42.画家と偶像⑤
ルリは、底なしの絶望が渦巻く黒い沼の前に立った。
画家の振るう筆は狂乱の度を増し、タールのような塗料が津波となって押し寄せる。
だが、ルリはもう回避を選ばなかった。
負傷していない左手を静かに突き出し、迫りくる死の飛沫を正面から迎え撃つ。
(これじゃあ、まだ足りない……)
体内のギアを回して出力を上げる。
だが、それはまだ物理法則の域を出ない。
師であるアルセーヌやアンジェが到達している、世界の理そのものを書き換えるような概念の重みには届かない。
ルリは、今自分が行うことができる『破の型』の本質を突き詰め続けていた。
破壊を伴う解錠術――。言わばそれは、施錠を構成する要素をバラバラにする『結合の分解』に他ならない。
もし、その分解の定義を、概念へと意識拡張できたなら。
(できる。……いや、僕ならやって当然だ)
可能性は成功という花の種だ。
絶対にできると確信することで芽吹き、花開く。
ルリの意識が臨界点を超えた瞬間、彼だけの新たな力が産声を上げた。
「――破綻。概念分解」
ルリの左手が白銀の輝きを放ち、高周波の唸りを上げて振動し始める。
眼前に迫った巨大な黒の奔流にその手をかざした瞬間、物理法則が悲鳴を上げた。
一滴の飛沫さえもルリに触れることは叶わず、塗料は空中で解体され、彼を避けるように後方の床へと叩きつけられた。
『な……何、これ……。こんなことって、あり得るの……!?』
モニター越しにアクアが絶句する。
ルリが到達した分解の真髄。
だが、アクアが真に驚愕したのは、分解された後の光景だった。
ルリの後方に付着した塗料は、黒ではなかった。
それはプリズムを通した光のように鮮やかに分けられ、七色の輝きを放って床を彩っていたのだ。
『減法混色だったの……!? ……全ての色が混ざり合った黒を……分解したっ!?』
アクアの呟きを余所に、ルリは光る手で空間を切り裂いていく。
飛散する飛沫を、大地を侵食する沼を、あらゆる「絶望の黒」を、彼は本来あるべき輝きへと解き放っていく。
「ひたすら一人で絵を完成させようとする君の気持ちなんて、僕にはやっぱり分からないよ」
ルリの声が、静かに画家の胸に突き刺さる。
「どうしてありのままの自分を、今できる精一杯の自分を、彼女に見せることができなかったの? 想いを伝えるのに……自分を偽ってまで塗り重ねる必要なんて、どこにもないじゃないか!」
「……あぁ、あぁぁぁ……っ!!」
分解の速度が加速する。
死を象徴していた黒い沼は跡形もなく霧散し、殺風景だった白い空間には、分解された極彩色の塗料が花畑のように咲き乱れていった。
闇を剥ぎ取られた画家。光を失い息も絶え絶えな偶像。
二体の異形の凶々しい力は明らかに失われている――。
『……信じられない。あの異形たちが、こんなに弱った姿を見せるなんて。でも……情念はまだ消えてない。彼らはまた染まってしまう。ここからどうするつもり?』
モニター越しのアクアの問いに、ルナは不敵な笑みを返した。
「簡単よ。システムは思ったことを表現してくれるんでしょ?」
「素材があるからね。ルナ、完成させてやろう」
二人は、画家の傍らに残されていた、真っ白なままの手付かずのキャンバスに手を伸ばした。
ルナがスキャンした偶像の貌、ルリが分解して取り出した本来の色。二つの純粋なデータが、ルナたちの意志を介してキャンバスへと流れ込む。
――それは、かつてシステムが不可能と断じた、あり得ないはずの奇跡の光景。
柔らかな木漏れ日の中で、一人の女性が穏やかに微笑んでいる。
迷いのない筆致で描かれたその清らかな絵画から、慈しむような光が溢れ出した。
その光は、泥にまみれた画家と孤独に焼かれていた偶像を優しく包み込んでいく。
「あっ……あぁ……」
二体の異形は安らかな粒子となって、純白の空間へと溶けていった。
それを驚愕して見届けたアクアは、一呼吸置いた後、静かにゆっくりと瞳を閉じる。
◇◇◇
「いらっしゃいませー」
今では数少なくなった、画材の香りが漂う絵画専門店。
入店した一人の男は、迷いのない足取りで絵の具の棚へと向かった。棚の前で、彼は長い時間、腕を組んで考え込む。
散々悩んだ末に彼が手に取ったのは、透き通るようなマリンブルーのチューブだった。
「――あの時の、海の色ですか?」
真横からかかった鈴を転がすような声に、男は心臓が跳ねるのを感じた。
二年ぶり、いや、もっと前から、夢にまで見た声。
「……久しぶりだね」
溢れ出しそうな喜びを押し殺し、男は平静を装った。期待して傷つくのを恐れる、臆病な自尊心が彼を強張らせる。
「絵を始めたんですよ。まだ人に見せられるようなもんじゃないけど。今日は、その……材料を買いに来ただけなんです」
目を逸らしながらぶっきらぼうに答える男。
だが恐る恐る隣を盗み見ると、彼女はいたずらっぽくニィっと笑っていた。
「わざわざ、私の美大の近くまで来て、ですか?」
図星を突かれ男の頬が赤く染まる。
全部見透かされている。
相変わらず彼女には敵わない。
(……嬉しい。彼はまだ、私を好きでいてくれた)
彼女の心の中もまた、嵐のような歓喜に包まれていた。
連絡できなかったのも、彼を裏切り傷つけたのも自分の方なのに。
謝りたい。抱きつきたい。
……なのに、どうして意地悪な言葉しか出てこないのだろう。
この想いを悟られるのが、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
「――何でこの店なんですか~?」
彼女はさらに畳みかける。
彼から決定的な言葉を引き出したくて。
しかし、男から返ってきたのは予想外のカウンターだった。
「……君こそ、とっくに卒業してるだろ。何でここにいるんだよ」
「う、うぅっ……」
今度は彼女が顔を朱に染める番だった。
二人の間に不器用な沈黙が流れる。
だが、互いの瞳を、存在を、片時も離したくないと願う二人に、その沈黙は長くは持たなかった。
堪えきれず、どちらからともなく笑いが漏れ出す。
「……お互い変わらないね。今日はお休みですか? もしよかったら、少し歩きません?」
「うん。……いいよ。行きたいところたくさんあるんだ。……でもまずは、君が描いてる絵、見せてよ」
「……嫌です」
「なんで!?」
「絶対にダメです」
◇◇◇
アクアは一筋の涙が頬を伝うのを感じながら、ゆっくりと目を開けた。
(……本当にありがとう。停まっていたアーカイブが更新された。……二人の時は、再び動き出した)
システムの海に漂っていた失敗作は、今、一つの美しい区切りを迎えた。




