前へ行く波
観客の頭上を、人が前へ流れていく。
前の方へ行きたい観客を、周りの観客が頭上へ持ち上げ、手から手へ渡していく。最前の柵まで行けば、警備に降ろされて終わる。ライブでたまに起きる、サーフと呼ばれるやつだ。
映像で見るぶんには派手で楽しそうだった。一度くらい、自分もやってみたいと思っていた。
曲の切れ目で、神代湊は周囲の顔を見て、自分を指さし、それから上を指した。
何人かが、行くのか、とでも言いたげに笑う。湊は勢いのままうなずいた。
次の瞬間、腿と背中に手が入る。ぐっと持ち上げられ、足が床から消えた。視界いっぱいに揺れる手のひらと、天井の照明と、誰かの汗で濡れた黒いTシャツの背中が流れていく。
頼んだのは自分だ。けれど、実際に宙へ浮くと話は別だった。
「ちょ、待っ、思ったより高い!」
声を出したところで、爆音に呑まれて自分でもよく聞こえなかった。
会場は熱で満ちていた。床を震わせるキック、身体の芯まで響く低音、頭上で切り裂くように走るギター、喉を焼くような歓声。赤と白の光が交互に明滅し、そのたびに無数の腕が闇から浮かび上がる。客席のあちこちでは、狐の形を作る手が光っていた。ステージの中央では、神話みたいな衣装をまとった三人が、現実離れした精度で踊っていた。
湊はBABYMETALが好きだった。
メタルに詳しいわけではない。歴史も系譜も知らない。どのリフがどのバンドの影響を受けているか、そんな話を振られてもたぶん黙るしかない。ただ、初めて動画で見たときから、どうしようもなく好きだった。格好いいとか、可愛いとか、凄いとか、そういう言葉で分ける前に、全部まとめて刺さったのだ。
だから今日のライブも、チケットが取れた時点で半分人生の勝利だった。
なのにいま、自分は人生の敗北っぽい姿勢で宙を運ばれている。
「いやいやいやいや! 聞いてないって!」
右肩に誰かの肘がぶつかる。背中と腰と腿の裏に、次々と別の手が触れる。浮いているのに、完全に自由ではない。身体を固くしすぎても落ちそうで、暴れればもっと危ない。本能的に腹へ力を入れ、脚をばたつかせないようにした。しかも、自分が流されているあいだにも後ろから次のサーフが来ることがある。頭の上を誰かが通れば、顔や首に靴が当たってもおかしくない。頭の中の冷静な部分が、あ、これ下手したら首やるやつだ、と分析していた。
前の方へ流されるにつれ、照明が近くなる。
ステージの演出が真正面から降ってくる。炎のような光、巨大な映像、重く叩きつけるようなリズム。こんな瞬間にまで、うわ、近い、すげえ、本物だ、と思って浮かれている自分が少し情けなかった。
その直後、後ろから来た次のサーフのブーツが顔の横をかすめた。
うおっ、と目を閉じた瞬間、支えていた手の一つが外れた。
落ちる。そう思った。
半分くらい、本気で死んだと思った。自分で上げてもらったサーフの上で落ち、そのまま次の波に踏まれて終わる。あるいは前方の柵へ頭から突っ込む。少なくとも、今夜の自分の最期の記憶はこの爆音とライトになるのだろう、と。
だが、死ななかった。
「大丈夫ですか!」
気づけば前方の屈強なスタッフに脚を取られ、柵の向こうへ引きずり下ろされていた。息は切れているし、膝も笑っているし、Tシャツはぐしゃぐしゃだし、靴も片方ずれていたが、ちゃんと生きていた。
「あ、はい……すみません……」
「このまま横、行ってください。立ち止まらないで」
「はい……」
情けない返事をしながら、湊は柵の外側にある細い導線へ押し出された。前方の警備帯は客席とは切り離されていて、止まれば次のサーフの邪魔になる。脇を向くと、同じように回収された人間がスタッフに促されながら、会場の外周に沿って後方へ流されていた。湊もそれに混じって歩くしかなかった。
心臓がうるさい。さっきまで音に押されていた耳が、急に自分の鼓動だけを拾い始める。バリケード脇をぐるりと回され、客席後方の再入場口みたいな切れ目からようやく中へ戻されたときには、さっきまでいた前方中央はもうずっと遠かった。
本気で死ぬかと思ったが、助かったのならそれでいい。そう思って水を飲み、乱れた呼吸を整え、後ろ寄りの位置からもう一度ステージを見たとき、湊はわりとあっさり復活していた。
やっぱり格好いい。さっきまで死にかけていたのに、それでもそう思えるのだから、自分は相当どうかしている。
終演後、会場の外へ出ると、夜風が汗ばんだ首筋に気持ちよかった。
耳鳴りはしているし、全身もだるい。けれど、それすら心地よかった。ライブの後にしかない疲れ方だ。スマホの画面には通知がいくつか来ていて、グループチャットでは「サーフして死にかけた」「でも最高だった」と、勢いのまま打ちかけてやめた文章が下書きに残っていた。
改札へ向かう人の流れに乗りながら、湊はさっきの光景を何度も頭の中で巻き戻していた。
ステージの光、客席の熱、身体の芯まで響く重低音。ああいう音に、どうして自分はこんなに惹かれるんだろう。演奏なんかできないし、楽器も弾けない。楽譜も読めないし、人前で歌えるほどの度胸もない。ただ客席で圧倒されて、勝手に人生を変えられたみたいな顔をしているだけなのに。
それでも、何も分からず浴びているわけではなかった。観る側としてなら、少しだけ分かることがある。次にどこで照明が落ちるか、どこで歓声がひっくり返るか、どこで前の客が一歩踏み出すかは、音が来る少し前から何となく分かることがある。理屈は知らない。ただ、ああいう瞬間だけは先に身体が待ってしまう。
信号が青になった。
人の流れが前へ出る。
ぼんやりしたまま、湊も一歩を踏み出した。
そのとき、甲高いブレーキ音が夜気を切り裂いた。
近い、と思うより先に、横から強烈な衝撃が来た。
視界が回り、アスファルトが空へ跳ねる。身体だけが妙に軽い。変だな、と湊は思った。サーフでは落ちなかったのに、こんなライブと何の関係もないところで終わるのか。冗談みたいだ。誰かが叫び、誰かが走ってくる気配がしたが、それもすぐに遠のいていく。音が消え、最後に光だけが残った。
その光は、ただ眩しいのではなかった。何かに引かれるみたいに、意識ごと奥へ持っていかれる感覚があった。落ちているのか、浮いているのかもわからない。ただ、世界の輪郭だけが静かにほどけていく。




