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『AIが管理する理想のVR世界でミュートされたらどうなるか』~囚われの姫と月の使者編~  作者: バニラ味一択


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幕間.ジャンという子供の思い出




 ジャンは、世界で一番幸せな子供だった。


 不妊治療の末の高齢出産。科学の進歩がなければ生まれてこられなかった待望の子供。

 エデン国という巨大なゆりかごが産声を上げる少し前、彼ら一家は、希望を抱いてこの国へ移住してきた。


 この国は、驚くほど美しかった。犯罪は少なく、街並みは絵画のように整い、四季折々の料理はどれも頬が落ちるほど美味しい。そして何より、人々が思いやりという目に見えない宝物を大切にしていた。

 父は、この慈愛に満ちた地を安住の終の棲家と定めた。妻のクラリスも、その決定に心から賛成した。

 父は、大手住宅メーカーの技術顧問を務める建築界の至宝だった。

 その手腕は現場の叩き上げの職人たちですら崇めるほど。社会的地位も高く、家計は常に豊かだった。


 物心ついたジャンにとって、家族のために働く父は誰よりも誇らしい英雄だった。

 唯一の不満を挙げるなら、父が多忙すぎること。

 朝、ジャンが目を覚ます前に出勤し、夜、深い眠りに落ちた後に帰宅する。父の大きな手に触れられない寂しさは、幼い心に小さな影を落としていた。

 けれど、ジャンは決して孤独ではなかった。家中の至る所に、父の愛が形となって溢れていたからだ。


 父は自らの技術の粋を尽くし、郊外に理想の城を築き上げた。

 最新のセンサーライト、死角のない防犯カメラ。ピッキングを寄せ付けない多重施錠のドア。そして、ハンマーで叩いても容易には砕けない特殊強化ガラス。


「侵入に五分以上かかる家を、泥棒は狙わない」


 それが父の持論だった。ジャンはその堅牢な城の構造を教えられるたび、父が自分たちの安全を何よりも優先してくれていることを肌で感じ、尊敬を深めていたのだ。







 ――しかし、時計の針は残酷に回り始める。



 世界は劇的に変貌した。



 エデン国設立から半年。

 かつての美しい国は、いつしか外地と呼ばれる掃き溜めへと変貌していった。

 AIの進化が労働を奪い、エデンによる資源の独占が富の偏りを加速させる。


 最初に動いたのは、真の富裕層だった。彼らは秩序が崩壊することを予見し、自分たちの聖域をAIの管理に委ねることで保身を図った。

 次に動いたのは、政治を司る者たちだった。彼らは広がる格差と貧困から目を背け、民を見捨てて一足先にエデンという天国へ逃げ込んだ。


 生まれたのは荒廃していく街。

 そして、貧困に疲弊し『無敵』となった一部の人々。

 外地の人々は、二つの選択を迫られることになる。

 AIに魂を売り渡し家畜となって逃げるか、それとも、危険を省みず泥を啜ってでも人間として抗うか。




 ジャンの父は、必然的にさらに多忙を極めていく。

 貧困は人を獣に変える。持たざる者が持つ者から奪うのは生存本能となった。

 防犯設備は安心のためではなく、生存のために不可欠なものへと変わったのだ。




 今日はジャンの誕生日。父の帰宅はこの日も叶わなかった。


「パパからのプレゼントよ、ジャン」


 母のクラリスが優しく微笑んで小さな包みを差し出した。

 包装を開けると、そこには最新のAIを搭載したぬいぐるみが入っていた。


 父には心配事があった。外国から来たジャンは友達が少なく物静かな性格ゆえに、男の子らしい剣や銃の遊びよりも、おままごとを好んでいたからだ。

 かつては男の子らしくしなさいと、無理にスポーツカーの模型を買い与えたこともあった父が、今回、初めてジャンの好みに歩み寄り、このぬいぐるみを選んでくれた。


(パパ……ありがとう)


 ジャンは嬉しくてたまらなかった。

 母とケーキを食べた後、彼はぬいぐるみに話しかける。ジャンはパパ役になりきり、ぬいぐるみに無償の愛を注ぐ遊びを始めた。父のように、大切なものを守れる強くて優しい人になれるように。




 その時だった。

 ふっ、と家の明かりがすべて消えた。


「……停電かしら?」


「ママ、暗いよ」


 闇の中で、異質な音が響く。

 ――ガンッ、ガンッ、ガンッ!


 父が誇った強化ガラスに、何かが、何度も、執拗に打ち付けられている。

 二人は恐怖する。

 しかし、電気が遮断されれば警報装置は作動しない。通報するための端末も暗闇のなかでは分からない。

 そして、五分。『泥棒が諦める』と信じていた時間が過ぎた、まさにその時。


 バリィィィィンッ!


 あまりにも簡単に、絶望が室内に流れ込んだ。






 ◇◇◇






「ああぁ……なんてことだ……クラリス。……ジャン……ジャンはどこなんだ、返事をしてくれ……っ!」


 警察からの悲報を受け、自宅へ駆け戻った父を待っていたのは、無残な結果だった。

 最愛の妻、クラリスの遺体との対面。


「……奥様は、背中を刺されていました。何かを……いえ、お子様を庇うようにして、丸まって倒れていたようです」


 鑑識官の言葉が父の鼓動を止める。

 ピッキング対策も、強化ガラスも、何の意味もなさなかった。

 相手が必ず奪うと決めてしまえば、法も倫理も捨て、暴力でしか明日を繋げないほど世界が飢えてしまえば。

 どんな防犯措置でも、人の悪意を防ぎきることはできない。



 世界が変わってしまえば、防ぐことはできないのだ。



 この悲劇はエデンが生まれたからだった。

 エデンが光を独占したせいで、外地は闇に沈み、獣の群れへと成り果てた。


 静まり返った現場。

 崩れたケーキと乾いた血の跡。


 どこへ連れ去られたかも分からぬ小さな主人の代わりに、ぬいぐるみだけが虚空を見つめて転がっていた。




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