《まだ、何も返せていないけれど》 1
夜気がひりついていた。倒れ伏す人々の間を抜ける風が、都市の石畳を擦り、低い唸り声のような音を立てる。
ジルベールは足を踏み出し、魔剣ゼルザーを正眼に構えた。刃は闇を映さない。月光を吸い、鈍く、乾いた光を返すだけだ。
鏡の魔女の使徒。青年は、肩の力を抜いたまま両手を下げている。しかしその身体から迸る魔力は、戦意を隠す素振りすらない。
「儀式を止めろ」
ジルベールが低く言う。
「貴方は言葉だけで、その剣を下ろせるのですか?」
青年は、穏やかなまま微笑んだ。
空気が弾ける。
青年の足元から風が巻き上がり、円環を描いて一気に膨張する。刃のように鋭い突風が、石畳を削りながらジルベールへと襲いかかった。
だが、ジルベールは動かない。
首元のネックレスが、淡く光った。風除けの加護。ジルベールにとって風とは、凶器になり得ない。突風は見えない壁にぶつかったかのように進路を歪め、ジルベールの両脇をすり抜けていく。外套の端が揺れただけだった。
「……ほう」
青年は、わずかに眉を上げる。だが、驚きはすぐに消えた。
今度は熱が来た。
青年が指を弾くと、夜の空気が赤く染まり、凝縮された火球が三つ、連続して放たれる。
ジルベールは踏み込み、身体を低くした。一つ目を横に流し、二つ目を前転で躱す。三つ目は、剣の腹で弾いた。
爆ぜる火花が視界を白く染め、頬を焼く熱が掠める。後方で火球が地面に叩きつけられ、石畳が熔ける。
詠唱はない。魔女特有の、己が持つ機能として魔法の行使。魔女ほどではなく、しかし村を消すほどの魔法では大儀式を必要としないだけの魔力量。
前例のない存在。それこそが騎士団がその痕跡を見つけられない理由だった。
その思考の合間に、青年はもう次の術式を組み上げていた。
空気が、重くなる。
湿り気が一瞬で満ち、都市の上空に黒い水の幕が現れた。
落ちてきたのは、雨ではない。
津波だった。
街路を埋め尽くすほどの水量が、圧力そのものとなって押し寄せる。人々を眠らせた都市を、今度は溺れさせる気だ。
「アルラウスの喉よ!」
短く息を吐き、魔剣ゼルザーを大きく振りかぶる。
刃が鳴った。乾いた音。水とは相容れない、不毛の響き。
剣を振り下ろした瞬間、津波の先端が崩れ、吸い込まれるように刃へと集束する。魔剣ゼルザーの干魃の力が、水の魔力を喰らっていく。
水は消えない。ただ、剣に奪われていく。
刃を伝い、蒸気にもならず、それは無へと還元されていった。
最後の水滴が消えた時、街路は濡れていなかった。そこに残ったのは、静寂と、剣の重みだけだ。
ジルベールは、息を整えながら、青年を見据える。
「……風に、火に、水」
ひとつひとつなら、ある程度の修練を終えた魔導師なら扱える。だがこれだけの種類の魔法を、淀みなく、連続して放つなど。
「多様な魔法を習得した、わけじゃないか」
青年は、答えない。しかしその沈黙こそが答えだった。
「鏡……」
ジルベールは、歯を噛み締める。
鏡の魔法。反射、模倣、裏返し。相手の力や、周囲の現象、あるいは魔法そのものを写し取る模倣の魔法。
ジルベールの背中を、冷たい汗が伝った。
相手は、術者ではない。魔法を生態機能として扱う魔女の使徒だ。通常、魔法の発動に時間のかかる魔導師は騎士との一対一に勝てるはずもないが、詠唱がない魔術は剣の鋭敏さに届く。
「……厄介だな」
「ええ。だから、私は生き残りました」
青年が、静かに歩み寄る。
その足取りは、戦場のものではない。散歩のように穏やかで、それがかえって、剣を握る手を強張らせる。
ジルベールは、魔剣を構え直した。
風は通じない。火は躱せる。水は喰らえる。
あとどれほどの魔法を扱えるのか分からないが、これは無謀な闘いではない。むしろ魔法使いである分、相性が良いとさえ言えた。
ジルベールは地を蹴り、間合いを詰める。
魔剣ゼルザーが、一直線に振り抜かれる。
青年の瞳に、刃が映る。
ジルベールと同じ紫水晶の瞳の奥で、世界が歪んだ。
剣が、空を裂いた。その先で、何かが返ってくる気配がする。
遅れて理解するのは、鏡に向かって剣を振るうということが、どういう意味を持つのかと言うこと。
「ぐっ……!」
自分の剣が、鎧を切り裂き肩口に食い込む感触。確かに剣は握っているはずなのに、反射された刃がジルベールを襲った。鈍い衝撃と遅れて焼けるような痛みが走る。ジルベールは思わず歯を噛み締め、半歩退いた。
自分の剣の重さ、自分の踏み込みの癖、そのすべてを自分の身体で味わっている。
青年は、動いていない。
ただ立ち、紫水晶の瞳でこちらを見つめているだけだ。それなのに、ジルベールの身体には確かに、斬られた結果が刻まれている。
「……なるほど」
青年は、静かに息を吐いた。
「魔剣とは、映りにくいものですね。反射には、少し歪みが出るようですね」
歪み。その言葉が、今の一撃で命を落としていたかも知れない自分の姿を想像させる。ジルベールの一振りは、人間の身体なら確実に殺せる重みを持たせていた。もし自分が持っている剣が魔剣でなかったのなら。
ジルベールは後方に飛びながら体勢を立て直す。血が指先を濡らす。鎧がなければ、剣は骨まで達していたかもしれない。
呼吸を整えようとした瞬間、空気が震えた。
地面が軋む。
石畳の隙間から、鋭い岩の杭が一斉に突き上がる。
「っ……!」
反射的に身体を浮かせた直後、足元が爆ぜた。岩片が散弾のように飛び、脛を掠める。
着地と同時に、今度は雷光が走った。夜空からではない。青年の足元から、水平に放たれた稲妻だ。
ジルベールは剣を盾のようにして構える。雷は刃に吸い寄せられ、金属を伝って腕に痺れを残す。視界が白く染まり、歯の奥まで震えた。
間を置かず、今度は光が削がれ、周囲の輪郭が曖昧になる。視覚だけではない。音も、距離感も、すべてが狂わされる。
「……くっ!」
「対処できる魔法は、それまでですか?」
青年の声が、背後から聞こえた。
振り向くも、そこに青年はいない。
代わりに、三つの影が立っている。それぞれが、異なる魔力の色を帯びていた。
岩塊を纏う影。火を滲ませる影。水を滴らせる影。
「影の魔法……」
理解しかけた瞬間、三方向から同時に攻撃が来た。
風が視界を削ぎ、火が温度を奪い、水が足を絡め取る。それ単体なら、対処できる。だが重ねられた瞬間、身体は言うことをきかなくなる。
ジルベールは膝をついた。
魔剣ゼルザーが地面に突き立ち、干魃の力で水を喰らう。足元の拘束は消えるが、代償のように、次の火球が至近で炸裂し、眼前で巨岩が爆ぜる。
それらの衝撃波に吹き飛ばされ、背中から石畳に叩きつけられる。肺の空気が押し出され、息が詰まった。
視界の端で、青年がゆっくりと歩いてくるのが見える。
「驚いている顔ですね」
青年は立ち止まり、指先を軽く動かす。
すると、周囲の影が一つに溶け、元の彼の姿に戻った。
「魔女でさえ、多様な魔女と関わる機会は少ない。けれど貴方がた人類は、私に多様な魔法を見せてくれました」
青年の瞳が、淡く光る。
「素晴らしい模倣先です」
ジルベールは、歯を食いしばって立ち上がる。肩、脛、背中。身体のあちこちが痛む。呼吸のたびに、内側が軋む感覚がある。
追い詰められている。
剣を振れば反射され、多様な魔法が逃げ場を封じるようにたたみかけられる。闘いにすらなっていない。こちらの攻撃は通用せず、一方的に魔法を打ち込まれている。
それでも、剣を手放す選択肢はない。自分では勝てないが、時間が経てば誰かがここに来る。他の騎士たちと連携すれば、あるいは反射を攻略できるかも知れない。
思考の途中で、空気が裂けた。
何もないはずの空間が歪み、刃のような圧が走る。ジルベールは、反射的に魔剣を構えた。
考える合間もなく、その空の斬撃を魔剣ゼルザーで打ち払おうとしてしまう。
けれど――これも、返ってくる。
剣を振るうこと自体が、もう罠なのだと。
それでも、ジルベールは前に出る。
追い詰められ、傷だらけになりながら、なお剣を構える姿は、もはや勝算ではなく、騎士の意地だ。
青年は、その姿を見て、ほんのわずかに目を細めた。
まるで壊れかけの像を、興味深そうに眺めるかのように。
「それは、ワタクシの玩具でしてよ」
その声音が落ちた瞬間、鏡写しに残っていた剣撃は、悲鳴ひとつ立てずに砕け散り、光の欠片となって宙に溶ける。
反射されるはずだった殺意も、返ってくるはずの軌道も、何もかもが強引に否定されたかのように消失した。




