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耳が知っているリフ

エルゼと呼ばれていた美しい女性は、湊を見なかった。


左足を踏み込み、肩を落とし、獣の(きば)六弦(ろくげん)の胴で受けた。受けたはずなのに、衝撃がそこで止まらない。弦を叩く低い音が牙の先から泥の胴へ走り、獣の形を内側から揺らす。

濁った獣が横へ吹き飛んだ。


「エルゼねえちゃん!」

ルカが叫んだ。名前が、目の前の姿と繋がる。

エルゼ。村の呼び歌が呼んだ人。

「大声出すな。(のど)を使いすぎる」

返事はまったく甘くなかった。それなのに、ルカは泣きそうな顔で笑っている。

エルゼは六弦を構え直した。細身なのに、立っている場所が動かない。

濁った獣がまた起き上がる。泥の胴がひび割れ、牙だけが先に伸びた。湊の右手がまた熱を持つ。

「撃つな」

エルゼは振り向かずに言った。

「まだ何も」

「撃つ前の音がした。そこで聞け。動くならダーヴの後ろ。勝手に助けようとするな」

見られていないのに、見抜かれた。言い方はきつい。だが、今の湊にはそれがいちばん分かりやすかった。

ダーヴが湊の肩を掴み、後ろへ引く。

「言う通りにしろ」

湊はうなずいた。

濁った獣が低く跳ねる。エルゼは低い弦を短く刻んだ。音は刃物みたいに前へ飛ばず、(うね)の表面を押さえつける。重い反復が一度沈み、次の拍で前へ出た。


低く刻む音。踏み直すような拍。前へ出る重さ。


そのリフが、もう一度繰り返される。音が畝の上を走り、濁った泥の足元を押さえた。濁りは逃げようとするのに、次の刻みが入る前から足元をつかまれているみたいだった。

リフ、という言葉が頭に浮かんだ。確か、同じ短いフレーズを繰り返して、曲の芯にする言い方だったはずだ。湊は()けない。それでも、聴く側としてそのくらいの言葉は知っている。

たったそれだけの反復なのに、獣の輪郭がじわじわ崩れていく。

湊の耳は、その並びへ勝手に吸い寄せられた。


何かが、引っかかった。


初めて聞くはずの音なのに、耳の奥が先に反応する。理由は分からない。ここはライブ会場でも、配信の画面の前でもない。辺境の戦い手が、傷だらけの六弦で魔物の(かく)をほどいているだけだ。

戦っている最中に考えることではない。それでも、引っかかりだけが消えなかった。

エルゼの低い刻みが畑の上を這う。ルカの呼び歌が、次の節へつながるように細く支える。ハンナが白い粉を足元へ散らし、ダーヴが逃げ道を塞ぐ板を起こす。

全員の音と手順が、ひとつの曲みたいに噛み合っていく。

湊だけが、見ている。何もできない。ただ、見ている。


それが悔しいのに、目を逸らせなかった。

濁った獣が最後に大きく口を開く。牙の奥に、小さな黒い核が見えた。エルゼは半歩だけ沈み、左手で弦を押さえ、右手を胸の前へ引く。

エルゼは低い弦を、牙の奥に見えた核へ向けて短く弾いた。

低い音が核を打つ。


黒い核が割れた。


泥の胴が崩れ、牙が土へ落ちる。森で湊が魔法で押し潰した時とは違った。爆ぜない。焦げない。音にほどかれたものが、ただ土の上へ戻っていく。

これが、正しい倒し方なのだ。


湊はその差を、ようやく目で見た。

エルゼは今倒した獣の残りを足で少し寄せた。その下の畝は、周囲より黒く湿っている。ダーヴが言っていた、湊の魔法で深く押した場所なのだと分かった。

「核は浅い。今の獣は小物だ。だが、畝に押し込まれた濁りが深い」

「俺の魔法のせいですか」

「それだけで終わるなら楽だが、そうじゃない。濁りの下に別の癖がある」

エルゼはそこで初めて湊を見た。目の色は、夕方の光の中で灰色にも青にも見える。

「名前」

「え」

「お前の名前だ」

神代湊(かみしろみなと)です」

「ミナト。右手を出せ」

断る空気ではなかった。

湊が右手を差し出すと、エルゼはためらいなく(てのひら)を取った。泥と汗で汚れているはずなのに、気にした様子がない。指の腹で掌の中心を押し、手首を曲げ、魔法を撃とうとした時に熱が集まった場所を確かめていく。

近い。


戦っていた時は距離があった。だが今は、顔を上げるとすぐそこにエルゼの横顔がある。革と油と、少しだけ薬草みたいな匂いがした。

「痛むか」

「少し、痛みます」

「痛むなら生きてる。感覚が残ってるという意味だ」

「……はい」

「熱の抜け方が早すぎる。黙って見せろ」

エルゼの指が、手首から肘の手前までたどる。戦闘の後だと分かっているのに、触れられている場所ばかり意識してしまう。

心臓がうるさい。今の音は、ルカの歌でも六弦でもない。完全に自分のせいだった。


「さっきの、同じ形を繰り返していた音なんですけど」

湊は気を逸らしたくて言った。

「返しのことか」

「返し。俺が知ってる言葉だと、リフって言ったと思います。短いフレーズを繰り返して、曲の芯になるやつです」

「リフ、か。この辺じゃ返しで通じる」

エルゼの眉がわずかに寄った。馬鹿にしているのではなく、知らない言葉を確かめている顔だった。

「そのリフが、妙に耳に残って」

「初めて聞くなら残る。返しはそういうものだ」

「そういう意味だけじゃなくて。うまく言えないんですけど、知ってる形に触ったみたいな感じがして」

説明しながら、自分でも場違いだと思った。だがエルゼは笑わなかった。

「似ている音は入口にはなる。だが、同じものだと思うな。今はまず、お前の手を見る」

それだけ言って、エルゼは湊の手を離した。少しだけ、離れたところが冷える。

「六弦は触ったことがないな」

「……分かりますか」

「手が慣れてない。それなのに、返しをリフと言った」

その言葉まで聞かれていた。

エルゼは畑へ視線を戻す。

「放っておくとまた焼く。村の中に置くと怖がるやつもいる」

「……そうですね」

「だから、あたしが見る」

その場の空気が少しだけ変わった。湊だけが、一拍遅れる。

「見る、というのは」

エルゼは六弦の弦を指で軽く押さえた。

「右手と、そのリフという言葉だ。あと、余計な魔法を撃つ前の判断」

村のどこかで、鈴が小さく鳴った。湊は返事を探した。

見ているだけだった。助けられただけだった。それでも、何かが始まる音だけは、今の自分にも聞こえた。

その音が、少し遅れて別の記憶を叩いた。


低く刻む音。踏み直すような拍。前へ出る重さ。


そうだ。BABYMETALの「KARATE」じゃないか。


曲全体でも、振り付けでもない。けれど、今エルゼが鳴らしたリフは、湊の中で「KARATE」のリフそのものとして鳴っていた。低く反復する圧と、いったん踏み直してから前へ出る感覚が、記憶を同じ輪郭(りんかく)で叩いていた。

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