白い空間
目を開けると、そこは白かった。
ただ白いというより、白そのものが空間になっている感じだった。床も壁も天井も見えない。ただ視界の端まで淡い光で満たされていて、どこを向いても境界がない。
「……病院、じゃないよな、これ」
口に出してみたが、声は変に澄んで響いただけだった。
身体の痛みはなかった。さっき確かに車にはねられたはずなのに、腕も脚も普通に動く。服も、ライブ帰りのままではない。いつの間にか、簡素な白い衣に着替えさせられていた。
「病院にしては趣味が終わってるな」
「目覚めて最初の感想がそれなのですね」
女性の声だった。
振り向くと、白の中から人影が浮かび上がるように現れた。
長い髪は淡い金にも銀にも見え、薄い光を縫い込んだような衣が床のない空間に静かに垂れている。顔立ちは整いすぎていて、作り物めいていた。だが冷たい印象ではない。むしろ、舞台の上から客席を見下ろすスポットライトみたいな、不思議な熱のある視線をしていた。
どこか、既視感があった。
狐火みたいな揺らめきと、神話じみた荘厳さと、やたらと作り込まれた演出感。
「あなたは、何者なんですか?」
「暁律の女神、ルミネア」
ごく自然に名乗られた。
湊は三秒ほど黙ってから、
「……ああ、そういう感じか」
と、なぜか妙に納得した。
車にはねられた。知らない白い空間。いかにも女神っぽい女が現れて、私は女神ですと来た。
ここまで揃えば、もうひとつしかない。
「俺、これって、もう死んだってことですか」
「はい。あなたはすでに死亡しています」
即答だった。
「即答するんだ」
「曖昧にしても状況は良くなりませんので」
「いや、それはそうだけど」
湊は額を押さえた。痛みはない。けれど、ないこと自体が現実味を奪ってくる。
死んだ。しかも、サーフだの圧縮だの、あれだけ死にそうな目に遭ったあとで、普通に交通事故で。
最初に来た感情は、悲しみよりむしろ、ダサい、だった。その次に来たのは、もうBABYMETALを生で聴けないのか、という最悪に個人的な喪失感だった。
「KARATE」で踏み込まれるみたいに背中を押される感じも、「Road of Resistance」で前へ前へ出される感じも、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」で理不尽ごと叩き返してくれるみたいな強さも、最後に客席ごと一つの塊になって、ああいうのをたぶんTHE ONEって呼ぶんだろうな、と勝手に納得する瞬間も、「Arkadia」の最後に胸の奥を持っていかれる感覚も、もう会場では味わえないのかもしれない。そう思った瞬間、事故そのものとは別の種類の痛みが、遅れて胸の奥に来た。
「もっとこう、あるだろ……」
「何が、ですか。死亡の事実ですか、それとも言い方ですか」
「いや、せめてライブ中とかさ」
「あなたはライブ会場では助かっています」
「会場で助かったのは分かってます」
女神は微かに首を傾げた。人間相手の会話に慣れていないのか、あるいは慣れているからこそ、この程度の取り乱しは見慣れているのか、その顔からは判断しづらかった。
「神代湊。十七歳。死亡は現世時間で本日、午後十時四十七分。原因は乗用車との接触事故。なお、ライブ会場での圧死、転倒、窒息はいずれも発生していません」
「丁寧に追い打ちかけるのやめてもらっていいですか」
「事実確認です」
きっぱりしている。
湊は溜息をついた。ついたところで肺に空気が入っている感覚は曖昧だったが、とにかくそうしたかった。
「それで。ここが死後の世界で、あなたが女神で、俺に何か用があるってことで合ってます?」
「概ね、その理解で合っています」
「そこ、そんなに濁すところなんだ」
「あなたには、別世界へ渡っていただきます」
頭の中で、いくつかの単語がほぼ同時に弾けた。異世界、転生、勇者、チート、最強。それらは普段、別に真面目に信じている概念ではなかった。漫画やラノベや配信の中で眺めるだけの、遠い話だった。だが今、自分が白い無限空間で女神と向かい合っている状況だと、話は別だった。
「え、異世界?」
「はい。あなたには別世界へ渡ってもらいます」
「本当に?」
「冗談を言う状況ではありません」
「剣と魔法の?」
「概ね、その認識で支障はありません」
また概ねだ。
だが、湊の胸は一気にざわついた。
死んだのは最悪だ。交通事故は納得いかない。ライブの余韻もぶち壊しだ。けれど、その先に異世界があるというのなら、話が変わってくる。
もちろん、現実逃避だろう。だが死後に現実も何もない。
だったら、少しくらい期待してもいいじゃないか。
「それで、俺は何をすれば?」
「ある世界にて、人の助けとなってください」
「だいぶふわっとしてますね」
「細部は現地で理解できます」
「説明がざっくりしてるなあ」
湊は言いながらも、もう半分浮かれていた。こういうとき、本来ならもっと慎重になるべきなのだろうが、十七歳の男子高校生が女神に異世界行きを告げられて冷静でいられるはずがない。
しかも、さっきまで自分はただの観客だった。ライブを見て、圧倒されて、帰り道で死んだだけの人間だ。音楽が好きなだけで、鳴らす側に立ったことはない。
それが今度は、自分がその渦中へ入る。少なくとも、その瞬間の湊にはそう思えた。




