28.十字架の下で⑧
「惜しかったねぇ……。だが、やはりじいさんの方が一枚上手だったかい。残念だよルナ」
アンジェは小さく息を吐く。
彼女は、この天才的な才能が失われることに落胆の色を隠さなかった。
けれど、その瞳はルナへの称賛に満ちている。
本来、勝負にすらならないはずの格差。
それを発想力と戦略でここまで追い詰めてみせたのだ。
(……あんたの記憶が失われてしまうとしても、アタシだけは、今のあんたの戦いを忘れやしないよ)
アルセーヌは、透明な檻の中で喘ぐルナへと静かに歩み寄った。
「ウレタンゲル。……肩に生成したのは衝撃緩衝材だよ。そしてお嬢さん、ルリの使う格闘術を築いたのは、この私だ」
ステッキの先端を地面に突き、ガラス越しにルナへと語りかける。
「この老いぼれになら近接戦闘で競り勝てるとでも思ったかね? 」
アルセーヌは、ルナの白く細い首筋が密着するガラス面へと指を伸ばした。
「――『ネジ締まり』」
カチ、カチと不吉な音を立てて、ネジ締まり錠が実体化する。
ゆっくりとネジが押し込まれていく。
それはルナの頸部を、慈悲なく、けれど確実に圧迫し始めた。
「……っ、が……あ…………」
喉を押し潰され、声にならない悲鳴がルナの唇から漏れる。肺に空気が届かず、視界がチカチカと火花を散らす。
「安心したまえ。命を奪うつもりはない……ただ気を失わせるだけだ。そして、その微睡み(まどろみ)の中で、君たちの敗北を静かに見届けなさい」
アルセーヌは懐中時計を取り出し、その蓋を開いた。
秒針が、運命の刻みを打っている。
「……ルリが来るのは、そろそろだろう?」
今、約束の二分が過ぎた。
「裏奥義『強手』発動――『忍び足』!!」
闇の底から藍色の雷鳴が放たれた。
ルリが地を蹴った瞬間、大聖堂の静寂は粉々に砕け散る。
壁、梁、天井――彼が足場にした構造物が、爆圧に耐えきれず次々と破裂していく。
最短距離ではない。それは全てを置き去りにする更なる加速のための狂気的な軌道。
「アルセーヌ流近接格闘術奥義――『一天』!!」
右腕に凝縮された藍色のドリルが、空間を削り取りながら神速で突き進む。
姿が視認できない速度。
どの方向から攻撃されるのかは、人間には反応できない。
だが、アルセーヌはその突撃を、見ようとすらしていなかった。
アルセーヌの射程外周。
そこには、触れれば割れるほど極薄の『窓』が、全方位を半円球状に包むように張り巡らされていた。
それは攻撃を直接防ぐためではない。その表面には冷徹なるシステムが組み込まれている。
(――防犯装置『衝撃感知センサー』発動)
プログラムによる自動防衛により、感知から防御までのラグが完全になくなる。
射程外周の『窓』にルリが触れた瞬間、ルリとアルセーヌの間に、幾重もの強化ガラスが自動生成された。
「うおおォォォォッ!!」
ルリの雄叫びが轟く。
『強手』のドリルは一枚、また一枚と厚い防壁を粉砕し、アルセーヌの喉元へと肉薄する。
だが――あと一枚。
火花を散らし猛烈な回転を続けるドリルは、最後の一枚を前にして、ついにその勢いを殺された。
「……また速くなったのう。だが、惜しかったな」
アルセーヌが静かに死を宣告する。勝負は決した。
――しかし、絶望に沈んでいなければならないルナの瞳は、爛々と輝きを増した。
ルナの手には未だ【伸縮式強襲用特殊警棒】が握られていた。
このVR世界において、名称というものは万人が抱くイメージを体現し、絶対的な権能を与える。
市民を守るための武装である警棒には、救助等の特異な状況に対応するためのギミックが施されている。
その柄の先端に取り付けられているのは……
――『ガラスクラッシャー』
「……あ、あああああっ!!」
ルナは自由の利かない檻の中で最後の力を振り絞り、警棒のグリップエンドを前面のガラスへと当てた。
システムが定義する。
ガラスを破壊するための特効は、アルセーヌの絶対的な防壁をあまりにも容易く破壊した。
パリンッ!
「なっ……!?」
「この子は……最後までこれを隠して……!」
アルセーヌが、そしてアンジェが、同時に息を呑む。
(……自分が殺されず、捕獲されるであろうことさえも想定していた!?)
(この瞬間のために切り札を温存していたというのかい!?)
「いっけえぇぇぇぇっ!!」
自らを拘束していた窓を割ったルナは、今まさにルリが砕こうとしている最後の一枚へ、グリップエンドを突き立てる。
最後の窓は消滅し、防がれていたルリの速度が解放された。
――鋭い貫通音。
ついに藍色のドリルは、驚愕に染まったアルセーヌの胸を貫いた。




