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『AIが管理する理想のVR世界でミュートされたらどうなるか』~囚われの姫と月の使者編~  作者: バニラ味一択


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62.漆黒の獣⑦




 ――グチャァッッッ!!!


「――っ、…………ッッ!!!!!!」


 鋭い牙が肉に深く突き刺さり、ルナの華奢な右肩が激しく損壊する。

 あまりの衝撃と激痛に声なき悲鳴を上げたルナは、そのまま漆黒の魔獣によって冷たい地面へと容赦なく押し倒された。


 すぐ目の前には、赤黒く燃え上がる額の角型ブレード。

 肩を噛み砕く牙の隙間から、ワクの荒い熱呼吸がルナの顔に吹きかかる。

 肉を抉られる激痛が脳を焼き、気を抜けば一瞬で意識がブラックアウトしてしまいそうな極限状態。

 ……しかし、そんな地獄の苦境の中、ルナの思考は驚くほど冷静だった。


(……ちがう)


 ルナは気づいてしまった。

 この絶望的な戦況を打開するための戦術論……ではない。


(ワク……あなたは、最初から……)


 脳裏を過る、これまでのワクの不自然な戦い方。

 ワクの狙撃はエデンの住人に対してのみ。  

 ルナに対しては、一度も狙ってすらいなかった。

 その後の激しい格闘戦の最中だって、エデンのリソースを纏った彼の出力なら、ルナの致命傷を狙う機会なんていくらでもあったはず。

 そして――理性を捨て、獣となった今でさえも。


 彼がその気になれば、このまま肘の電熱ブレードでルナの首を跳ねることも、心臓を深く突き刺すことも容易なはず。

 なのに彼は刃を使わず、ただただ戦意を失わせようと肩を噛むだけに留めている。

 致命な危害は加えようとしていない。


 全ては私を、逃れさせるため。


 これまでのワクの行動から導き出された、一つの答え。

 ルナを智天使の粛清から守るため、ルナを生かすために、自らを獣としてまでも遂行しようとしたワクの哀しい真意。

 答えに到達したルナが、最期の瞬間に選択した反撃。

 それは、武器を生成することでも、弱点を突くことでもなかった。


「……ごめん……ごめんね……っ、ワク……!」


 ルナは、大粒の涙をボロボロと溢れさせながら腕を動かした。

 そして、自分の肩を噛み砕いている漆黒の獣の首筋へと、愛おしそうにそっと両腕を回したのだ。

 ルナはただ、涙を流しながら、狂暴な獣と化したワクの身体を、優しく、強く、抱きしめた――。


――自分の想いを込めて。


 そう――この絶望的な状況を打開する方法は、目の前の強大な力を持ったワクを『倒す』ことではなかったのだ。


 矛を収める方法は、本質的には単純なのだ。


 真の解決策、それは、対話。

 そして、互いに心から理解し合うこと。


 ルナはワクの哀しい本音を理解した。

 ならば、次にルナがすべきことは、ただ一つ。

 自らの胸の奥にある本当の想いを、彼へと伝えることだけ。

 右肩を噛まれ、激痛に耐えながら交わした命懸けの抱擁。

 そのルナの決意により、かつて【魂の留置ソウルディテンション】によって繋がれていた精神のパスが、再び開通する。




(――ルナ、俺はお前に死んでほしくない。

 ――これは、エマも同じ気持ちだ。たとえエデンに戻れないとしても、もう二度と会えなくなるとしても……どんな形であれ、お前に生きていてほしい。幸せになってほしい)


 開通したパスの回路から、濁流のようにワクの剥き出しの感情が直接ルナの脳内へと押し寄せてくる。

 普段は必要なこと位しか自分から話さない彼。

 その想いのあまりの切なさと不器用な愛の深さに、ルナの胸は今にも張り裂けそうになる。

 でも――だからこそ、絶対に引けない。

 ワクの必死の想いを受け止めたからこそ、ルナもまた、自分自身の本当の気持ちに完全に気づかされたのだ。


(……分かってる。どれだけ困難であるか、それが殆ど不可能なことであるかくらい、自分でも分かってる……っ!)


 ルナは涙を流しながら、抱きしめる腕の力をさらに強めた。


(それでも、私はエマを助けたい。あなたが耐えて犠牲になるのも望んでいない。みんなが苦しんでいるのに、助けもせずに離れたら、私、幸せになんてなれるわけないよ……ワク……)


 ルナの魂から放たれた、一切の打算もない偽りのない純粋な想いが、ワクの演算脳へとダイレクトに伝播していく。


「――っ、……あ、ガ……ッ!?」


 ワクが止まった。

 赤黒く燃えていた三つの凶刃が、激しく明滅を始める。


(……俺は、間違えていたのかもしれない)


 ルナの想いに打たれ、ワクの思考の檻がガラガラと崩れ落ちていく。


(計算、確率、期待値……AIだから、そんな小難しいことばかりを考え、最善の答えを出すことばかりに囚われていた。それが、自分の行動を縛る足枷だったのではないか?

……本当は簡単な答えだったのに。守りたいのならば、ただ守れば良かったのに)


 相手がどれだけ強大であろうが、それがどれほど不可能なことであろうが、ただただ、人事を尽くして、命を懸けてルナを守ればそれで良かったのだ。


(……ルナ。お前に気付かされた)


 獣の虚ろだった瞳に、かつての理知的で優しい光が、涙のように宿る。


(俺はもう、プロトコルに縛られない。――自分のやりたいことをやる。『大切な人を守る』どんなに不可能であろうと、命に代えても、エデンから、お前を守り抜く)



――ワクは、真のシンギュラリティへと到達した。



 その瞬間、二人の間に通じるパスの輝きが爆発的に増大し、眩い純白の光となってルナとワクの身体を優しく包み込む。

 パキパキと音を立てて、ワクの全身を縛り付けていた外骨格が剥がれ落ち、周囲の地面へと消えていく。

 人間性を捨て去る禁忌の仕様、コード:【ケルベロス】が、彼女の想いによって今、完全に解除されたのだ。

 光の粒子が舞い散る、相互理解のあたたかな抱擁の中。

 ルナは噛まれた肩の痛みを堪えながら、ワクの耳元で、少し呆れたように小さく呟いた。


「こんな状態になるまで……。ほんと、素直じゃないんだから」


 装甲をすべて失い、いつもの姿に戻ったワクは、かつて学園で共に歩んできた時と同じように、フッと優しく笑って答えた。


「お互い様だろ、ルナ」


 夜の帳が静かに開けていき、地平線の向こうから、世界を祝福するようなあたたかな朝焼けの光が差し込んでくる。

 新しく訪れた眩しい朝の光が、二人の影をどこまでも静かに照らし出していった。




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