第49話 次の行き先は、豊かなはずの疲れた村
ルクレツィアから王都へ戻った日から、城の中の空気はまた少し変わっていた。
それは目に見える変化ではない。
誰かが大きな声を出したわけでも、廊下の飾りが変わったわけでもない。
けれど、侍女たちの視線の置き方や、文官たちがひそひそ話をやめるタイミングや、兵の立ち方に、ほんの少しだけ「無視できないものを見る」感じが混ざっている。
王都。
レフィア村。
セレスト。
ルクレツィア。
行く先々で、五人は確かに何かを動かしてきた。
だから今、王城の空気の中には、好意と期待と警戒が、前よりもっと綺麗に混ざっている。
「……見られてるねえ」
控えの間へ向かう廊下で、ももかが小声で言った。
「うん」
るなが頷く。
「しかも、“また何かやるのかこいつら”の目」
「その認識でだいたい合ってる」
えれなが言う。
「でも、“珍しい異界人”を見る目じゃなくなった」
「“結果を持って帰ってくるやつら”の方」
ジェシカが短く言った。
「それ」
みうが少し困ったように笑う。
「うれしいけど、ちょっと怖い」
「わかる」
るなが言う。
「王女さまとか王妃さまに会う時はまだいいんだけど」
「お偉い人たちの“さて次はどう使うか”の空気ね」
ももかが言う。
「使うって言うな」
えれなが即座に返す。
「でもまあ、近い」
「そこ否定しないんだ」
「今さら全部は否定できないから」
今日もまた、王に呼ばれている。
呼ばれる時点でだいたい予想はつく。
ルクレツィアの報告が一段落し、支持も反発も強まった。
なら次に来るのは、“また次の町”だ。
「……来るね」
るなが言う。
「来る」
えれなが頷く。
「今度は何だろ」
みうが聞く。
「前に候補あったじゃん」
ももかが指を折る。
「農村、温泉街、あと何だっけ」
「商業都市は終わった」
ジェシカが言う。
「残るのは農村と温泉街」
「温泉街だとちょっと違う意味で身構える」
ももかが言う。
「そこはお前だけだ」
るなが笑う。
「でも農村、たぶん重い気がする」
「うん」
みうも静かに頷いた。
「食べるものを作る場所が止まってるって、すごく怖い」
その一言のあと、五人は少しだけ黙る。
そうだ。
今まで自分たちが見てきた町は、それぞれ違う種類のしんどさを抱えていた。
でも、もし次が農村なら、それは国の土台そのものに近い場所の疲れだ。
王都が重くても、村が不安でも、港町が沈んでも、商都が削り合っていても、まだ何とか見えていた。
でも、食を支える場所が痩せていたら。
それは、きっと別の意味で深い。
◆
通されたのは、王と王妃、それにリヒャルト、ガルドが揃う会議の間だった。
今日はエリシアもいる。正式な会議というより、“次へ進む前の確認”に近い空気だ。
王レオンハルトは、五人が入るとすぐに言った。
「座れ」
「はい」
るなが答える。
全員が席につく。
王妃セレフィーナは相変わらず柔らかな表情をしているが、その眼差しの奥には静かな緊張がある。
リヒャルトは書類を整え、ガルドは壁際で腕を組んでいる。
エリシアは以前よりずっと落ち着いて座っていた。だが今日は、少しだけ不安そうでもあった。
「ルクレツィアの件」
王が低く口を開く。
「結果としては良かった」
「はい」
えれなが答える。
「まだ小さい変化ですが」
「小さくても、通りの空気は確かに変わった」
王は頷く。
「前向きな競争が戻り始めたことも、領主側が見て見ぬふりをできなくなったことも大きい」
「……」
「そのせいで、王都内の空気はまた面倒なことになっている」
「やっぱり」
ももかが言う。
「やっぱりだ」
リヒャルトがきっぱり返した。
「“地方へ異界人を送り込むたびに余計な変化が起きる”と嫌がる者はおります」
「でも」
王妃がやわらかく続ける。
「“では、他に誰が今の町々へ風を通せるのですか”と問う声も増えました」
「……」
「支持と反発、両方ですね」
みうが静かに言う。
「そうです」
王妃は頷いた。
「そして、そのどちらも以前より重くなっています」
王が指先で机を軽く叩く。
「ゆえに、次を軽く選ぶことはできぬ」
「……」
「だが、選ばねばならん」
るなたちは自然と背筋を伸ばした。
「次の行き先は」
王の視線が、部屋の奥の地図へ流れる。
「王都近郊、グランセル平野の村々」
「……」
「その中心となるハイレン村だ」
やっぱり、農村だった。
みうが少しだけ息を呑む。
ももかの表情も、いつもの軽さを少し引っ込めた。
るなは地図を見る。王都からそう遠くない。近いのに、今まで触れられてこなかった場所。
「ハイレン村は、飢えてはいない」
王が言う。
「土地も悪くない。水路もある。作物も育っている」
「……」
「だが、村が痩せている」
「痩せてる」
るなが繰り返す。
「人の心がな」
王は答えた。
部屋が少し静まる。
「それは、どういう」
えれなが問いかける。
答えたのは王妃だった。
「働いています」
静かな声。
「畑も荒れてはいない。人も動いています。収穫もゼロではない」
「……」
「けれど、誰も“来年はもっとよくしよう”と言わないのです」
「……」
「若者が、先を見ない」
「……」
「年寄りが、“今年を越せばいい”としか言わない」
「……」
「そして、子どもたちまで、それを見て静かになっている」
「……」
みうの表情が揺れる。
るなも、胸の奥に少し重いものが落ちるのを感じた。
王都の重さとも違う。
セレストの“前はよかった”とも違う。
ルクレツィアの削り合いとも違う。
もっと、深く地面にしみこんだ疲れだ。
「見た目に壊れてない分、たちが悪い」
ガルドが低く言った。
「崩壊ではない。摩耗だ」
「……」
「摩耗」
ももかが繰り返す。
「なんか、それすごくやだ」
「やだね」
るなも頷く。
「壊れてるならまだ“直さなきゃ”ってなるけど、摩耗って、気づいた時にはみんな慣れちゃってるやつじゃん」
「そうだ」
リヒャルトが言う。
「ハイレン村も、近隣の村々も、“大問題はない”という顔で止まり始めている」
「大問題がない、のに?」
みうが聞く。
「ないように見える」
王妃がやさしく訂正した。
「ですが、食を支える場所がそうなれば、いずれ王都も町も無関係ではいられません」
王女エリシアが、そこで静かに口を開いた。
「豊かなはずの場所ほど、苦しみが見えにくいのですね」
「……」
「畑があり、収穫があり、人が働いている」
「……」
「だから、外から見ると大丈夫に見える」
「そうだ」
王が頷いた。
「だが、その内側で“もう先を見なくていい”という空気が広がれば、国は静かに痩せる」
「……」
その言葉に、るなは少しだけ息を吸った。
静かに痩せる。
それは、この世界に来てから見てきたどの町よりも怖い言い方だった。
◆
会議はさらに続いた。
ハイレン村についての簡単な資料が机に広げられる。
畑の規模。水路の位置。王都への納入量。若者の人数。村長の名前。
数字だけ見れば、確かに“危機的崩壊”ではない。むしろ王都近郊の農村としては安定している方に見える。
でも、その数字の下に見えないものがあるのだ。
「若い農夫たちの離村願望が増えている」
リヒャルトが言う。
「村娘たちも、夢と呼べるものが“外へ出る”くらいしか持てなくなっている」
「……」
「作物は取れても、誇りが痩せている」
「うわ」
るなが言う。
「それ、かなりしんどい」
「うん」
みうも頷く。
「作る意味が見えなくなってるってことですよね」
「近い」
王妃が答える。
「“作っても嬉しくない”“頑張っても先が変わらない”に近いのでしょう」
「……」
「しかも今の彼らは、声を荒げるほどの元気もない」
ガルドが言った。
「不満を爆発させるのではない。
ただ、静かに、細くなっている」
ももかが思わず両腕をさする。
「やだなあ」
「うん」
るなが言う。
「わかる」
「ルクレツィアはまだ、“悔しい”とか“勝ちたい”が残ってたじゃん」
「うん」
「でも、今の話だとハイレン村は、そこまで細ってる」
「そうだね」
えれなが静かに言う。
「“元気を出そう”でどうにかなる相手じゃない」
「……」
「まず、何がまだ残ってるか見ないと」
ジェシカが言った。
「残ってる」
エリシアが小さく繰り返す。
「はい」
みうがそちらを見る。
「きっと、何かはあると思います」
「……」
「セレストも、ルクレツィアも、ちゃんと残ってたから」
「うん」
るなも頷く。
「出せてなかっただけで」
「ハイレン村も、たぶん同じだと思いたい」
王は、しばらく五人を見てから言った。
「今度は派手な成果を求めるな」
「……」
「農村で大きく騒げば、疲れている者ほど離れる」
「はい」
えれなが頷く。
「まずは見る」
王は続ける。
「働き方。疲れ方。食い方。子どもの顔。年寄りの言葉。
この村がどこで未来を諦めているのか、それを見ろ」
「はい」
るなが答えた。
「ちゃんと見る」
◆
会議の最後、空気が少しだけ緩んだ時、ももかが小さく手を挙げた。
「……質問」
「なんだ」
王が見る。
「これ、今までで一番地味なやつでは?」
「ももか」
みうが少し困る。
「いや、悪い意味じゃなくて」
ももかは慌てて言う。
「王都は政治、セレストは港町、ルクレツィアは商都でしょ。
ハイレン村って、たぶん見た目の変化が一番出にくい」
「そうだ」
王妃が答えた。
「だからこそ難しいのです」
「……」
「けれど、“食を支える場所に笑顔がない”というのは、この国にとって決して小さなことではありません」
「……」
「地味に見えても、深い」
「うん」
ももかは少し真面目な顔で頷いた。
「わかった」
エリシアが、そのやり取りを見ながら言う。
「皆さまなら」
「……」
「派手ではなくても、ちゃんと見つけてくださる気がします」
「王女さま」
みうが少しだけ微笑む。
「ありがとうございます」
「でも、今回はほんと難しそう」
るなが正直に言う。
「うん」
王女も頷いた。
「そう思います」
「否定しないんだ」
「ですが」
エリシアは続ける。
「難しいからこそ、見つける意味があるのでは」
「……」
「うん」
るなは頷いた。
「たしかに」
◆
会議を終えて部屋を出たあとも、五人はしばらく静かだった。
王都の廊下は静かで、窓の外には春めいた光が差している。
でも、今の五人の頭の中には、まだ見ぬハイレン村の風景しかない。
広い畑。
働いている人。
静かな若者。
未来を話さない年寄り。
そして、“大きな問題はない”ように見える、痩せた空気。
「……農村」
ももかがぽつりと言う。
「うん」
るなが返す。
「思ったより、重い」
「うん」
みうも頷く。
「私、少しこわい」
「わかる」
るなが言う。
「でも、たぶんそこ大事」
「何が」
「こわいって思えること」
えれなが答えた。
「ルクレツィアみたいに、“面白そう”で入ると見落とす」
「……」
「ハイレン村は、ちゃんと慎重に見た方がいい」
「うん」
ジェシカも短く頷く。
「元気づけようとする前に、まず疲れ方を見ないと」
「……」
「これまでで一番、“明るくする”だけじゃ駄目な場所かも」
みうが言う。
「そうだね」
るなは深く息を吐いた。
「たぶん、“一緒にちょっと楽になる”とか、“ちょっと嬉しい”とか、そういうのからかも」
「うん」
「いきなり祭りとか見本市とかのテンションではない」
えれなが言う。
「だよね」
少し歩いたところで、ももかが急に立ち止まった。
「でも」
「なに」
「王都近郊なんだよね」
「うん」
「ってことは、王都の人たち、毎日その村の作物食べてるってこと?」
「そうなる」
ジェシカが答える。
「……」
「何」
るなが聞く。
「それ、めっちゃ大事じゃん」
ももかが言う。
「自分たちが普段食べてるもの作ってる場所が、未来の話しなくなってるの」
「……」
「うん」
みうが静かに頷いた。
「すごく大事」
「王都の台所、みたいなものだもんね」
るなが言う。
「そう」
えれなが言った。
「だからこそ、派手じゃなくても重いんだよ」
窓の外を風が抜ける。
王都は少しずつ変わってきた。
でも、その王都を支えている近くの村が痩せているのなら、変化はまだまだ浅いのかもしれない。
るなは胸の奥で、静かに思う。
今度は、派手な風じゃない。
枯れかけたところへ、水をやるみたいな章になる。
でも、それはきっと、この国にとってすごく大事なことだ。
「……よし」
るなが言う。
「うん」
「次、ハイレン村」
「うん」
「ちゃんと見る」
「うん」
四人も頷いた。
大きく盛り上げる話じゃないかもしれない。
でも、“豊かなはずなのに笑えない場所”を放っておくわけにはいかない。
そう思えた時点で、第四章はもう始まりかけていた。




