第50話 畑は広いのに、未来の話をする人がいない
ハイレン村へ向かう馬車の中は、いつになく静かだった。
王都からそう遠くない。
地図で見れば、むしろ近い部類だ。
ルクレツィアへ向かった時のような“未知の土地へ長く揺られていく”感じとは少し違う。けれど、その近さが逆に不気味でもあった。
こんなに近くに、王都の台所みたいな場所があって。
そこが、静かに痩せている。
その事実が、五人の中にじわじわと重みを落としていた。
「……なんかさ」
ももかが窓の外を見たまま言う。
「今までで一番、“行く前にテンション上げづらい”かも」
「わかる」
るなが頷く。
「王都はもう現場だったし、セレストは港ってだけでちょっと気持ち動いたし、ルクレツィアは見た目華やかだったし」
「でも今回は」
みうが静かに言う。
「まだ見てないのに、先に“疲れてる”って聞いてるから」
「うん」
「しかも、ちゃんと畑があって作物も育ってるのに、っていうのが余計きつい」
「壊れてるわけじゃないからね」
えれなが言う。
「崩壊ではなく摩耗、って王様もガルドさんも言ってたし」
「摩耗」
ももかがその言葉を口の中で転がす。
「ほんと嫌な言葉」
「でも、的確」
ジェシカが短く言った。
馬車の窓の向こうには、少しずつ景色が変わっていくのが見えた。
石造りや商店の多い道が減り、土の匂いが濃くなる。
低い柵。小さな用水路。風に揺れる草。
王都を支える土地は、確かに王都そのものより広く、静かで、空が大きい。
「……景色だけなら、いいところっぽいね」
るなが言う。
「うん」
みうも頷く。
「広い」
「空気も悪くない」
ももかが言う。
「だから逆に怖い」
「そう」
えれなが腕を組む。
「見た目が荒れてない分、問題が見えにくい」
「うん」
ジェシカも頷いた。
「“大丈夫そう”に見える場所ほど、内側が削れてる時がある」
るなは、その言葉を聞いて胸の奥で小さくうなずく。
セレストも、最初に海を見た時はきれいだった。
ルクレツィアも、最初に見た通りは華やかだった。
そして今度は、広い畑の村。
たぶん今回も、“きれい”や“整ってる”の下にあるものを見なきゃいけない。
◆
ハイレン村へ入った瞬間、五人は同じような違和感を覚えた。
村は、思ったよりちゃんとしていた。
畑は広い。
作物もきちんと育っている。緑の列は乱れていないし、土も死んではいない。
家々も傾いているわけではなく、屋根も壁も最低限は整っている。
家畜も見える。井戸もある。洗濯物も干されている。
貧しさが一目でわかるような光景ではない。
けれど。
「……静か」
みうがぽつりと言った。
「うん」
るなも同じように答える。
「静かすぎる」
「鳥の声の方が大きい」
ももかが言う。
「それ」
えれなが村の中を見回しながら言う。
「人の動きはあるのに、人の声が少ない」
「働いてるのに、生活の音が薄い」
ジェシカが言った。
畑では人が動いている。
鍬を持つ手も止まっていない。
収穫物を選別している人もいる。
子どもも水を運んでいるし、年寄りが道具を整えている姿もある。
なのに、会話が少ない。
必要な一言二言は交わす。
でも、その先がない。
「これ終わったらどうする」とか、「今日は出来がいいな」とか、「明日はこっちをやろう」とか、そういう人間のあたたかい雑音がほとんど聞こえない。
るなは、ぞくっとした。
「……セレストと違う」
「うん」
みうが小さく頷く。
「セレストは、まだ“前はよかった”の気配が町に残ってた」
「ここは?」
「もっと深い」
るなが村の畑を見る。
「諦めが土にしみてる感じ」
「……」
「その表現は、だいぶ来る」
ももかが本気で言った。
「でも、わかる」
えれなも言う。
「壊れてるんじゃない。摩耗してる」
「うん」
ジェシカが短く返す。
「ちゃんと生きてる。だから余計につらい」
◆
村の入口近くで、最初に声をかけてきたのは年配の男だった。
背は高くない。だが、日に焼けた顔と分厚い手が、この土地で長く働いてきたことを示している。年は六十に届くか届かないか。その目に、警戒と疲れが同時にあった。
「王都からの方々ですな」
男は言った。
「はい」
えれなが一歩前へ出る。
「ハイレン村の村長さんでしょうか」
「そうです」
男は頷く。
「村長のドミニクです」
「こんにちは」
みうがやわらかく頭を下げる。
「少し村を見せていただけると」
「……」
ドミニクは五人を順に見た。
「聞いております」
「何を」
るなが聞く。
「王都や港町や商都で、何かと人を騒がせている娘たちだと」
「騒がせてる」
ももかが小さく言う。
「そこ否定できない」
るなが返す。
「いやでも、村長さんからの第一印象としてどうなんだろ」
ドミニクは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「悪い意味ばかりではありませんよ」
「お」
るなが言う。
「よかった」
「ただ」
村長は視線を村へ戻した。
「ハイレン村に、大きな問題はありません」
「……」
「だから、何を見に来たのかは正直、わかりかねています」
「大きな問題はない」
えれなが静かに繰り返す。
「はい」
「でも、皆さん疲れている」
「……」
ドミニクは少しだけ息を吐いた。
「それは、そうです」
「若い人も」
「そうです」
「未来の話をしない」
「……」
「そう聞いています」
「……」
ドミニクは否定しなかった。
でも、認める時の声に、ひどく力がなかった。
「畑はあります」
村長は言う。
「水もあります。作物も育ちます。去年も今年も、飢えるほどではない」
「……」
「けれど、皆、余裕がありません」
「余裕」
みうが聞き返す。
「ええ」
「それは、お金?」
ももかが聞く。
「それもあります」
ドミニクは答える。
「ですが、お金だけではない」
「……」
「何かをよくしようとする余裕。
今年より来年をましにしようと考える余裕。
若い者が“村でこうしたい”と言い出す余裕」
「……」
「そういうものが、薄いのです」
その言葉を聞いた時、るなははっきり思った。
この人は、わかっている。
村が痩せていることも、未来の話が消えていることも。
でも、わかっているだけで、どうにかする力が今はない。
「案内しましょう」
ドミニクが言う。
「見れば、たぶんわかります」
「はい」
るなが答えた。
「ちゃんと見たいです」
◆
村長に案内されて歩くハイレン村は、やはり見れば見るほど不思議な村だった。
収穫前の畑は整っている。
雑草も放置されていないし、道具も最低限きちんと手入れされている。
若い農夫たちは動いているし、年配の者もそれぞれ持ち場を持っている。
村娘たちは籠を持って野菜を運び、井戸では子どもが水を汲んでいる。
仕事は回っている。
村は止まっていない。
なのに、心だけが少し遅れているみたいだった。
「……こんにちは」
みうが、野菜を運んでいた若い娘へ声をかける。
「あ、はい」
娘は返す。返すが、それ以上会話が広がる感じではない。
「その野菜、今日の分?」
「はい」
「大変?」
「……いつも通りです」
「……」
「ありがとう」
「はい」
それで終わる。
会話として間違っているわけじゃない。
でも、“その先”がない。
「……」
みうが娘の背中を見送る。
「ねえ」
「うん」
「普通に話してるのに、全然残らない」
「わかる」
るなが答える。
「なんか、“会話が仕事化してる”感じ」
「ルクレツィアの売り子さんたちは、笑顔が仕事顔だった」
えれなが言う。
「ここは、会話そのものが仕事みたい」
「必要なことだけ言う」
ジェシカが言った。
「余白がない」
「……」
「しんど」
ももかが呟く。
「これ、想像よりきつい」
畑の一角では、若い男が黙々と草を抜いていた。年は二十前後。肩はしっかりしているのに、背中の雰囲気が妙に老けて見える。
「彼は?」
るなが聞く。
「エルンです」
ドミニクが答える。
「若い者の中では働く方です」
「……」
「声、かけていい?」
「どうぞ」
村長が言う。
るなが近づくと、青年は手を止めてこちらを見た。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「王都から来た」
「聞いてる」
「聞いてるんだ」
「うん」
「何て?」
「また変な人が来るって」
「……」
るなは少しだけ肩を落とす。
「まあ、だいたい合ってる」
「自分で言うんだ」
「否定しにくいから」
そのやり取りに、青年――エルンはほんの少しだけ口元を動かした。
笑った、というほどではない。
でも、無反応でもなかった。
「畑、広いね」
るなが言う。
「広い」
「大変?」
「大変」
「……」
「でも、やるしかない」
「うん」
「みんなそう」
「うん」
「……」
それで会話が切れる。
るなは、その途切れ方に息苦しさを感じた。
嫌われているわけじゃない。
むしろちゃんと返している。
でも、“そこから先へ行く必要がない”と、もう先に決めてしまっているみたいだった。
「……ありがとう」
「うん」
エルンはまた草へ視線を戻す。
みうが小さく言った。
「怒ってるわけじゃないんだよね」
「うん」
るなが頷く。
「でも、話す理由が細ってる」
「会話が広がっても、先が変わらないって思ってるのかも」
えれなが言う。
「……」
「それ、かなりきつい」
◆
村の中央へ戻る途中、今度は年寄りたちが小屋の前で選別作業をしているところへ出た。
穀物。豆。乾かした葉物。
手はちゃんと動いている。
けれど、やはり会話は少ない。
「今年はどう?」
るなが思い切って聞いてみる。
「どう、とは」
年寄りの一人が言う。
「出来」
「悪くはない」
「よかった」
「去年より少し楽だ」
「じゃあ、来年は」
るなが言いかけたところで、男は首を横に振った。
「来年のことは来年だ」
「……」
「今は今年を越す」
「……」
その言葉が、胸に重く落ちる。
未来を考えていないわけじゃない。
考える体力がないのだ。
「……」
みうが何か言いかけて、やめる。
えれなも黙る。
ももかは珍しく、すぐに冗談を言わなかった。
ドミニクが低く言う。
「これが今の村です」
「……」
「皆、生きるために働いています」
「……」
「ですが、“その先”は薄い」
「……」
「止まってはいない。けれど、前も向いていない」
「……」
るなは畑を見る。
風に揺れる葉。
水路のきらめき。
土の匂い。
空は高い。
景色だけ見れば、ずっといい村だ。
なのに、そこにいる人たちの中から、“来年こうしたい”“次はこれを試したい”“もっとよくしたい”が抜けている。
「……ほんとに」
るなが小さく言った。
「うん」
「畑は広いのに、未来の話をする人がいない」
「……」
その言葉に、四人も、村長も、しばらく黙った。
誰も否定しなかった。
◆
案内を終えたあと、ドミニクは五人を村の集会小屋へ通した。
木の長机。使い込まれた椅子。壁にかかった道具。
飾り気はないが、よく使われている場所だ。
「何か、見えましたか」
村長が聞いた。
えれなが答えるより先に、みうが口を開いた。
「皆さん、ちゃんと生きてるのに」
「……」
「全然、嬉しそうじゃないです」
「……」
「怒ってるとか、荒れてるとかじゃなくて」
「……」
「もっと静かに、細ってる感じがします」
「……」
ドミニクは目を伏せた。
「そうでしょう」
「うん」
るなも言う。
「ここ、壊れてない。でも、摩耗してる」
「……」
「それ、かなり深いところだと思う」
「ええ」
村長が答える。
「だからこそ、外から見ても気づかれにくい」
ももかが珍しく真面目な顔で言った。
「正直、来る前はもっと“田舎の明るさ”あるかと思ってた」
「……」
「畑あるし、空広いし、人もちゃんといるし」
「……」
「でも、思ったよりずっと静かだった」
「……」
「びっくりした」
「……」
村長は少しだけ苦く笑った。
「そうでしょう」
「うん」
「昔は、もう少しあったのです」
「何が」
「声が」
ドミニクは答えた。
「実りを見て喜ぶ声や、今年はどうだという張り合いが」
「……」
「今は、そこまで皆に余裕がありません」
ジェシカが低く言う。
「疲れが、習慣になってる」
「……」
「そうかもしれません」
ドミニクは頷く。
「働いて、暮らして、納めて、また働く。
それだけで一年が終わる」
「……」
「だから、未来の話は細る」
「……」
るなは、その言葉を聞きながら、胸の中で静かに整理し始めていた。
今、この村にないのは、たぶん派手な祭りじゃない。
無理やりの元気でもない。
“働いた先に、少しでも嬉しいことがある”という実感だ。
でも、まだそれを言葉にするには早い。
今はまだ、見始めたばかりだ。
「……村長さん」
るなが聞く。
「はい」
「これから、もう少し村を見てもいい?」
「どうぞ」
「畑だけじゃなくて、作ってるものとか、食べてるものとか、そういうのも」
「ええ」
ドミニクは頷いた。
「見てください」
「うん」
るなは小さく息を吸う。
「ちゃんと見たい」
村長は、少しだけ不思議そうな目をした。
「皆さんは」
「うん」
「何を探しているのですか」
「……」
るなは少し考えてから答えた。
「まだあるもの」
「……」
「この村の中で、まだ消えてないもの」
「……」
「それ見つけたい」
「……」
ドミニクはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「見つかるといいですな」
「うん」
るなは頷いた。
「たぶん、あるから」
◆
小屋を出たあとの夕方、五人は村の外れにある低い土手へ並んで座った。
畑が見える。
遠くでまだ人が動いている。
空は広く、夕陽が作物の葉先を金色にしていた。
景色だけなら、ほんとうにきれいだった。
「……」
しばらく誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは、ももかだった。
「きつい」
「うん」
るなが答える。
「想像より」
「想像より」
「ルクレツィアはまだ、“悔しい”とか“勝ちたい”あったじゃん」
「うん」
みうが頷く。
「でもここは、そこまで細ってる」
「働いてるのに、達成感がない」
えれなが静かに言う。
「しかも村全体で」
「若い人も、年寄りも、子どもも」
ジェシカが短く付け足した。
みうが膝の上で指を組む。
「……“ちゃんと生きてるのに嬉しそうじゃない”って、すごくつらい」
「うん」
るなが答える。
「わかる」
「しかも、畑も壊れてないし、食べるものもある」
「だから外から見ると大丈夫そう」
えれなが言う。
「でも、中は痩せてる」
「……」
「ねえ」
ももかが聞く。
「これ、どうやって入るの」
「……」
るなは少し考える。
「まだわかんない」
「うん」
「でも、たぶん“元気出して!”じゃ絶対無理」
「それはそう」
えれなが言った。
「まず、何が残ってるか」
「うん」
みうが頷く。
「食べ物とか、手仕事とか、そういう“ちゃんと作ってるもの”を見たい」
「そこだね」
ジェシカが言う。
「働きが全部“生きるため”に閉じてるなら」
「その中で、まだ誰かに喜ばれる余地があるか」
「……」
るなは畑を見る。
「たぶん、そこかな」
「うん」
みうも同じ方を見る。
「この村が忘れてるもの、たぶんそういうのだと思う」
風が吹く。
土の匂いと、草の匂い。
広い畑と、きれいな空。
でも、この景色の中に“未来の話をする声”はまだない。
だから、まずは見つけなきゃいけない。
この村にまだ残っているものを。
痩せてはいても、完全には消えていないものを。
「……よし」
るなが小さく言う。
「うん」
「明日から、もっと村の中入ろう」
「うん」
みうが頷く。
「食べ物とか、手仕事とかも見たい」
「私も」
ももかが言う。
「畑だけだと、この村の“良さ”がどこに残ってるかまだ掴みきれない」
「うん」
えれなが答える。
「労働の重さだけじゃなくて、成果の行き先も見ないと」
「そう」
ジェシカが短く言った。
ハイレン村の夕方は静かだった。
でも、その静けさの中で、五人はもう次の一歩を考え始めている。
今はまだ、村の中の痛みを知ったばかり。
それでも、見るべきものがあるとわかっただけで、一歩目としては十分だった。




