる」
「そこは祭りなんですね」
「そこだけ楽しみにしてるやつも多い」
ダーヴが薪の束を肩に担いで通りかかった。湊の冠一二を見ると、片眉を上げる。
「お前、それ持って働くのか」
「持っているだけで手いっぱいです」
「なら薪は持つな。落とされたらエルゼに俺まで怒られる」
「俺が怒られる前提なんですね」
「お前が落とす前提だ」
周りの村人が少し笑った。
昨日までの冷たい視線とは違う。完全に受け入れられたわけではない。だが、危ない素人を見る目に、少しだけ余白ができている。
湊はその余白を、逃げ場にしてはいけないと思った。
「そろそろ始めるぞ」
ダーヴが言った。
広場にいた人たちが、それぞれの持ち場へ分かれた。子供たちは木札を胸に下げ、火皿を抱える。井戸へ向かう者、西の柵へ走る者、南の見張り台へ上がる者、北門へ向かう者がいる。
広場に残ったハンナが、鍋の底を棒で叩いた。
かん、と乾いた音が鳴る。
ルカがすぐに同じ拍で鍋底を叩いた。
かん。
かん。
単純な拍だ。
だが、広場のあちこちに散っていた作業の音が、その拍へ少しずつ寄っていくのが分かった。薪を置く音。桶が井戸の石に当たる音。木札を揺らす鈴の音。誰かが口ずさむ短い歌。
メトロノームみたいだ。
湊はそう思った。だが、口には出さなかった。言っても伝わらない気がしたし、今の自分にはその拍へ合わせることすらできていない。
「ミナト」
エルゼが広場の端から呼んだ。
朝のやり取りのせいで、名前を呼ばれただけでも少し落ち着かない。
「冠一二を下げるな。背中と腹で支えろ」
「広場でもやるんですか」
「何しに来たんだ。鳴らせ」
湊は思わず冠一二を見下ろした。
「本番で?」
「端で、一音だけだ。村の歌にかぶせるな。邪魔しないなら、それでいい」
それでいい。
言い方は軽いが、湊にはまったく軽くなかった。
ルカが鍋底を叩きながら言った。
「邪魔しないの、難しいよ」
「知ってる」
湊は広場の端に立ち、冠一二を抱え直した。
かん。
かん。
かん。
鍋底の拍に合わせて、ルカが短い歌を始める。歌詞は簡単だった。火を呼び、灰を払えと歌っているらしい。村の女性たちがそれへ別の節を重ね、子供たちが木札を揺らす。
聖歌ではない。神殿の厳かな歌でも、戦うための強い声でもない。鍋を洗い、薪を運び、火皿を磨きながら口ずさむ歌だ。だが、湊の掌の奥に残っていた熱が、その声を聞くと少し静かになる。
昨日エルゼは、声で整えるのが声律だと言った。
その声律は、特別な人だけのものではないらしい。
「一音」
エルゼが横に立った。
湊は撥を持つ。
「小さく。鍋の拍に合わせろ。拍の後ろを汚すな」
難しい注文が増えた。
湊は鍋の音を聞いた。
かん。
次の拍までのあいだに、真ん中の弦を短く鳴らす。そう考えた瞬間、体が固まった。
かん。
遅れた。
撥を下ろした時には、次の鍋底が鳴っていた。
ぴん、と鳴った一音が、鍋の拍へぶつかる。
ルカの歌が少し詰まった。
「遅い」
エルゼが言った。
「分かってます」
湊は唇を結んだ。
耳では分かる。
鍋底の拍が来る。ルカの声がそこへ乗る。村人の作業音が少し後ろで支える。どこへ入れば邪魔にならないか、耳だけなら見えている気がする。
だが、手が遅れる。
撥を持つ指が固まり、冠一二の重さで肩が上がり、左手が弦を押しすぎる。やっと動いた時には、もう拍は次へ行っている。
「もう一回」
「鍋を聞け」
「聞いてます」
「自分の失敗を聞くな。先に鍋を聞け」
エルゼの言葉は短い。だが、何を見ているかは分かった。
湊は息を吐いた。
自分の弦を見ない。鍋を見る。ルカの声を見る。見えるわけではないが、そちらへ意識を向ける。
かん。
ルカが歌う。
次の拍へ行く前の、ほんの小さな隙間。
湊は撥を下ろした。
ぴん。
少し早い。
だが、さっきほどぶつからなかった。ルカの歌は止まらない。
「まし」
エルゼが言った。
ルカも鍋を叩きながらうなずく。
そこから先も、うまくいったとは言えなかった。早い。遅い。肩が上がる。左手が余計な弦へ触れる。
それでも、何度かに一度だけ、鍋の拍の後ろで一音が小さく鳴り、ルカの歌を止めずに済んだ。
たったそれだけだった。
それでも、湊は少し楽しかった。
エルゼはそんな湊を見て、ほんの少し口元を緩めた。
それから、自分の六弦を短く鳴らす。
低いリフだった。昨日、畑で聞いたような鋭さではない。鍋底の拍へ背中を合わせるように、村の音の隙間へ入っていく。ルカの歌が伸び、木札の鈴が少し澄む。
しばらくすると、広場の外から音が返ってきた。
東の井戸から、桶の縁を打つ軽い音と鈴が返る。
西の柵から、木札の乾いた音が返る。
南の見張り台から、少し高い鈴が返る。
最後に、北門の方から鳴り板の短い音が返った。
「揃ったな」
ダーヴが言った。
広場から出した拍が、村の四方を回って戻ってきた。湊には詳しい仕組みは分からない。だが、東の井戸も、西の柵も、南の見張り台も、北門も、今はちゃんと返事をしたのだと分かった。
かん。
かん。
かん。
鍋底の拍は、また広場へ戻っている。
その規則正しさの中で、村がひとつずつ数え直されていく感じだけが、妙に耳へ残った。




