五本の沈黙
練習枠は、見た目より重かった。
胴がないから軽いと思っていたのに、六本の弦を支える木は厚く、端には金具が埋め込まれている。膝に乗せると、太ももへ硬さがそのまま伝わった。
「肩を上げるな」
エルゼが言った。
湊は慌てて肩を下げた。
「手首を固めるな」
手首の力を抜こうとすると、今度は枠が揺れる。
「枠を逃がすな」
「……注文が多い」
「まだ三つだ」
エルゼは湊の正面に立ち、腕を組んでいた。家の奥では、小さな灯りが揺れている。外はもう暗くなり始め、窓の向こうで村人たちの後始末の声が低く混じっていた。
湊は、骨でできた小さな板を右手に持った。エルゼはそれを撥と呼んだ。
ギターのピックに似ている。そう思うと少しだけ気分が上がったが、すぐに現実へ戻された。握り方からして分からない。
「それ、強く握るな。落とさないだけでいい」
「落としそうなんですけど」
「なら落とせ。力んで弾くよりましだ」
ひどい。
だが、エルゼの顔は本気だった。
「一本だけ鳴らせ。真ん中の弦だ」
湊は六本の弦を見下ろした。
真ん中、と言われても、三本目か四本目か一瞬迷う。エルゼが指で示したので、ようやく分かった。
「これだけですね」
「そうだ」
湊は撥を下ろした。
じゃらん、と六本全部が鳴った。
家の中の空気が、少しだけ気まずくなる。
窓の外から、ルカの声がした。
「全部鳴った」
「分かってる」
「すごい。一本って言われて全部」
「分かってるって」
エルゼはルカを追い払わなかった。湊の失敗を聞かせるために置いているのではないか、という疑いが湧く。
「もう一回」
湊は今度こそ慎重に撥を下ろした。
真ん中の弦だけを狙う。
ぴん、と細い音が鳴った。
同時に、隣の弦がびりっと震えた。
「鳴った」
「隣も鳴った」
エルゼとルカが同時に言った。
「今のは駄目なんですか」
「実戦なら、味方の歌に砂を混ぜるみたいな感じだ」
言い方が重い。
湊は枠を見下ろした。
一本だけ弾いたつもりだった。だが、隣の弦に撥が触れたのか、左手が余計に当たったのか、細い震えが混じっていた。
「一本だけ鳴らすなら、一本だけ張った道具で練習した方がよくないですか」
言った瞬間、エルゼの目が少し冷えた。
「実戦の六弦には六本ある」
「はい」
「鳴らしたい弦だけ鳴らすんじゃない。鳴らしたくない五本を止める」
エルゼは湊の左手を取った。
また近い。
背中の後ろへ回り込まれたわけでもないのに、指を一本ずつ動かされるだけで、湊の意識はそこへ集まってしまう。エルゼの指は冷たく、爪は短かった。
「ここは押さえない。触れるだけ」
「触れるだけ」
「力を入れるな。押すと鳴る。離すと暴れる。触れて止める」
簡単に言う。
湊は言われた通り、鳴らしたくない弦に指の腹を軽く触れさせた。
「右手は小さく。腕で振るな。手首だけ」
「はい」
「はいじゃない。力が入ってる」
「入りますよ、こんなの」
「入るから抜く」
正論だった。
湊は息を吐き、撥を下ろした。
ぴん。
今度は一本だけ鳴った、と思った。
しかし、音の終わりに、低い弦がごく小さく震えた。
エルゼがすぐに言う。
「左手の付け根が離れた」
「そこまで聞こえるんですか」
「聞こえる。聞こえないと死ぬ」
重い返事ばかり返ってくる。
窓の外で、ルカが短く歌い始めた。さっきの畝鎮めではない。子供が歩きながら口ずさむような、短い生活歌だった。
「合わせろとは言ってない」
エルゼが先に釘を刺す。
「今は、ルカの声を邪魔しない。それだけ考えろ」
湊は撥を構えた。
歌に合わせようとすると、手が急に遅れる。逆に弦だけを見ていると、ルカの声の下へ変な震えが混じる。
ぴん。
びり。
ルカの歌が一瞬だけ止まった。
「今の、足に泥が入った感じ」
「ごめん」
「謝るより止めて」
子供の言葉は容赦がない。
湊はもう一度、左手の指を弦へ軽く触れさせた。押さえない。離さない。触れて止める。右手は大きく振らない。撥を落とすみたいに、真ん中の弦だけへ当てる。
ぴん。
短い一音が鳴った。
今度は、隣の弦が暴れなかった。
ルカの歌も止まらなかった。
「……今のは」
「ましだ」
エルゼが言った。
褒め言葉なのか分からない。
けれど湊の肩から、少しだけ力が抜けた。たった一音。しかも、戦闘には何の役にも立たないくらい小さい。なのに、指先には汗がにじみ、左手の筋が張っている。
「これだけで、こんなに難しいのか」
「これだけが難しい」
エルゼは練習枠の端を指で叩いた。
「派手に鳴らすだけなら、力任せでもできる。お前の魔法みたいにな」
湊の掌が、言葉に反応したように熱を持った。
ほんの少しだ。
だがエルゼは見逃さなかった。
「使うな」
低い声だった。
湊は右手を握った。
「使いません」
「今、腹が立った。恥ずかしくもなった。その熱で撥を振れば、六本全部の失敗が大きくなる」
エルゼは机の上の木皿を示した。
「一音の失敗でも、増幅すれば畑を濁らせる」
言われなくても、畑の黒さが浮かんだ。
湊は息を吸い、ゆっくり吐いた。ルカの歌が、窓の外で細く続いている。その声を聞いていると、掌の熱が少しだけ引いた。
声は雷を叱る。
さっきエルゼが言った意味が、ようやく体に触れた気がした。
「もう一回やります」
「一回だけだ」
「はい」
湊は左手を弦へ触れさせた。
鳴らしたくない五本を止める。
真ん中の一本だけ、短く弾く。
ぴん。
音は小さい。
格好よくもない。
けれど、ルカの歌は止まらなかった。
エルゼは湊の右手から撥を取り上げた。
「今日は終わり」
「もう少し」
「終わりだ。手首が固まってる。続けると変な癖がつく」
湊は不満を飲み込んだ。
エルゼが練習枠を片づける。壁の古い六弦の下、奥の布をかけた長い箱へ目をやった。
「明日、本物を持たせる」
「あの六弦ですか」
「冠一二。訓練用だが、遊び道具じゃない」
冠一二。
名前というより、型番みたいだ。
「冠一二っていうのは」
「通称だ。正式には王冠一二型。軽い王冠胴で、一二は訓練用の番手。名器の銘じゃない。初心者に首と肩を覚えさせるための道具だ」
型番。
その言い方で、湊の胸は別の鳴り方をした。
今なら分かる。名前に浮かれている場合ではない。持ったところで、弾けるわけではない。たった一音を邪魔せず鳴らすだけで、こんなに手が震える。
それでも、何かが始まっている。
見ているだけだった音が、ほんの一瞬だけ、自分の指先を通った。
湊は右手を開いた。
掌の奥の熱は、まだ完全には消えていない。
だがその上に、六本のうち五本を止めた指の感覚が、細く残っていた。




