14.現状
礼拝を終えた大聖堂に、カチャカチャという慎ましい食器の音が響き渡る。
先ほどまで祈りを捧げていた人々は、神父や作業用ロボット達が手際よく配膳する、焼き立てのパンと湯気の立つ野菜スープを受け取っていく。彼らは一言も発さず、まるで行列を作るアリのように整然と、併設された寮の自室へと戻っていった。
「申し訳ないが、ルナさん。君の分は後でゆっくり用意する。少しだけ待っていておくれ」
神父の穏やかな、けれど有無を言わせぬ響きを持った声。
配膳が一段落した後、ルナはアンジェに肩を貸され、神父の自室へと移動した。
そこは、壁一面を古い書物が埋め尽くし、使い込まれた木製家具が並ぶ、静謐な空間だった。
中央の丸テーブルには、三人分の食事が並べられている。
「待たせたね。さあ、食べなさい。……だが、ルナさん。そのパンには手をつけない方がいい」
神父が、琥珀色のスープをルナの前に差し出しながら静かに告げた。
ルナが不思議そうな表情になると、隣に座ったアンジェが補足するように頷く。
「あんたはエデンから来たばかりだろう? ずっとチューブの流動食ばかりだった胃に、いきなりパンを放り込んだらひどい目に遭うよ。まずはこのスープを、一口ずつ、ゆっくりと噛むように飲むんだ」
「……分かりました」
ルナは震える手でスプーンを持ち、スープを口に運んだ。
温かい。そして複雑だ。
野菜の泥臭さ、塩の尖った味、そして煮込まれた肉の脂。エデンの完璧な栄養素にはなかった、不純で、しかし生命力に満ちた味が舌の上で爆発する。
「助けていただきありがとうございます。……すみませんが……ここは?……あなたは一体?」
少しずつ胃に温もりが落ちていくのを感じながら、ルナは本質的な問いを投げかけた。神父は、自身のスープを一口啜ると、慈愛に満ちた、しかしどこか観察者のような瞳でルナを見つめた。
「私はこの教会を預かっている神父だ。見ての通り、ここはエデンから廃棄された元住人たちを保護し、いつか外の世界で自立して生きていけるよう、心身を整えるための施設だよ」
神父は一度言葉を切り、テーブルの隅で静かに待機している小型のヒト型ロボットに視線をやった。ロボットのレンズが、じっとルナを見つめている。
「ルナさんと言ったね。……通常、エデンから廃棄される者たちは、精神に修復不能な異常をきたしている。自我を完全に喪失して虚空を見つめるか、逆に肥大化した自我が暴走して正常な判断ができなくなっているかなのだが……」
神父の瞳が、射抜くように鋭くなった。
「アンジェリクの言う通り、君は狂っていない。意識は鮮明で論理的な対話も可能だ。……いったい何があったのかな? エデンが正常な人間を廃棄するなど前例がないことなのだよ」
部屋の空気が、一瞬で張り詰める。
ルナという異質な存在。
もしこの教会に害をなす者であれば、彼らとて、ルナを見逃すことはできない。
すこしばかりの沈黙が続いた後、ルナは、重い口を開いた。
「……やっぱり、ここは外地なんですね。エデンから廃棄された理由は、正直なところ私にも分かりません。ですが……」
温かなスープの蒸気に視線を落としながら、彼女はこれまでの出来事を静かに語り始める。
エデンの仮想空間(VR)内で、悍ましい姿に異形化していった人々。それをパートナーであるワクと共に狩り、元の姿へと救済していたこと。蔓延する謎の薬物を撲滅するため、歓楽街へ潜入し、命を懸けた捜査に身を投じていたこと。
任務を完遂して戻った場所で待っていた、AI・エイミットによる無慈悲な蹂躙。
そして何より、ルナの魂の半身とも言えるパートナー、エマの現状を。
「……ふむ。なるほど、事情は分かったよ」
神父は、ルナの話を遮ることなく最後まで聞き届けた。その瞳には同情よりも先に、深い洞察の光が宿っている。
「君がこれからどうしたいか、考えるべきことは山ほどあるだろう。だが――」
神父は、食べ終えたスープの器を脇に避け、ルナの細い手首に視線を落とした。
「まずは君の、その『体』を整えることだ。ルナさん、君はこれまでVRの中でしか、まともに身体を動かしてこなかったのではないかな?」
「それは……はい。任務の訓練も、実戦も、すべてはダイブ中でしたから」
「やはりか。厳しいことを言うようだが、今の君の筋力は子供と大差ない。使われていないも同然だ。エデンの清潔な個室で寝食を共にするだけなら問題ないが、この外地で少しでも運動をしようものなら、肺や心臓が悲鳴を上げ、たちまち疲労に屈してしまうだろう」
神父の言葉は、冷徹なまでに現実を突き刺した。
VRであれほど華麗に舞い、異形を屠ってきたルナの身体は、現実世界においては借り物のように脆弱だった。
「いいかね、焦ることはない。時間はたっぷりとある。まずはリハビリだ。ここでの食事で内臓を動かし、土を歩いて運動に耐えうる肉体を取り戻しなさい。身体をケアしながら、今後のことはゆっくりと考えればいい」
ルナは、自分の震える細い指先をじっと見つめた。
万能感に満ちていたエデンの守護者としての皮が剥がれ、一人の無力な少女として地に足をつけるための試練。
「……分かりました。ありがとうございます」
ルナの言葉に、傍らのヒト型ロボットが小さな電子音を鳴らした。それは、どこか彼女の決意を肯定するような、優しい響きだった。




