《魔女の痕跡》 5
都市フレリスの夜は、昼とは別の色を纏う。
石畳の通りには無数の灯りが吊るされ、葡萄酒と香辛料の匂いが夜気に溶けていく。楽士の奏でる弦の音は低く、太鼓は腹の奥に響くように鳴り、人々は杯を掲げ、明日を疑わない顔で笑っていた。
フランチェスカは、そんな光景を一通り眺め終えると、あっさりと言った。
「ワタクシは宿に戻るわ。十分楽しんだもの」
「もう戻るのか?」
ヴァレリアンが意外そうに眉を上げる。
「ええ。買い物は済んだし、あとは眠るだけ」
彼女はそう言って、宝飾品の包みのいくつかをジルベールに押し付けることもなく、今日は自分で持った。機嫌が良い証拠だった。
「明日迎えに行くけど、夜更かしはほどほどにね」
ジルベールがそう言うと、フランチェスカは一瞬だけ振り返る。
「アナタたちこそ、飲み過ぎないことね。騎士様がた」
皮肉とも忠告ともつかない声音を残し、彼女は人波の中へ消えていった。
その背中を見送ったあと、ジルベールとヴァレリアンは、再び祭りの中へ戻った。だが、昼間からの疲労は確実に身体に溜まっていた。鎧を着て歩き回った捜索の日々。フランチェスカに振り回された買い物。人の多さと騒音。
「……もう十分だな」
「同感」
二人は顔を見合わせ、苦笑する。
結局、杯を重ねることもなく、夜が更けきる前に天幕へ戻った。収穫祭の夜ということもあり、騎士見習いたちの多くは街に残っており、仮設陣地は驚くほど静かだった。
天幕の中で横になると、訓練や任務の時とは別の意味で身体が重い。剣を脇に置き、外套を外すだけで精一杯だった。
「……今日は、よく歩いた」
「宝石運び係としてな」
ヴァレリアンの言葉に、ジルベールは小さく笑った。そのまま、意識はゆっくりと沈んでいく。
眠りにつこうという、その時だった。
夜が、歪んだ。
天幕の布越しに、淡い光が差し込む。焚き火の揺らぎとは明らかに違う、均一で、冷たい輝き。
ジルベールは反射的に跳ね起きた。
「……何だ?」
外に出た瞬間、言葉を失う。
空は暗く、星が瞬き、そして二つの月が、冴え冴えと浮かんでいる。
その下で、都市フレリスを囲むように、巨大な魔法陣が展開していた。
光の線が幾重にも重なり、円環を描き、都市全体を包み込む。まるで、見えない蓋を被せるように。
「……大魔法だ」
ヴァレリアンが、喉を震わせて呟いた。
次の瞬間、都市の中から、次々と人影が崩れ落ちていくのが見えた。笑っていた者も、歩いていた者も、叫ぶ間もなく膝を折り、地に伏す。
「住民が……」
そして、それは騎士たちも例外ではなかった。
巡回していた正規騎士が、剣を抜くことすら叶わず、糸の切れた人形のように倒れていく。
「ボクたちは……動ける?」
ヴァレリアンの言葉にジルベールは自分の手を見つめ、確かめるように握りしめる。
意識は明瞭だった。身体も、重いが動く。
「範囲外か……」
天幕は、都市を囲む魔法陣の外縁ぎりぎりに設営されていた。
その距離が、生死を分けたのだ。
「魔女……?」
誰かが言ったその言葉が、自然と浮かぶ。
だが、違和感があった。これほどの大魔法。通常なら、空気が軋み、魔力の濁流が肌を刺すはずだ。
それが、ない。
「おかしい……」
その時、別の天幕から正規騎士が姿を現し、叫んだ。
「眠りの魔法だ! 都市全域を強制昏睡させている!」
命令が飛ぶ。
「動ける者は救援に向かえ! 伝令を走らせろ!」
残った騎士見習いたちは即座に動き出した。馬を引き、武具を整え、何人かは森や街道へと駆けていく。
「行こう、ジルベール!」
ヴァレリアンが呼ぶ。
「……ああ」
だが、ジルベールの胸を、別の不安が締め付けた。
フランチェスカ。
彼女は、都市の中だ。
「ヴァレリアン、先に行ってくれ」
「何を――」
「フランチェスカの宿へ向かう!」
一瞬の逡巡の後、ヴァレリアンは歯を食いしばって頷いた。
「……何か見つけても、助けを呼べよ!」
ジルベールは、都市へ駆け出した。
門を越えた瞬間、異様な静けさが彼を包む。先ほどまでの喧騒が嘘のように、街は沈黙していた。人々は道に、広場に、店の前に倒れている。
眠っているようにも見えるが、呼びかけても反応はない。石畳に反響する自分の足音だけが、不気味に響く。
そして大広間に差し掛かった時、ジルベールは足を止めた。
倒れ伏す人々の中で、ただ一人。
立ち尽くす人影があった。
金髪。紫水晶のような瞳。ぼろ切れのようなローブを纏った青年。
その身体から、抑えきれない魔力が、波のように溢れている。
魔女には及ばない。だが、明らかに人の域を越えた力。
ジルベールは剣の柄を握り締めた。
明確な意思を持って初めて魔剣ゼルザーを鞘から抜き放ち、構える。
青年は、その気配に気づき、ゆっくりとこちらを向いた。
ひび割れたような肌。その不自然さとは対照的に、瞳だけが宝石のように澄んでいる。
そして、温和そうに微笑んだ。
「ああ、騎士様でしたか。昏睡に至らないとは、どちらでしょうね……」
青年の声は穏やかで、場違いなほど落ち着いていた。眠りに落ちた都市の中心で、ただ彼だけが起きている。その事実が、剣を構えるジルベールの背筋をひやりと撫でた。魔剣ゼルザーの刃が月光を受けて淡く光る。青年の紫水晶の瞳が、その光を映して細く揺れた。
青年は一歩も退かない。周囲に倒れ伏す人々を、まるで風景の一部のように扱っている。
「これは、お前がやったのか」
ジルベールの問いに、青年は小さく首を傾げた。
「やった、という表現は正確ではありません。私はただ、扉を叩いただけです。魔法陣を起動したのは、都市そのものですよ。人が集まり、感情が満ち、祭りという名の高揚が魔力を落とす。古くは、祭式と呼ばれる術式です。私はただ、そこに眠りを落としただけ」
眠り。そう言いながら、彼の視線は倒れた人々に一切の哀れみを向けない。もはやそれは死体なのだと言っているように、彼らの身体を踏みつけて数歩進んだ。
「安心してください。命は奪っていません。今は、まだ」
今は、という一言が、鋭く胸に刺さる。
「魔女は、貴方がたを憎んでいます」
青年は、説明書を読み上げるような調子で言った。抑揚のない声が、かえって異様だった。
「私は、魔女の使徒。貴方がた騎士団に焼かれ、殺された、魔女を生み出すための失敗作とされた、魔女の村での生き残りです」
ジルベールの喉が鳴る。魔女の村。記録には残らない、あるいは意図的に消された集落。騎士団の遠征の名の下に、処理された場所。そして、旧書庫で見た記録の数々が。
「魔女は、滅ぼされるべき存在だ……」
そう言った瞬間、自分の声が空虚に響いたことを、ジルベール自身が理解していた。騎士として、教え込まれた言葉。
「そうかもしれません」
青年は否定しなかった。むしろ、あっさりと受け入れる。
「村では、生け贄が必要な時もありました。魔女の力を維持するため、あるいは儀式の代価として。確かに、血は流れた」
一歩、青年が前に出る。ジルベールは剣先を微かに上げたが、青年は気に留めない。
「ですが、我々はただ生きていたのです。畑を耕し、子を育て、老いて死ぬ。魔女に庇護されているか、騎士団に庇護されているか。それだけの違いだったはずでしょう?」
その言葉は、静かだが鋭い。ジルベールの胸に、これまで見てきた光景が浮かぶ。騎士団に守られる都市。そして、守られなかった場所。
「これは、報復です」
青年はそう言い切った。怒りも悲しみも、その声には乗っていない。ただ、結果だけを告げる声音。
「我が師、鏡の魔女を呼ぶための儀式ですよ」
鏡の魔女。実家の書庫で、断片的に読んだ禁忌の名。反射、模倣、裏返し。光の魔女の眷属であり、その中でも性質を確認されはするが、未だ歴史に姿を表したことのない魔女だ。
「魔女は魔女を呼ぶ。人域に複数の魔女が集まれば、祖様の誰かが現れるでしょう」
青年の瞳が、わずかに輝きを増す。
「それが、かの闇の魔女ならば――――人類は、一八〇〇年ものあいだ享受していた安寧を失うでしょう」
夜風が吹き抜け、倒れた人々の衣を揺らす。都市全体が、巨大な棺のように沈黙していた。
「魔女の嵐の再来を。その始まりを、此処に」
青年はそう告げ、両手をゆっくりと広げた。その背後で、魔法陣の光が脈打つ。まるで応えるかのように。
ジルベールは、剣を握る手に力を込めた。目の前の青年を斬れば、すべてが止まるとは思えない。それでも、騎士として立つしかない。
騎士になったのは、正義の味方ごっこがしたかった訳ではない。英雄への憧れも、神話への憧憬も。誰かを助ける存在になりたいとう願いからだ。
騎士として、今この剣は、魔女の使徒を討つために。
ジルベールは、哀れみを捨てる。人類のためという大義を掲げ、その敵を斬るために。
剣は、敵を選ばない。




