34.意識②
翌日、大聖堂の空気は昨日とは一変していた。
この日そこに立っていたのは、修道服を脱ぎ捨て、漆黒の長い髪をなびかせたジャージ姿の美女――全盛期の姿を投影したアンジェだった。
「ルナ、じいさんから『意識』の話は聞いたんだろ? それじゃあ、アタシの得意分野『内的意識』について教えようかね」
ルナとルリは、その凛とした佇まいに圧倒されながらも真剣な眼差しを向ける。
「さて……まずは質問だ。あの日、合体までして無敵に思えたあんたたちが、何でアタシにやられたのか。その理由が分かるかい?」
アンジェとの戦い、そして敗北。
ルリは敗戦の理由を唸りながら考え込み、ルナもまた、記憶の糸を必死に手繰り寄せる。
(あの時の感覚……。絶対に避けられたはずなのに、かわせなかった……)
「おばあちゃん、本当に分からない。私達が合体したあの姿は、あらゆる攻撃を回避できるはずだった。なのに、どうして……」
「そうだねぇ。どんな攻撃もかわせるはずのあんたに拳が届いたんだろう?……それが意味することは何だい?」
アンジェは不敵に微笑む。その言葉に、ルナの背筋が凍りついた。
「……嘘!?……あれは攻撃じゃなかったってこと!?」
「フフフ、察しがいいね。いいかい、このVR世界は、人間の意識をシステムが読み取り事象として表現している。だからアタシはあの時、あんたに触れることしか考えていなかった。……攻撃するなんて、一分も意識しちゃいないんだよ」
「そんな!? でも、触れるだけであんな威力の突きが出るなんて、物理的にあり得ないわ!!」
叫ぶルナの隣で、ルリが苦い顔をして口を開いた。
「ルナ、ばあちゃんはそれができるんだ。……見た目と威力がちぐはぐなんだよ。物理法則を無視してるって、みんな言ってる」
「まさか――『物理の魔女』!!」
ルナの脳裏に、かつて目を通した『エデン危険人物リスト』の記憶が鮮烈に蘇る。
全ての施錠を解く簒奪者:『解盗』
物理法則を無視する超越者:『物理の魔女』
二人とも、リストの最高ランクに位置するランカーだ。
「……あなたたちが、あの……」
目の前にいるのは超危険人物。その事実を噛み締めるルナに、アンジェは問いを重ねる。
「ルナ。このVRの世界で、アタシたちの体の中には何があると思う?」
ルナは虚を突かれた。VRの体はデータの塊だ。解剖学的な内臓も骨も本来は存在しない。
だが、頭部に攻撃を喰らえば脳が揺れて意識が遠のき、全速で走れば肺が焼けるように熱くなる。関節もそうだ。極められれば激痛に叫ぶ。
「何もないはずなのに……感覚は、そこにある……」
「そう、それも『意識』の仕業さ。自分が感じたか、相手から感じさせられたかの違いはあれど、人間が『ここに骨がある、内臓がある』と無意識にでも認識することで、システムが具現化するかどうかの成否を判定し、現実世界のアタシ達の脳に影響が及ぶんだよ」
アンジェは一歩、静かに踏み出した。
「そしてここからが答えだ。……あの時アタシは、自分自身の体内の意識を書き換えていた」
「体内の意識を……書き換える?」
「アタシは長年武術をやってきてね。ふと思ったんだ。この仮想世界で効率の良い突きを打つために、稼働が制限される骨なんてものは本当に必要なのかと」
アンジェのジャージの袖が、微かに震える。
「足指、膝、腰、背骨……それらを通る力の伝達を、アタシは意識の力で全て取っ払った。骨を捨て、突きにより稼働する身体を断裂しない強靭すぎるほどの筋肉に書き換えたのさ。そして、その筋肉に極限のねじれと筋収縮を与え、一滴の隙間もなく圧縮する……」
アンジェがそっと、空中に拳を突き出した。
「こんな感じでねぇ」
――ドォォォォンッ!!!
周囲の空気が重低音を響かせて震えた。
「名付けて『∞纏絲勁』。おまえさんに触れた瞬間、アタシは体内の圧縮をただ解放した。……それだけのことなんだよ」
ルナは、ただただ戦慄していた。
攻撃意識を排した不可避の接触と、体内意識の書き換えによる∞纏絲勁。
『レディ・ブルーキャット』の絶対回避能力は、アンジェの異次元の理屈の前に、戦う前から完全に封殺されていたのだ。
「……これを、私が……できるの?」
絶望に近い溜息を漏らすルナに、アンジェはカラカラと笑った。
「ああ、悪いねぇ、勘違いさせてしまったようだ。ルナ、あんたが同じことをする必要はないんだよ。そもそもこれは、武術や人体構造に長年向き合ってきたアタシだからできる技さ。……代わりに、坊や。あんたのを見せておやり」
「ん? ああ、あれね。わかったよばあちゃん」
ルリは事も無げに応じると、右腕を真っ直ぐ前に突き出した。
直後。
ギュルギュルギュルギュルッ!!
肉体の動く音とは思えない異様な回転音が静寂を切り裂いた。
「なっ……!? なんなの、それ。気持ち悪い!」
ルナは思わず悲鳴を上げた。
ルリの右腕が肘の関節を無視してドリルのように高速回転し続けているのだ。
「へへへ、こんなのだってできるよ」
さらにルリは笑顔のまま首を真後ろへ、そして一回転、二回転と軽快に回してみせた。
「ヒィィッ……!」
「驚くことはないさ。これはねぇ、現実世界の坊やがロボットだからだよ」
アンジェは平然と、その理由を解き明かす。
「現実世界での経験や感覚は、VR上の自己へ投影される。モーターの駆動音、多軸関節の可動域……それらを自分の体として識っている坊やにとって、腕が回ることも首が回ることも、呼吸をするのと同じくらい当たり前のことなのさ」
「……現実世界の感覚が、そのまま……」
「いいかいルナ。VR空間の戦闘において、現実の身体能力が全くの無関係なんてことはありゃしない。まずは自分の体がどう動いているのか深く深く意識しなさい。どんな動作が可能で何が不可能か。それを見極めるだけで、VR上でのあんたの運動能力はさらに跳ね上がる」
そこまで言った後、アンジェの瞳に黒い影が覆う。
「その上でだ。……この世界では現実世界の不自由な制限なんて、全部取っ払っちまいな」
アンジェのジャージの裾があり得ない角度で蠢いた。
「VRの中ではねぇ……人である必要なんてどこにもないのさ」
その言葉は福音ではなく、底知れない深淵からの誘惑のようであった。
『魔女』――。
ルナは今、アンジェリクがそう呼ばれている本当の理由を理解した気がした。




