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BABEL ――反逆の十字騎士団――  作者: Hellmärc


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《まだ、何も返せていないけれど》 5

 ヴァレリアンが、ついに膝をついた。

 片膝ではない。両膝が石畳に落ち、剣先を支えにしてもなお、身体が前に崩れそうになる。呼吸は荒く、夜の領域が放つ圧力に、肉体も精神も限界を迎えていた。

 その光景を見て、ジルベールの喉がわずかに鳴る。

 あのフランチェスカですら、唇を強く噛み、血が滲むほどに歯を食いしばっている。判断は早い彼女が、ここでは次の一手を選べずにいる。剣を構えたまま、僅かに震える指先。焦燥が、隠しきれずに表に出ていた。

 ――終わった。


 ジルベールは、そう思った。

 いや、思ってしまった。

 これ以上、自分に出来ることはない。

 剣も、魔力も、覚悟も、すべてを出し切っても。その上で、この夜はなお広がり続け、魔女は天上から見下ろしているだけで、都市も人も、抵抗する価値すらないと示し続ける。

 だからこそ、彼は魔女を見なかった。

 ジルベールが仰いだのは、割れた空のさらに向こう――

 魔女の背後にある、星の気配だった。


「ごめん……でも、来てくれ」


 声は小さく、震えていた。

 懇願に近い。祈りにすら似ている。

 迷いは、確かにあった。

 自分はまだ見習いで、正規の騎士ですらない。借りばかりを重ね、何ひとつ返せていない。それなのに、また彼女の力を頼るなど、甘え以外の何物でもない。

 自分に僅かばかりも矜持があるのなら、ここで立ち上がれない自分を恥じて、何かも諦めるべきなのかも知れない。

 だが、その逡巡こそが、人を殺す。

 可能性のすべてを使わず、守れるはずの命を切り捨てることこそ、彼の矜持に反した。

 ジルベールは、息を吸い、言葉を選ばなかった。

 虚飾も、比喩も、願望も要らない。必要なのは、その名だけ。


「――――ステラリノルヴァ=アウステリウム」


 紡がれたのは、星に住まう最強種の真名。

 世界に対してではない。彼女そのものへと向けられた、呼び声。

 ジルベールは知っている。

 彼女は――――竜は、真実以外の言葉を持たない。

 嘘で呼べば応えない。恐怖でも、命令でも、崇拝でもない。ただ、正しく名を呼ばれたときにだけ、星は応じる。

 空が、揺れた。

 ひび割れた夜の天蓋が、別の法則に触れたかのように震動する。

 魔女が、初めて表情を変えた。無感情な瞳が、わずかに見開かれ、天上を仰ぐ。


 人域の果て。

 山脈の彼方から、一筋の流星が飛来する。


 それは落下ではなかった。

 導かれ、選ばれ、一直線に都市フレリスへと向かってくる意志の塊だった。

 音が消える。

 世界が、ほんの刹那、呼吸を忘れる。

 瞬きの刹那、轟音と衝撃波が夜を引き裂いた。

 流星は地に叩きつけられたのではない。舞い降りたのだ。星の力を制御しきったまま、破壊を最小限に抑え、なお圧倒的な存在感だけを刻みつけて。


「随分と、早い再会であったな」


 朗らかで、どこか楽しげな声。

 夜の領域の中心に、星の光が満ちる。

 それは、星を司るモノ。

 流星を操る存在。かつて神々に封じられ、それでもなお天穹に名を刻み続ける、星剣の鞘。


「ジルベール」


 名を呼ばれた瞬間、胸の奥に張りついていた重圧が、わずかに緩んだ。

 星竜ステラリノルヴァは、星の髪を持つ少女の姿で、無邪気とも取れる快活な笑顔を浮かべている。その背後で、夜の領域が軋み、魔女の結界が押し返されている兆しを見せていた。

 魔女が、動かない。

 否、動けない。

 星が来た。

 それだけで、この戦場の趨勢は、確かに変わってしまっている。

 





















 ヴァレリアンも、フランチェスカも、突然訪れた流星の化身がもたらした変化に、身体が追いついていなかった。

 夜の領域がなお街を覆っているというのに、その中心に立つ存在だけが、まるで別の法則に属している。魔女でも騎士でもない、宙から降りてきた異物。

 二人は剣を構えたまま、動けずにいた。

 動いたのは、ジルベールだけだった。足音が石畳を叩き、彼は星の光の中へと駆け寄る。


「ステラ。星剣は抜けない」


 切迫した声だった。

 あの剣があれば、あるいは――という思考を、彼自身が断ち切るように。


「あの程度の輩に星が動くものか。それに奴はこの星の原産種であろう? 表層の癌にも成り切れぬ種に、星は傘を開かん」


 ステラは笑っていた。

 魔女を見据えながらも、その声には一片の緊張もない。夜の領域そのものを、取るに足らぬ天候のように扱っている。


「倒せる?」

「はっ、笑わせるでない。我は竜ぞ」


 その言葉が終わるより早く、空気が変質する。

 少女の姿だったステラの輪郭が、星光に滲み、引き延ばされる。骨格が再編され、質量が跳ね上がり、空間そのものが軋む音を立てた。

 光が弱まるとそこにいたのは、かつて魔族の軍勢を一息で滅ぼした、白竜そのもの。

 天を裂くほどの巨躯。夜を反射する鱗は純白でありながら、星の残光を帯び、見る角度によって青にも銀にも見える。四肢は大地に触れていない。展開された翼だけで、存在そのものが浮いている。

 翼が開かれる。風が、止んだ。

 正確には、風という概念が一拍遅れて思い出したように存在を主張するまでの、奇妙な空白が生まれたのだ。羽ばたきが生むはずの轟音も、翼が大気を裂く衝撃も、すべてが一度、宙吊りになる。音だけではない。夜の領域に満ちていた歪みすら、息を潜めたように凪いだ。

 ジルベールは喉の奥がひりつくのを感じながら、ただ空を見上げていた。巨大な白竜の鱗一枚一枚が星光を孕み、鏡のように歪められた世界を正しく照らし返している。夜の領域が侵食だとするなら、あれは、上書きだ。


 フランチェスカは剣を構えたまま、踏み出せずにいた。騎士としての判断ではない。剣士としての勘が、ここから先は自分の領分ではないと告げていた。ヴァレリアンも同様だった。歯を食いしばり、剣を構える腕に力を込めながら、それでも前に出ることが出来ない。自分たちがいま立っているのは、戦場ではなく、天災の縁だと悟ってしまったからだ。

 そしてたった一度の羽ばたきで、嵐が生まれた。

 凄まじい風圧が地表を舐め、瓦礫を巻き上げ、夜の領域に歪みを生じさせる。風除けを持たないヴァレリアンは反射的に大地にしがみつき、身体を伏せた。剣を地面に突き立てても、身体が持ち上がりそうになる。

 対する鏡の魔女は、夜の領域の中心で静かに浮かんでいた。鏡面の髪が、星光を受けて鈍く輝く。だが、その姿には先ほどまでの余裕がない。夜の領域が竜の存在によって押し返され、軋み、悲鳴のような波動を発しているのが、彼女自身にも分かっているのだ。

 魔女が腕を広げる。


 夜の領域が応え、都市の奥、眠りに沈んだ人々の精神から、魔力が引き抜かれていく。誰かが遠くでうめいた気がした。通りに張り付いた鏡面が増殖し、折り重なり、巨大な多面体の防壁を形作る。術式は粗い。だが量が、それを補って余りある。

 ステラはそれを見て、鼻先で小さく息を吐いた。

 次の瞬間、白竜の口腔に青白い光が満ちる。

 放たれた息吹は、直線ではなかった。夜の領域そのものをなぞるように広がり、鏡の構造体に触れた瞬間、魔法として成立する前段階の因果ごと焼き払った。鏡は反射する暇すらなく、音もなく蒸発する。

 魔女が即座に術式を切り替える。鏡面が竜の鱗に突き刺さり、絡みつき、空間ごと拘束しようとする。ほんの一瞬、ステラの翼の縁に傷が走ったように見えた。

 だが、それは錯覚だった。

 竜が一歩、空を踏む。


 それだけで、夜の領域が震撼した。理に干渉する術式が、意味を持たなくなる。魔法が魔法であるための前提条件――世界がそれを許容するという前提――が、踏み潰されていく。

 ステラは翼を大きく打ち、距離を詰めた。爪が振るわれる。鏡の魔女は咄嗟に空間を折り畳み、回避するが、遅い。爪先が夜の領域を裂き、その裂け目から現実が滲み出る。

 魔女が初めて、声にならない声を上げた。

 必死に夜を集め、領域を維持しようとする。だが集めれば集めるほど、それは竜の存在によって押し潰され、均されていく。

 あまりの威容に無意識に背を向けそうになった鏡の魔女は、しかしそのプライドがさせたのか、空中で向き直る。

 無数の鏡面がその背後に展開され、夜の領域そのものを装甲のように纏う。鏡は重なり合い、層を成し、今度こそ竜の息吹ですら反射・転送するための完全な布陣を築いていた。

 僅かばかりの静寂、二人は同時に動いた。


 ステラの口腔が淡く光り、圧縮された青白い光が収束する。

 魔女は両腕を広げ、空間に無数の鏡面を生み出す。

 二つの超常が、再び衝突する。

 青い息吹が放たれた瞬間、空が青く燃えた。

 衝撃波が夜を押し潰し、鏡面の結界が一斉にひび割れる。魔女の前に展開された数十枚の鏡が、受け止め、反射し、軌道を捻じ曲げる。

 だが、足りない。

 竜の息吹は、まるで奔流だった。反射された光を飲み込み、なお余剰を持って押し寄せる。鏡が一枚、二枚と砕け、破片が星光を反射しながら夜へ散る。

 魔女が後退する。

 夜の領域が、軋む。

 不可逆のはずの結界が、押し返され、歪められていく。鏡の迷宮が不安定に揺れ、上下左右の感覚が崩れていく。


 ステラは追った。

 巨大な翼が一度、二度と打ち下ろされるたび、空間そのものが圧縮され、魔女の退路を削る。逃げ場はない。夜が、流星によって裂かれていく。

 魔女が反撃に転じる。

 無数の鏡面が刃となり、槍となり、竜の喉元、翼の付け根、関節部へと殺到する。すべてが必殺の角度で放たれた。

 だが、届かない。

 鏡の刃は、竜の鱗に触れた瞬間、音もなく砕け散った。

 鱗一枚一枚に刻まれた星の理が、魔法の成立そのものを拒絶している。反射も、貫通も、破壊も、成立する前に否定される。

 ステラは、吼えた。

 それは威嚇ではない。

 宣告だった。

 夜の領域が、一瞬だけ静止する。

 魔女の身体が、見えない圧力に縫い止められ、鏡面が軋みながら歪む。

 白竜は、そのまま突っ込んだ。


 質量と速度、そして星の力が一点に収束する。

 魔女の結界が、正面から押し潰される。鏡が悲鳴のような音を立てて砕け、夜が裂け、空間が剥がれ落ちる。

 圧倒的だった。技量でも、策でもない。

 存在の格そのものが、違いすぎた。

 最後に、ステラは息吹をもう一度だけ吐いた。

 今度は広がらない。収束し、貫くための一撃。

 青白い光が、夜の中心を貫いた。

 鏡の魔女の姿が、その中で歪み、引き伸ばされ、星光に溶けていく。叫びはない。ただ、鏡が割れる音だけが、連鎖的に響いた。

 夜の領域はまだ完全には消えない。ただ、押し戻され、静まり返った。しばらくして、都市に音が戻る。瓦礫が崩れる音、人々が目覚める前の、奇妙に重たい静寂。

 フランチェスカはようやく剣を下ろした。手が、わずかに震えている。

 ヴァレリアンはジルベールを見た。その視線には、もはや単なる友人を見る色はなかった。

 夜の領域が、崩壊を始めている。


 空は元の高さを取り戻し、街路は正しい形を思い出す。折れ曲がっていた距離が解け、迷宮だった世界が、現実へと引き戻されていく。

 白竜は、ゆっくりと翼を畳んだ。

 その背で、星の光が静かに脈打っている。

 ジルベールは、ただ立ち尽くしていた。

 これは人の戦いではない。希に騎士学校に来ていた近衛騎士も、フランチェスカのような二つ名を持つ騎士も、確かに人の理から逸脱したような力を持つ。しかし、それでも彼らは人に過ぎないのだと思い知らされる。

 しかし、そうであるとするならば。魔女を、あの竜たちを仕留めたバベルの騎士たちは、いったいどれほどの――――

 そんな思考を中断させるように、人の姿に戻りながら舞い降りてきたステラがジルベールの傍らに立った。


「彼奴、本体は来ていなかったな。鏡映しの別け身といったところか。魔女なぞという輩でも食らえば多少の魔力補充になると思ったが……そう上手くはいかぬな」


 星竜ステラリノルヴァは、すでに少女の姿へと戻っている。白銀の髪に星の名残を宿したまま、空色の瞳は夜空を睨み続けていた。

 ジルベールは剣を下ろしたまま、その横顔を見つめる。助かったという実感が、胸に落ちてこない。

 それを証明するように、地響きのような違和感が、足元から這い上がる。

 音はない。揺れもない。だが、空間そのものが軋んだ。強大な存在が、世界に割り込むときの歪み。

 先ほど、ステラが流星となって飛来した瞬間にも感じたものと、同質。いや、それ以上の。


「ヴァルキュリスたちは何してるんだ……」

「君ほど、魔女の気配に敏感ではないのだろうよ。ヘクセメルダ」


 声は、背後から落ちてきた。

 いつの間にか、そこに二つの影が立っている。

 転移の光も、魔法陣もない。気配の発生すらなく、ただ存在しているという事実だけが、後から世界をねじ伏せるように認識された。

 一人は青年。

 灰髪を無造作に垂らし、幾重にも魔法円が織り込まれたローブを纏っている。両手の全ての指に嵌められた指輪は、装飾ではない。それぞれが起動済みの魔法であり、解き放たれるのを待つ拘束具だった。

 もう一人は、全身鎧。

 竜を象った重厚な装甲は無数の裂傷と凹みに覆われ、血と煤に汚れている。それでも威厳は失われていない。

 大地に突き刺された巨大な大剣は、まるで墓標のように直立し、周囲の空気を押し潰していた。剣を抜かずとも、そこに在るだけで戦場を成立させてしまう存在。

 ヴァレリアンは、思わず息を呑む。


「あの鎧は……」


 名を呼ぶ声には、恐怖と同時に畏敬が混じった。


「第五の騎士、竜殺しのニーヴェルンゲン……」


 そして隣に立つ灰髪の男へと視線を移し、理解が追いつくより早く答えに辿り着く。


「第七の騎士、魔女飼いのヘクセメルダ」


 バベルの騎士。それぞれの区の騎士長。伝説の血を引き、常識の埒外の傑物であり、人域そのものの均衡を守るためにのみ動く者たち。

 その二人が、今ここに立っている。

 ニーヴェルンゲンは剣を抜かない。

 ヘクセメルダは指輪に魔力を送らない。

 だが、その視線は一瞬たりともステラから逸れない。敵意ではない。威嚇でもない。ただ、冷静な測定。

 この星竜が、どこまで脅威たり得るかを。


「ふーむ……なんと」


 沈黙を破ったのは、ステラだった。両手を腰に当て、眉をしかめる。その仕草は軽いが、声に冗談はない。


「参ったな、ジルベールよ」

 星を映す瞳が、竜殺しの騎士を捉える。


「彼奴ら、それもあの鎧の男……」


 そしてステラは、信じられないようなことを口にした。


「完全体の我より強いぞ」


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