20.家族喧嘩
「この姿でお会いするのは、二回目かな? お嬢さん」
シルクハットの陰から、アルセーヌの鋭い眼光がルナを射抜いた。
現実世界の神父としての柔和な仮面は剥がれ落ち、そこには夜の秩序を司る冷徹な怪盗の顔がある。
「……アルセーヌ。……まさか、あなたが……」
ルナの足が震える。あの日の圧倒的な絶望が、冷たい汗となって背中を伝う。
アルセーヌは隣に立つ少年に視線を移すと、静かに、だが逆らえぬ威厳を持って命じた。
「孫よ、もう良いだろう。いつまでその仮初めの姿でいるつもりだ」
その言葉を合図に、ラピスの小さな体が激しく明滅した。
輪郭が崩れ、深い藍色の粒子が嵐のように彼を包み込む。
粒子が晴れた跡に立っていたのは、機械ではなく、藍装束を纏った凛々しき若者――ルナがかつて剣を交えた、あの『ルリ』だった。
「あなたは……ルリ……っ」
ルナの驚愕を余所に、ルリは苦悶の表情で祖父へと詰め寄った。
「……じいちゃん……どういうことだよ! ルナを助けてあげるんじゃなかったの!? 彼女の力になるって、そう言ったじゃないか!」
「ルリよ。せっかくエデンという名の地獄から無事に逃れられた者を、みすみす死なせるわけにはいかんのだ。私にも引けぬ道理がある。……子供が命を失うことなど、あってはならんのだよ」
アルセーヌの声はどこまでも穏やかで、それゆえに狂気を孕んでいた。ルリが食い下がる。
「それで……他の人たちと同じように、自我に鍵をかけるっていうの!? ルナは狂っていない! どこにでもいる普通の女の子じゃないか!」
「……何を……あなたたちは、何を言っているの?」
置き去りにされたルナが、震える声で問いかける。アルセーヌは優雅に一歩踏み出し、残酷な真実を告げた。
「ふむ。君には知る権利があるな。たとえ……この後、すべてを忘れてしまうとしても」
彼は大聖堂のステンドグラスを見上げ、かつての神父の声音で語り始めた。
「エデンから生還した君を回復させ、親元へ戻す。それが我々の方針だった。かつて戦った敵だと知れば、君は心を閉ざし受け入れなかっただろう? だから私達はVR上での姿を伏せた。……君を、安全に保護するために」
アルセーヌのモノクルが冷たく光る。
「この教会は、エデンから廃棄された者の保護施設だ。だが君も知っての通り、廃棄者の多くは精神に異常をきたしている。異形化した者の末路は二つ。VR上に暴走した自我を取り残し、空っぽの肉体でログアウトするか、あるいは、暴走した自我を抱えたまま現実へ戻るかだ」
ルナの脳裏に、廃棄された国民たちの姿が過る。
「前者は時間をかけ、一から自我を構築し直し社会復帰させるしか術はない。だが後者は――その『暴走した願い』を封じ込めなければならないのだ」
ルナは思い出す。かつてアルセーヌが、エデンの人々の記憶に鍵をかけていたことを。
「……私の自我に……鍵をかけるというの?」
「そう。管理AIを救いたいという無謀な願い、執着。それらを封印し、君はエデンなど知らなかった娘として、外地の家族の元へ帰るのだ。……ルナさん、子供は親の元へと帰るべきなのだよ」
それは、慈悲という名の魂の殺害だった。
「……じいちゃん。ルナは僕のこと『家族みたいなもん』なんだってさ」
ルリの声が、厳かな大聖堂の天上に反響する。彼は藍色の装束の拳を固く握りしめ、祖父の眼光を真っ向から受け止めた。
「たった三ヶ月だったけど……彼女は本気で、僕たちのことを想ってくれている。それなのに、その心に鍵をかけ、大事な人を忘れて、すべてを無かったことにするなんて……そんな酷いこと僕にはできない。そんなの救いなんかじゃないよ!」
ルリは叫び、助けを求めるように傍らに立つアンジェを振り返った。
「ばあちゃんだって、それでいいのかよ! ずっと一緒にルナを見てきたじゃないか!」
アンジェはふっと息を吐き、ジャージのポケットに手を入れたまま、どこか遠くを見るような目でステンドグラスを見上げた。
「……あたしはねぇ、どちらの肩を持つこともできないよ坊や。この偏屈なじいさんの言い分も一理あるし、あんたの青臭い気持ちもよく分かる。……もちろん、ルナの必死な願いもね」
アンジェはそこで言葉を切り、ルリに向かって不敵な、そして慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「となれば、坊や。……やるべきことは一つじゃないかねぇ」
その言葉に、ルリの瞳に宿る迷いが、青い炎となって焼き尽くされた。彼は一歩前へ踏み出し、アルセーヌを見据える。
「……そうだね。僕がルナを守れば済む話なんだ。エデンのシステムだろうが、Eシリーズだろうが……僕が全部、叩き伏せてみせる。ルナが理不尽に引き裂かれる必要なんてないんだ。……勝負だよ、じいちゃん!」
ルリの闘気が藍色の粒子となって激しく実体化する。
それを見たアルセーヌは、モノクルの奥の瞳をわずかに細めた。怒りではない。それは、自分の庇護下にあると思っていた雛鳥が、初めて牙を剥いたことへの、賞賛と拒絶が混ざり合った色だった。
「ほう。……一度としてわしに勝てたことのないお前が、この老骨に挑戦か。いいだろう、ルリ」
大聖堂の空気が爆ぜる。
ルナを巡る忘却の救済と茨の希望。
互いの意地がぶつかり合う、家族どおしの魂を賭けた戦いが今、幕を開けた。




