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手のひらの残り火

その名前に気づいた瞬間、湊の胸の奥が変なふうに跳ねた。

泥の匂いも、黒く湿った(うね)も、夕方の冷えた風も、いっぺんに遠くなる。さっき耳の奥でつながったのは、ライブ映像で何度も聞いたあのリフだった。低く刻み、いったん踏み直し、前へ出る重さ。説明しようとするとすぐ違うものになるのに、耳だけは間違えなかった。

同じ場所にあるはずがない。

ここで鳴ったのは、辺境の女性が傷だらけの六弦(ろくげん)で魔物の鳴核(めいかく)をほどいた音だ。客席も照明もない。スマホの画面もない。なのに耳の奥だけが、勝手に知っている形へつないでしまう。

「おい」

エルゼの声で、湊は畑へ戻された。

「顔が飛んでる。今度は何を見た」

「見た、というか」

言いかけて、湊は口を閉じた。

故郷の曲そのものを思い出した。そう言うだけなら簡単だ。だが、その先を聞かれたら答えられない。日本。ライブ。動画。交通事故。女神。ここへ落ちたこと。順番に並べれば並べるほど、畑の真ん中で話す内容ではなくなる。

「俺の知っている曲を思い出しました」

「曲」

「はい。たぶん、偶然だと思います」

「偶然で済ませるな。耳が引っかかったなら、どこだ」

責める口調ではなかった。拾えるものを拾うための声だった。

湊は思い出しながら、指で空を小さく叩いた。

「低く刻む音があって、いったん踏み直して、そこから前へ出る感じです。あと、同じ短い形を繰り返すところが」

「返しだな」

「さっき言った、リフです」

もう一度口にしただけで、胸の奥が少し熱くなった。知っている言葉が、この畑の泥とつながってしまったみたいだった。

エルゼの目が細くなる。

「リフ」

エルゼは、その短い言葉の響きを確かめるみたいに繰り返した。

「この辺の言葉じゃないな。故郷の言葉か」

「たぶん、そうです」

「覚えておく」

畑の端では、ダーヴとハンナが村人たちに短く指示を飛ばしていた。黒い畝へ板を渡し、白い粉の袋を並べ、子供が近づかないように縄を張っている。ルカは桶を抱えたまま、こちらをちらちら見ていた。

誰も、勝利に浮かれていない。

小型の獣を倒した直後なのに、村はもう後始末の顔をしていた。

「ミナト」

エルゼは湊の右手をもう一度取った。

指先が熱い。

戦いが終わって、だいぶ経ったはずなのに、(てのひら)の奥だけがまだ小さく焼けている。エルゼの指が掌の中心を押すと、熱が骨の内側で返った。

「痛っ」

「ここか」

「そこです」

「歌ったか」

「え」

「さっき力を出した時だ。呼び歌でも、聖句でもいい。声で整えたか」

「歌ってないです」

「六弦は」

「触ったこともないです」

「なら、内響をそのまま外へ出した」

聞き慣れない言葉なのに、意味はなんとなく分かった。

体の中にある力。それを、歌でも楽器でも整えずに、力ずくで撃った。湊がやったのは、たぶんそれだ。

「あれは、プライマル・ブーストっていう魔法で」

「名は後でいい」

エルゼは短く切った。

「あたしが見ているのは、名前じゃない。お前の手が何をしたかだ」

湊は、自分の右手を見た。

最強魔法。女神からもらった力。そういう言葉で自分をごまかしていたところへ、エルゼは手首の熱だけを見てくる。

「三律を知ってるか」

「知らないです」

「だろうな」

エルゼは湊の手首を軽く返し、肘の手前まで指を滑らせた。

「声で整えるのが声律。村の呼び歌や、聖歌院(せいかいん)の歌がそれだ。弦で細く狙うのが弦律。あたしが畑で鳴らした六弦はこっちだ」

エルゼは入口横の金属箱を顎で示した。

「電鳴の増幅器や歪響箱(わいきょうばこ)まで噛ませて、厚い場を破る時は雷律に寄る。形が似ていても、使い方で危なさが変わる」

電鳴。

その言葉も引っかかった。電気のことなのか、雷の術の呼び名なのか、湊にはまだ分からない。聞きたいことが一気に増えすぎて、どれから聞けばいいのかも分からなかった。

「さっき言った、聖歌院ってなんですか」

「声律を一番大きく扱う連中だ。祈るだけじゃない。救護も封鎖も討伐隊も出す」


討伐隊。


その言葉で、湊は畑の黒い畝を見た。

「魔物を、歌で倒すんですか」

「歌だけで倒すわけじゃない。声で場を保つ。弦で核や継ぎ目を探す。厚いところは雷で破る。どれか一つで全部やると、昨日のお前みたいに周りまで濁る」

エルゼは北の森へ目をやった。

「北では今、討伐隊が出ている。相手ははっきりしない。帰った者は少ない。村の大人は冗談みたいに、無響王(むきょうおう)の下だと言う」

「王、ですか」

無響王。

ゲームなら、終盤のラスボスに付く名前だ。

だが、エルゼの声は冗談を笑っていなかった。

「響かない王、という意味に近い、北の噂の名だ。本当に王を見た者がいるわけじゃない。今のお前が覚えるのはそこじゃない」

エルゼは湊の右手を少し持ち上げた。

「音で戦う時は、出す力より先に、戻す道を見る。戻せない音は、敵にも味方にもなる」

言葉だけなら、まだ半分も分からない。

だが、畑を見れば少しだけ見えた。

ルカの歌は、黒い畝のざわつきを弱めた。エルゼの六弦は、獣の牙の奥にあった小さな核へ届いた。湊の魔法は、強かったのに畝を深く濁らせた。

「俺のは、雷律なんですか」

「違う」

エルゼは即答した。

「雷律は危ないが、調律の手順はある。お前のは歌も弦も通していない。未調律の直術式だ」

「直術式」

「内響を直接出す。火、衝撃、圧、焼き。そういう形で出やすい。現場では雷律に似て見える。強くて速いからな」

そこで、エルゼは黒い畝を見た。

「だが、似ているだけだ。拍も、逃がし方も、後始末もない。だから濁る」

湊の掌が、また熱を持った。

責められたからではない。自分のやったことが、今さら体の中で燃え返したようだった。畝を焼き、村人に後始末を押しつけ、濁りから小型の獣まで生まれた。

最強魔法を使った。

それなのに、正しい戦いの邪魔をしていた。

「ミナトにいちゃん、手、変」

ルカがいつの間にか近くまで来ていた。

「赤い。さっきより赤い」

「下がれ、ルカ」

エルゼが言うと、ルカは一歩だけ下がった。逃げはしない。

「歌えるか。短いやつでいい」

「畝鎮め?」

「声を細く。ミナトへ向けろ。畑へは向けるな」

「分かった」

ルカは桶を足元へ置き、胸の前で木札を握った。

子供の声が、夕方の畑に細く伸びる。

前に聞いた害獣払い歌よりもずっと小さい。歌というより、息に近い。それでも、湊の掌の熱が一段だけ下がった。

「……今」

「これが声律だ」

エルゼは湊の手を離さないまま言った。

「荒れた出力を、声が叱る。押さえつけるんじゃない。暴れる向きを整える」

ルカの歌は短く終わった。

掌の赤みは消えていない。痛みも残っている。けれど、さっきまで骨の奥で勝手に膨らみかけていた熱は、確かに小さくなっていた。

湊はルカを見た。

「ありがとう」

「変な手だね」

「礼の返事、それかよ」

「だって変だもん」

ルカは真顔だった。

エルゼが、少しだけ息を吐いた。笑ったのかと思ったが、表情は変わっていない。

「分かったか」

「少しだけ」

「少しでいい。分かったふりをされる方が困る」

エルゼは六弦を肩へ戻した。

その動きは、湊が知っているギタリストの仕草に似ていた。似ているのに、革鎧の擦れる音も、泥のついた靴も、ここがまったく別の場所だと突きつけてくる。

「故郷はどこだ」

来た。

湊は喉を鳴らした。

「遠いところです」

「国の名は」

「言っても、たぶん分からないです」

「この辺の地名を知らない。六弦も知らない。なのに返しを別の言葉で知っている」

エルゼは淡々と並べる。

「おまけに、直術式を切り札みたいに信じて撃つ。普通の迷い人じゃない」

「……すみません」

「謝れとは言ってない」

エルゼは村の方へ目を向けた。

夕方の鈴が、家並みの奥で二度鳴る。畑の空気が、少しずつ夜の匂いへ変わっていく。

「畑で聞く話じゃない。あたしの家へ来い」

「え」

「右手をもう一度見る。リフという言葉も聞く。余計な魔法を撃つ前に止める方法も決める」

湊は返事に詰まった。

エルゼの家。さっきまで命を救われ、手首を診られ、距離の近さで心臓を乱された相手の家。

場違いな想像が、一瞬だけ頭をかすめる。

「変な顔をするな」

「してません」

「してる」

エルゼは背を向けた。

「歩け。手が熱くなったら、撃つ前に言え」

湊は右手を握り、開いた。

掌の奥で、まだ小さな雷みたいな熱が鳴っている。

それは力の証ではなかった。

今の湊には、止め方も知らない危険物の残り火だった。

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