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借り物の六弦

翌朝、湊の右手にはまだ熱の名残があった。

痛むほどではない。だが掌を開くと、奥に小さな火種が残っている気がする。昨日の畑の黒さを思い出すには、それだけで十分だった。

エルゼの家の窓からは、村の北側が見えた。

畑の後始末は夜明け前から続いているらしい。家々のあいだから白い粉の袋を運ぶ人影が見え、井戸のそばでは木札を吊り直す音がしている。平和な朝、というには忙しすぎる。けれど、昨日の獣の牙や黒い核を見たあとでは、その忙しさがむしろありがたかった。

村は、まだ動いている。


「手」

エルゼが言った。

湊は椅子に座ったまま右手を出した。

エルゼは昨日と同じように掌の中心を押し、手首を曲げ、指の付け根を確かめた。朝の光の中だと、彼女の指の傷がよく見える。弦で切ったような細い傷と、火傷の跡がいくつも重なっていた。

「熱は残ってる。だが膨らんではいない」

「大丈夫ってことですか」

「大丈夫じゃない。悪くなってないだけだ」

相変わらず容赦がない。

エルゼは手を離し、部屋の奥へ向かった。昨夜、湊が気にしていた長い箱の前で膝をつく。箱は黒い布で包まれていた。布をほどくと、古い木の匂いと、油の匂いが少しだけ立った。

中にあったのは、六弦だった。


昨日の練習枠とは違う。胴がある。細い王冠みたいな飾りが胴の上に彫られ、弦は六本、黒ずんだ金具へ張られていた。派手ではない。むしろ古く、角も擦れている。だが、道具としての形がはっきりしていた。

ギターだ。

そう思った瞬間、湊の胸が勝手に跳ねる。

もちろん違う。ここでは六弦だ。弦も胴も、湊が動画で見たものとは似ているだけで細部はまるで違う。それでも、肩にかけて構える道具として見た瞬間、どうしようもなく故郷の音楽へ引っ張られた。

エルゼは湊の顔を見て、先に言った。

「浮かれるな」

「まだ何も言ってません」

「顔で言った」

言い返せなかった。

エルゼは六弦の胴の横から、小さな金属の箱を外した。続けて、弦の下に噛ませてあった細い部品も抜く。机の上に置かれた金具は、昨日入口で見た増幅器よりずっと小さい。

「増幅器は外す。歪響箱もつながない。今のお前に持たせるのは、音を大きくするためじゃない」

「じゃあ、何のためですか」

「余計な音を出さないためだ」

昨夜から同じことを言われている。

だが、本物を前にすると重みが違った。練習枠なら、失敗しても枠が鳴るだけだった。今は六弦そのものが湊を見返してくる気がする。

エルゼは革の帯を六弦に通し、湊の肩へかけた。

重い。


思っていたより、ずっと重い。肩に革帯が食い込み、胴が腹の前で安定しない。湊が慌てて支えると、六弦の下端が膝に当たった。

「高い。下げろ」

エルゼが帯を短く引いた。

「いや、これで下げるんですか」

「お前の肩が上がってる」

「上がりますよ、重いんで」

「重いから上げるな。上げると手首が死ぬ」

エルゼは湊の右肩を指で押した。力を抜こうとすると、六弦の胴が前へ逃げる。慌てて腹で受け止めると、今度は背中が丸くなった。

「背中」

「はい」

「はいじゃない。丸い」

「自分ではまっすぐのつもりなんですけど」

「そのつもりを捨てろ。鏡じゃなくて音で見る」

分かるようで分からない。

エルゼは湊の背後へ回った。

距離が近い。

昨日も手を取られた。手首も診られた。だが、背後に立たれると別の緊張が来る。エルゼの手が肩へ触れ、背中を軽く押し、六弦の胴を湊の腹の前へ戻す。革と油の匂いが近くなった。

「力を抜け」

「抜いてます」

「抜けてない」

エルゼは湊の右手を取った。

撥を持たされる。昨日の骨の板より少し厚い。指先で挟むだけのはずなのに、湊はすぐ強く握ってしまう。

「落とすくらいでいい」

「落としたら怒るでしょう」

「拾えばいい。力んで弾くよりましだ」

湊は息を吐いた。

左手は六弦の首へ添えられた。エルゼの指が、湊の親指を裏側へ回す。

「親指を握り込むな。首を絞めるな」

「首」

「六弦の首だ。お前のじゃない」

「分かってます」

本当は少し分かっていなかった。

指を置くだけで、弦の硬さが返ってくる。押さえようとすると、すぐ指先が痛む。押さえないようにすると、触れているだけで音が濁りそうになる。

「鳴らすな。まず止めろ」

湊は昨夜と同じように、鳴らしたくない弦へ指の腹を触れさせた。

六弦が重い。肩が痛い。右手は撥を落としそうで、左手はどこへ置いても間違っている気がする。

楽器を持っている、というより、知らない生き物を抱えているみたいだった。

「エルゼさん」

「さんはいらない」

反射みたいに返ってきた。

湊は肩に食い込む革帯を意識しながら、言い直そうとした。

「エルゼ」


口に出した途端、変に照れた。

エルゼはまったく気にしていない顔で、湊の右肘を少し内側へ入れた。

「長い呼び方は戦場で遅れる。教わるなら、そこで詰まるな」

「……はい」

「返事も固い」

「難しいです」

「六弦よりは簡単だ」

その言い方は、少しだけ意地が悪かった。

湊は撥を構えた。昨日の真ん中の弦を探す。灰火式の弦は、練習枠よりも高さが違う。胴があるぶん、右手をどこへ置くかで音が変わりそうだった。

「一本だけ。昨日より小さく」

湊は撥を下ろした。

ぴ、と細い音が鳴った。

同時に、肩の革帯がずれ、胴が少し落ちた。慌てて支えた左手が弦を押し、別の音が短く鳴る。

失敗だ。


「支えようとして鳴らした」

エルゼが言う。

「支えないと落ちます」

「落ちない位置を先に作る」

エルゼは灰火式の胴を戻し、肩帯を締め直した。

「借り物だから遠慮してる。遠慮すると逃げる。だが、雑に扱えば壊れる」

「どっちですか」

「両方だ」

また正論だった。

湊は灰火式を抱え直した。肩に食い込む重さは変わらない。だが少しだけ、どこで支えるべきかが分かった気がした。気がしただけで、まだ弾けるとはとても言えない。

窓の外で、ルカの声がした。

「ミナトにいちゃん、借り物に負けてる」

「見てたのかよ」

「音がしたから」

窓の下に、そばかすのある顔がひょいと出た。

ルカは灰火式を見て、目を丸くした。

「それ、本当に持たされたんだ」

「持たされました」

「落としたら怒られるよ」

「分かってる」

「鳴らしても怒られるよ」

「それも分かってる」

エルゼが窓へ目を向けた。

「ルカ。戻り火の支度は」

「ハンナねえちゃんが、鍋を洗えって」

「なら洗え」

「ミナトにいちゃんも来る?」

湊は灰火式の重さを肩で受けたまま、エルゼを見た。

エルゼは短くうなずいた。

「行け。村の拍を聞け。家の中だけで弾けても意味がない」

「弾けてないですけど」

「だから行く」

灰火式の肩帯が、また少し食い込んだ。

借り物は、ただ持つだけで痛い。


湊はそう思いながら、六弦を落とさないように立ち上がった。

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