《まだ、何も返せてはいないけれど》 3
ヴァレリアンは、剣を鞘に収めたまま走っていた。都市フレリスの通りは、眠りに沈んだまま凍りついている。人々は道に、階段に、店の前に折り重なるように倒れ、誰一人として目を覚まさない。呼吸はある。脈もある。それでも、揺さぶっても声をかけても、反応は返らなかった。
周囲では、同じく動けた騎士たちが手分けして救助に当たっている。昏睡した住民を安全な建物の中へ運び、倒れた正規騎士の鎧を外し、呼吸を確かめる。混乱はあるが、秩序は保たれていた。眠りの魔法に、致死性はない。
だが、違和感があった。
ヴァレリアンは、ふと足を止め、空を見上げた。都市を覆う巨大な魔法陣。その光の線が、わずかに揺らいで見える。いや、揺らいでいるのではない。重なっている。線の太さが、不自然だ。
「……一つ、じゃない?」
呟きは、すぐ近くにいた魔導師の耳に届いた。年嵩の男で、灰色の外套を羽織り、手には測定用の魔具を握っている。彼も同じように空を見上げ、顔色を変えた。
「まさか……」
魔導師は魔具を地面に叩きつけるように展開し、数式と符号が宙に浮かぶ。それを一瞥した瞬間、彼の声が裏返った。
「二重だ……! 眠りの魔法の下に、別の大魔法が敷かれている!」
周囲の騎士たちが一斉にこちらを見る。
「種類は!?」
「灰だ!」
その一言で、空気が凍りついた。
「灰の魔法……広域殲滅術式だ。発動条件が満たされれば、この都市一帯は……焼かれるんじゃない。灰燼に帰す」
眠りは、前段階。逃げ場を奪い、抵抗を奪い、ただ滅ぼすための準備。
即座に指揮官の怒号が飛んだ。
「全隊、救助中断! 二次被害を防ぐ! 撤退だ!」
「住民は!?」
「騎士の救助を最優先とする!」
苦渋の判断だった。騎士たちは歯を食いしばりながらも命令に従い、担いでいた住民を地面に下ろし、隊列を組み直していく。生き延びるための撤退。正しい判断だ。頭では、理解できる。
だが、ヴァレリアンの足は動かなかった。
ジルベール。
フランチェスカ。
脳裏に浮かんだのは、都市の奥へと駆けていった友の背中だった。眠りの魔法が広域を覆う中で、単独で、迷いなく。
「おい、どこへ行く!」
背後から叫び声が飛ぶ。だが、ヴァレリアンは振り返らなかった。
「すいません……」
自分に謝るように呟き、彼は走り出した。撤退命令に背くことの意味は分かっている。騎士として、してはならない行為だ。それでも、足は止まらなかった。
魔法陣の重なりが、わずかに脈打つ。灰の魔法が、確実に準備を進めている。その中心に、何がいるのか。
ヴァレリアンは歯を食いしばり、都市の奥へと身を投げた。ジルベールが向かった方向へ。フランチェスカがいるはずの場所へ。




