声の戻り道
エルゼの家は、村の東寄りにあった。
大きくはない。だが、普通の家とも違っていた。壁には干した薬草と革紐が吊るされ、軒下には細い木枠や弦巻きが並んでいる。入口の横には、焼け跡のある金属箱が置かれていた。
湊がそれを見ていると、エルゼが言った。
「触るな。増幅器だ」
「これが雷律の道具ですか」
「一部だ。今のお前が触ると、畑をもう一枚駄目にする」
「触りません」
即答した。
家の中は、外よりずっと音が少なかった。
床板は古いのに、歩いてもほとんど鳴らない。机の上には布、油壺、小さな金具、弦の束。壁には六弦が一本掛かっている。さっきエルゼが使ったものより細身で、胴に王冠のような飾りが彫られていた。
本物の楽器がある。
そう思っただけで、胸が勝手に上がった。
同時に、湊は自分の手を見た。
弾けない。
知っているのは、客席で聞いた音だけだ。指の動きも、弦の重さも、力の抜き方も知らない。
「座れ」
エルゼが椅子を足で引いた。
湊が座ると、彼女は机の上の布をどかし、浅い木皿を置いた。皿の底には、灰色の粉が薄く敷かれている。
「手を出せ」
また近い。
言われた通り右手を出すと、エルゼは掌を上向きにさせ、指先を一本ずつ押した。さっきより明るい室内で見ると、湊の掌の中心はうっすら赤くなっている。
「熱を思い出せ」
「魔法を出せってことですか」
「出すな。出す直前だけ思い出せ」
難しいことを言う。
湊は目を閉じた。
畑で小型の獣が跳ねた瞬間。撃てば止められると思った瞬間。胸の奥から何かが腕へ走り、掌の中心へ集まる感覚。
赤みが増した。
木皿の灰が、ほんの少し震える。
「そこまで」
エルゼの指が手首を押さえた。
「今ので出かけてる。お前は力を溜めるのと撃つのを分けられていない」
「すみません」
「謝るな。分かれば止められる」
エルゼは窓の外へ視線を投げた。
「ルカ」
「いるよ」
窓の下から声がした。
湊は思わず振り向く。ルカが窓枠に指をかけ、背伸びしてこちらを見ていた。
「覗くな」
「見えるところにいるだけ」
「同じだ。短く歌え」
「また?」
「まただ」
ルカは肩をすくめ、窓の外で息を吸った。
今度の歌は、さっきよりさらに短かった。上がって、すぐ下りる。子供の声なのに、湊の掌の熱だけを細い糸で引くみたいに揺らした。
木皿の灰の震えが止まる。
「……本当に下がった」
湊は自分の手を見た。
「ルカの声が、俺の魔法を消したんですか」
「消してない」
エルゼは木皿を指で叩いた。
「暴れて外へ出ようとした内響を、声が整えた。荒い雷を叱ったと思えばいい」
「雷」
「たとえだ。お前のは雷律じゃない。だが、暴れ方は似てる」
ルカが窓の外で言う。
「ミナトにいちゃんの手、怒るの下手なんだね」
「手が怒るって何だよ」
「だって、すぐ赤くなる」
エルゼは壁の六弦へ手を伸ばした。さっきの実戦用ではなく、古い方だ。弦に触れる前に、胴へ耳を寄せるようにして、短く確かめる。
「次は弦律だ」
彼女は弦を一本、指で軽く押さえた。
大きな音は出ない。むしろ、家の中で鳴っていいだけの小さな音だった。だが、木皿の灰に細い筋が走った。
湊は息を止めた。
灰が割れたわけではない。吹き飛んだわけでもない。ただ、表面にあった乱れの薄いところだけが、まっすぐ裂けるように開いた。
「声は広く整える。弦は細く狙う」
エルゼはもう一度、別の弦を短く弾いた。
灰の筋が、今度は横へずれる。
「さっきの獣なら、牙の奥に核が見えた。そこへ届かせる。力任せに殴るんじゃない」
湊は畑で見た瞬間を思い出した。
エルゼの低いリフが、獣の形を内側から揺らした。最後の一音が、黒い核へ届いた。派手な爆発ではなかった。なのに、獣はほどけた。
「じゃあ雷律は」
湊が聞くと、エルゼは入口横の金属箱を見た。
「厚い場を破る。弦だけでは届かない外殻や、灰に沈んだ場所を一瞬だけ開ける」
「強いんですね」
「強い」
エルゼは否定しなかった。
「だから危ない。正しい声や弦がないまま出せば、開けるんじゃなく潰す。お前が畝でやったのは、それに近い」
湊の喉が詰まった。
言葉だけではない。木皿の灰と、掌の熱と、ルカの短い歌で、少しずつ逃げ場がなくなる。
自分は強い魔法を持っている。
でも、それは正しい手順の代わりにはならない。
「プライマル・ブーストは、使わない方がいいんですか」
「今は使うな」
「今は」
「お前が何を持っているかは、まだ分からない。だが、少なくとも六弦の代わりにはならない。声の代わりにもならない」
エルゼは古い六弦を壁へ戻した。
「強そうな名前は便利だ。便利な名前ほど、現場では人を殺す」
静かな声だった。
湊は、その言い方に引っかかった。エルゼ自身も、何かを知っている。そう感じたが、今聞ける空気ではない。
「俺の知っている曲と、エルゼさんのリフが似ているのは」
「さんはいらない」
「え」
「今はまだいい。だが、教わるならそのうち外せ。戦場で長い」
「……分かりました」
分かったと言いながら、すぐには呼び捨てにできなかった。
エルゼは気にせず続ける。
「似ている理由は分からない。古い戦奏には、似た形が残ることがある。土地が違っても、獣の核をほどく手順が近ければ、返しも近くなる」
「じゃあ、同じものではない」
「同じだと思うな。似ている音は入口になる。そこで分かったつもりになるな」
言い方が容赦ない。
けれど、湊にはありがたかった。
知っている曲に似ている。それだけで舞い上がれば、また間違える。畑で魔法を撃った時と同じだ。分かった気になった瞬間に、後始末を他人へ押しつける。
もしかして、ここからギターの練習なのか。いや、この世界では六弦か。
期待と緊張が同時に上がり、湊が壁の古い六弦へ目を向けると、エルゼは短く首を振った。
「まだ早い」
エルゼは机の下から、細長い木枠を引き出した。
六本の弦だけが張られた、胴のない木枠だった。練習用に見えるが、そう呼んでいいのかは分からない。
「まずはこれだ」
「本物じゃないんですか」
「本物を持たせる前に、余計な弦を止める」
「鳴らす練習じゃなくて?」
「鳴らさない練習だ」
エルゼは枠を机に置いた。
六本の弦が、夕方の薄い光を受けて細く光る。
「弦律は精密さで生きる。下手な一音は、味方の声まで濁らせる」
窓の外でルカが言った。
「ミナトにいちゃん、歌の邪魔しそう」
「まだしてないだろ」
「これからしそう」
湊は言い返そうとして、やめた。
たぶん、ルカが正しい。




