《まだ、何も返せていないけれど》 4
決着は、あまりにも静かだった。
ジルベールの踏み込みに、躊躇はなかった。
魔剣ゼルザーの刃が描く線は、鋭さよりも確定に近い。避けようのない軌道。逃げ道を残さない速度。
魔女の使徒は、最後に鏡の魔法を展開しようとした。だが、間に合わない。
刃が振るわれる刹那、剣霊が前に出る。正面から受け止めるのではなく、魔力の流れをわずかにずらす。反射が成立するために必要な均衡が、一瞬だけ狂った。
その隙を、ジルベールは逃さない。
一歩、踏み込む。刃は鏡の輪郭をすり抜け、青年の胸元を斜めに切り裂く。
感触は、はっきりしていた。布が裂け、肉が断たれ、骨に触れる手前で止まる。手応えは重く、確かで、紛れようがない。
魔力が弾けるように霧散し、青年の身体は後方へ吹き飛んだ。石畳に叩きつけられ、鈍い音が一つ、夜に落ちる。
動かない。
魔法陣は薄れていき、鏡の魔法も跡形なく崩れている。
周囲に張り詰めていた異様な圧力が、潮が引くように薄れていった。
勝ったのだと、そう思うには、十分だった。
ジルベールは剣を構えたまま、数拍、様子を見る。呼吸を整え、足運びを確かめ、倒れ伏す青年から視線を外さない。
敵は動かない。
魔力の隆起も、ほとんど感じられない。勝利の実感が、遅れて胸に落ちてくる。
全身に張り付いていた緊張が、わずかに緩む。
その時だった。
「……あぁ……やっと」
喉を擦るような音が、静寂を汚した。
ジルベールの視線が、即座に戻る。青年は仰向けのまま、裂けた胸を押さえていた。血は止まらない。呼吸も浅い。明らかに致命傷だ。
それでも、笑っている。
歯の隙間から血を零しながら、楽しそうに。
「……私の死だけは、想定外でしたが」
声は弱々しい。だが、そこに敗北の色はない。
「……魔女様……どうか、人類に……災いを」
その目は、ジルベールを見ていなかった。
街路の向こう、建物の奥、都市全体を眺めているようだった。
「もう喋るな」
ジルベールは低く告げる。彼は参考人として捉えなければならない。
「いいえ」
青年は、震える指を空へ向ける。
「ここからですよ」
ぞわり、と空気が変わる。
「眠りの魔法などという回りくどいことをしたのは、単に私の魔力不足から」
大地を伝わり、何かが脈打つ。
「人は抵抗するものです。しかし眠っていれば、全てを差し出す」
青年の身体から、淡い光が滲み出す。それは彼自身の魔力ではない。街の各所から引き寄せられてくる、細い光の束。
無数の意識。無数の夢。
足元に、再び魔法陣が浮かび上がる。
それは二つの魔法陣に隠された、真の目的。大魔法は、三重であったのだと。
「おいでください、鏡の魔女よ……」
音はなかった。だが、世界が割れた。
空気に走る、無数のひび。見えない鏡が張られていたかのように、空間そのものが崩れていく。
割れ目の向こうにあるのは、夜だ。
星のない闇。底知れぬ畏怖。
青年は、歓喜に満ちた声を上げる。
「魔女の世が、来る……《夜の領域》が――――」
街路が歪み、建物の輪郭が崩れ、上下左右の感覚が曖昧になる。道は折れ、距離は捻じれ、同じ景色が何度も現れる。
世界が、別のものへと変わっていく。
「ジル!」
フランチェスカの声が、背後から飛んだ。白雪の刺突剣を構え、彼女は即座に判断していた。
「あれは夜の領域……人には不可逆の浸蝕結界」
青年の身体が、闇に溶けていく。血も、肉も、存在そのものがほどけ、夜に回収される。
フランチェスカは迷わない。
「撤退よ」
「……まだ」
「命令よ」
その声は冷たく、意思が確定していた。
「これはもう、戦いじゃないの。留まれば、呑まれるだけよ」
鏡の世界は徐々にではあるが、確実に広がり続けている。
フランチェスカは剣霊を消し、ジルベールも剣を鞘に収めると走り出す。
崩れきっていない現実の縁へ向かって。背後で、夜が確実に広がっていくのを感じながら。
しかし走りながらも、腰に下げたもう一つの剣。布に巻かれた星剣に触れるが、その気配は完全に沈黙していた。
あれだけの厄災を前にしても、《星の傘》はその息吹を示さない。
「あれは……」
フランチェスカの足が鈍る。撤退を選んだ二人だが、それを拒むように、二人の前にそれが現れたからだ。
夜の領域の裂け目が、脈打つように拡張し、空間そのものが裏返る。音はない。だが視界の端で、世界の解像度が狂う。そこから、人の形をした存在が、押し出されるように立ち上がった。
「……ゴーレムね」
全身が鏡面。研磨された金属ではなく、現実を歪めて映す異質な反射。街路も、砕けた空も、逃げ惑う影も、ジルベール自身の顔さえも、何重にも折り畳まれて映り込む。魔女が最も汎用的に扱う兵器、ゴーレム。夜の領域から滲み出るそれは、敵意ではなく、機能だった。
ジルベールが踏み込む。剣先が描いた弧は鋭く、明確に敵を捕らえる。だが刃は弾かれ、同時に別の角度から跳ね返る。反射された衝撃が肩を裂き、骨の震えが腕へ走る。やはり、とあえて弱く打ち込んだ剣を戻す。
隣で、フランチェスカの刺突は、寸分の狂いもなく核を狙った。それでも鏡面は攻撃を飲み込み、次の瞬間、地面へと返す。石畳が爆ぜ、破片が跳ね、夜の裂け目がさらに広がる。攻めるほどに、街そのものが拒絶を強めていく。
ゴーレムは増える。数もそうだが、配置も厄介だった。退路を塞ぎ、死角を作り、反射の角度を重ねてくる。それはただの木偶の坊ではなく、戦術扱う兵器だった。
フランチェスカは剣を振るわず、軌道を読む。身体を捻り、衝撃を逸らし、致命だけを避ける。だが決定打はない。今の彼女が帯びているのは、魔剣と最低限の装飾品だけなのだ。その事実が、刻一刻と重さを増していく。
「……ジル、厩舎に行くわ。供をなさい。馬車にあるワタクシの装備を回収します」
短く、冷静な命令。生き延びるための線が、瞬時に引かれた。二人は背を合わせ、反射の隙間を縫って進む。拳が振り下ろされ、避けた先の壁が砕ける。夜の領域が背後で脈動し、距離と方向の感覚を侵食してくる。
増え続ける圧力の中、ほんの一瞬の遅れが命取りになった。反射された刃が、背後からジルベールの背を裂く。息が詰まり、視界が揺れる。体勢が崩れ、足が滑る。
次の一撃が来る――鏡面の腕が振り上げられ、避ける余地はない。
けれど、衝撃が来なかった。
代わりに硬い音と、強引に押し返される感触。
斜めから割り込んだ影が、反射の軌道そのものを身体で塞いでいた。剣は振るわれない。ただ、踏み込み、受け、角度を殺す。
鏡面の拳が肩を掠め、骨が鳴る。それでも影は崩れない。
「ヴァレリアン……!」
「借りを返す前に、死ぬんじゃないよ!」
軽い声とは裏腹に、動きは限界だった。次の反射が重なれば、確実に押し潰される。ヴァレリアンは歯を食いしばり、ただ守る。攻めない。壊さない。反射させない。時間を稼ぐためだけの防御。しかし、それが最適解だった。
三人は即座に流れを共有し、息を合わせる。都市の外縁が、歪んだ視界の向こうに見えた。
――行ける。
そう錯覚した、その刹那。
ジルベールの足が止まる。眠りに沈められた住民たちの気配が、夜の底で脈打っていた。息のない街。目覚めない人々。背を向ければ生き延びられる。それでも、胸の奥で何かが拒む。憧れていたのは、こういう時にこそ厄災に立ち向かう騎士だった。
その一瞬の逡巡をあざ笑うかのように、絶望は顔を覗かせる。
空が、砕けた。
音はない。破壊の衝撃もない。ただ、無数のひびが走り、空そのものが鏡の破片となって宙に留まる。落ちない。消えない。割れた向こう側から、影が降りてくる。
――――魔女――――
キラキラと煌めく鏡面の髪が夜を映し、視線を向けられただけで心臓の拍が一拍遅れる。この世のものとは思えない美貌。感情の欠落した無表情。透き通る白い肌には、風景を反射する不思議な布が、身体を最低限隠すだけ巻かれている。その存在が完全に顕れた瞬間、ゴーレムたちは一斉に静止した。主を前にした道具のように。
都市が、息を止める。
逃走の可能性が、音もなく潰される。希望も、判断も、声も、すべてが押し潰され、ただ、ここにいる、という事実だけが残る。フランチェスカの指がわずかに強く剣を握り、低く息を吸った。
「鏡の魔女……」
それは説明ではない。宣告だった。ここから先は、戦いではない。抵抗でもない。世界が人を拒む場所。鏡の魔女は、見下ろすだけで何もしない。それだけで十分だった。
ヴァレリアンが一歩前に出かけ、すぐに踏み止まる。身体が、これ以上近づくことを拒んでいた。ジルベールは剣を握り直すが、重さだけが増していく。
夜は、世界を食らわんとする。
そして、その中心に、魔女は静かに在った。




