『エピローグ』
二千六十五年・十一月三十日――『スヴェリジェ王国』。
夜黒色の背広服に厚手の灰色外套、紺と緑のタータンチェック柄の襟巻を纏った三十代半ばの青年。
和人らしき容貌の青年は、雪に染まった街路樹を慌てて駆け抜ける。
勤務先の休憩時間の合間を縫って、大切な“妻”の入院する国際平和病院を目指して。
スヴェリジェ王国では、原則一日六時間内の労働、と一日に二回の休憩時間を確保し、均衡の取れた人生と仕事を大切にする風潮がある。
長き冬を生きる者を癒すホットミルクや、暖炉のぬくもりさながら温かな文化のおかげか、街中は満ち足りた笑顔で賑わっている。
「(この国は、本当にいい場所だ)」
青年の母国で絶望的なまでに蔓延していた過酷な労働環境問題から貧困、育児虐待問題等とはかけ離れたスヴェリジェ王国。
安定した福祉国家の恩恵は、自分と妻も例に漏れずに賜っている。
数年前に自分と妻が置き去りにしてしまった“全て”に対し、良心の呵責や罪悪感が完全に消えたわけではないが、決して後悔はない。
先行きの不透明な窮地に身を置いていた頃――自分も妻もどうなってしまうのかと心底焦り、絶望に挫けそうにもなった。
けれどあの時、白き清廉の大地で置き去りにした“或る人”の意思――そしてその人物の残した“最期の謎”によって背中を押されるように、自分と妻は今もこうして生きている。
「お疲れ様。今日も来てくれたのね……」
鮮紺色の屋根に赤煉瓦の壁、白雪色の枠に覆われた建物。
甘い蜜に似た香りを仄めかす木材や、鮮やかな色使用の内装のおかげか、ここが病院であることを忘れそうだ。
母国の色彩感覚からすれば、医療機関には見えないほどにおとぎ風な外装の『国際平和病院』に、青年は到着していた。
人当たりの良い看護師から受付を簡単に済ませた青年は、愛する妻の病室へ迷いのない足取りで向かった。
個室の病室にて、温かな橙色のソファやタンポポ色のカーテン、乳白色の壁に囲まれた医療寝台で上肢を起こしている妻と顔を合わせる。
「当然だ。たった数分歩けば、お前にすぐ会えるからな……蛍」
安堵に緩んだ青年の微笑みを確認すると、白百合さながら端麗な妻の顔に咲いたのは、“少女のような微笑み”――。
「今日もお仕事は、大丈夫だったの? 光」
「ああ。英語で仕事するのも、今はすっかり慣れてきたさ」
光が勤務先でそれなりに上手くやっている話を聞くと、蛍も安堵に和んだ笑顔を咲かせた。
満月さながら膨らみを帯びたお腹に手を添え、愛おしそうに瞳を細める蛍。
もう一つの“かけがえのない命”の宿るお腹へ、光も愛おしそうに微笑みを注ぎながら手を添えた。
大きなお腹に添えられた二人の手が触れ合うと、互いの指先が甘い火傷のような熱を帯びる。
蛍と光は、互いの手を重ねたまま照れくさそうにはにかんだ。
「俺と蛍の子がもうすぐ生まれてくるのか……。えっと、子どもの性別はもう分かるのか?」
国際平和病院に入院中の蛍は今、妊娠三十三週目に入った所だ。
このまま経過が順調であれば、一か月後の十二月三十日頃に出産する予定だ。
「ええ。ドクターによれば、女の子の可能性が高いみたい」
「女の子か。きっとお前に似て、その……き、綺麗な子になるんだろうな」
「ふふっ。そこで照れるんだ? 光」
「うるさいぞ、蛍」
互いの存在に温かく微笑む蛍と光のいる病室は、秋日向さながら和やかな空気に包まれる。
温かで平和なスヴェリジェ国では、あらゆる良きものが約束されている。
未来も幸福も――過去と記憶を置き去りにする権利すら。
日昇国ルーナシティ崩壊危機事件から数年後――逃亡先となった北欧の地・スヴェリジェ王国で、蛍と光は平和な暮らしを送っている。
数年前、フロストムーン区・雹炎町の港にいた蛍と光は、協力者ヴィクターの操縦するクルーザーに乗せられて日昇国から脱出した。
ルーナシティ崩壊危機事件の最重要参考人であり、そして政府の人間が秘密裏に推進していた『サイコ・ソシオパス計画』の存在を知る者として、蛍の居場所は日昇国から失われた。
美しい冬の夜明けに照る清らかな氷雪海の上で、茫然と独り佇んでいた蛍。
魂が抜け落ちたような状態の蛍を守り、傍で支え続ける道を光は選んだのだ。
ヴィクターの技術と機転を頼りに、日昇国の海域境界付近の監視警備網をかい潜って海を渡り――やがてスヴェリジェ王国にある『世界人権平和機構』に避難した。
スヴェリジェ王国を本部拠点とする世界人権平和機構――あらゆる国で発生する個人および集団への人権侵害や脱戦争平和への脅威に対し、国籍や宗教、少数派の違いを越えて援助する巨大国際機関。
「女の子か。それで名前はどうするんだ?」
「そうね。一つ候補を考えたのだけど……エリー、はどうかしら?」
「エリー、か。いい名前だと思う。エリーだったら、ちょうど日本語読みで、えり、って呼ぶこともできるし」
「そうでしょう? 英語圏の名前もね、色々な意味が予め含まれていてけっこう興味深いの。昔、国際名前のリストの本も一時読んでいたわね……」
生まれる予定の子どもの名前について朗らかに話していた蛍の声が最後、湖に沈むように鎮まる。
口を閉ざした蛍の薄氷さながら澄んだ瞳は、優しくも切ない色に揺らめいた。
久しぶりに見る表情だ。
静けさに満ちた表情から、今蛍は誰のことを思い出しているのか容易に窺えた。
数年前、ICT監視警備機能による秩序と安寧を約束されていたはずのルーナシティ中枢区域を混乱へ陥れ、幾多の人間とその命を弄んだ主犯――深月・斎賀。
フロストムーン区の雹炎町の氷雪海の上にて、深月は蛍に看取られる形で静かに息を引き取った。
奴の死因は、計画に関与する政府組織の機密部隊・草野警察官が撃った銃弾から蛍を庇った時に負った傷による失血死。
蛍に並みならぬ感情と執着を寄せ、蛍を手に入れるために決して手段を選ばなかった冷酷非道な犯罪者。
酷薄な冬に凛と咲く花さながらの佇まい。
受難の民を導く聖者とも、彼らを唆す悪魔ともつかぬ超人間性と知性を備えたあの男のことは、未だに理解不能だ。
むしろ……昔と比べるとだいぶ薄らいではいるが、目的のために無辜の人を弄び、蛍の心を搔き乱したあの男のことを――俺は今でも許すことはできない。
「それでね。エリーという名前には、光という意味が込められているらしいの」
「そうなのか?」
「ええ。光とお揃いで素敵でしょ?」
「ああ……本当にそうだな」
皮肉な話ではあるが、蛍の心へ“永遠の楔”を穿ち、俺にとっては今も憎き男の“遺品”のおかげで、俺達は救われたと言っても過言ではない。
日昇国の国際テロ対策やサイコパスの研究実験に利用しようと企んでいた政府組織。
決して一枚岩ではない国の組織へ、深月の裁きを委ねることへの疑念や、自分達も命を狙われ続ける危険性。
あらゆる脅威や可能性を懸念していた蛍は、深月や内村先生、そして政府組織の草野達との対話を音声録音機で密かに盗聴した。
そして深月と政府組織の犯罪や企み等の証拠品を手に、蛍は“深月の身柄”を『世界人権平和機構』へ引き渡すつもりでいた。
そんな蛍の目論見を、深月はいつ頃からどの程度まで気付いていたのは定かではない。
しかし、スヴェリジェ王国への逃亡だけでなく、保護入国に成功した後の生活も政府組織の脅威も、深月は同時に見越していたのだろう。
ヴィクターは、蛍の所持する録音機だけでなく、深月と内村先生から予め託されたと思しき“証拠”――政府組織の一部と計画の実態を証明する資料を、国際人権平和機構へ提出してくれた。
結果、『サイコ・ソシオパス計画』の方針を秘密裏に歪め、推し進めていた主犯、倫治・永谷国防大臣は摘発された。
永谷本人は、国際裁判に備えて別国にある機関の拠点先で、身柄を拘束中である。
『サイコ・ソシオパス計画』は、人間を兵器や道具のように扱う人権侵害と倫理的問題を侵す危険性が高い。
そう判断した国際裁判所は、計画の中止ならびに禁止令を発効した。
国際裁判所の決定に従う国政条約に従い、日昇国は計画を推し進めていた研究施設も強制的に閉鎖した。
「俺達との子ども、元気に生まれてくるといいな」
「ええ、私もすごく楽しみだわ……ねえ、光」
「どうした。蛍」
おかげで俺も蛍も、日昇国からの不法出国の罪や強制送還、計画を目論んだ政府の人間による報復や脅威に怯える必要はなかった。
むしろ母国が冒した人権侵害の“被害者”として、俺達は国際人権平和機関の保護下で安全な日常生活を保障されている。
「愛しているわ、光」
冬の翳りのような表情はいつのまにか消え失せ、蛍はいつものはにかんだ笑顔を咲かせていた。
「私のこと、好きになってくれて……私の命を、そしてこの子の命を助けてくれて、ありがとう――」
数年前と変わらない、少女のように可憐で晴れやかな笑顔。
尊く輝かしいものを取り戻せたと実感する度に、俺は胸が締め付けられる痛みと同時に、愛しさと幸福に駆られる。
蛍が俺に感謝をする理由、そして“助けてくれた”という言葉の意味を唯一理解しているからこそ、俺は――。
溢れ出しそうな愛おしさを胸に、たまらず俺は蛍を強く、けれど優しく抱きしめた。
「当たり前だ……馬鹿」
数年前、氷と雪に覆われた冬海の上で蛍に看取られた深月の遺体。
奴の亡骸は、蛍とヴィクターの強い希望でクルーザーに乗せられ、国際人権平和機構の手続きを経て、スヴェリジェ王国で手厚く埋葬された。
深月の遺体を日昇国に置いていけば、『サイコ・ソシオパス計画』の貴重な検体として政府に奪われ、好き勝手“解剖”される危険性があった。
何よりも蛍自身が、氷のように冷たくなった深月を傍らから離すことを強く拒否していた。
当時、現実感を失った眼差しの奥で深い喪失と悲嘆の渦に沈んでいた蛍は、一時危うい雰囲気にあった。
少しでも目を離した隙に蛍は――あるいは彼女に巣食う“深月の亡霊”は、今度こそ彼女を攫ってしまうのではないか、と。
クルーザーの中で寒い寒いとしきりに凍えていた蛍を、光が抱きしめてあげた際、彼女はぽつりと呟いた。
『カッター、ナイフ……』
虚ろな声で紡がれた物騒な単語に、俺の背中に冷たい汗が伝った。
最後、蛍と深月の間には果たしてどのような言葉が交わされていたのか、俺が知る由もない。
当然、蛍が奴のカッターナイフを握り絞めていた経緯も、その矛先についても何も聞かされていない。ただ……。
『深月兄さん……遠くへ放り投げたの。多分、最後の力を振り絞って』
俺はヴィクターを引き連れて、深月を看取った蛍のいる氷雪海の上へ駆けつけた時の場面を想起する。
眠るように絶命していた深月、と奴を抱きしめている蛍から数メートル程離れた位置には、奴の愛用していたカッターナイフが落ちていた。
正直な気持ち、認めるのもどこか癪ではあるが……あの時、蛍の手に握られていたカッターナイフを奪い、遠くへ投げ捨てた人物は――。
蛍と共に滅びの炎へ身を投げることを望んだはずの深月が、蛍からカッターナイフを奪い捨てた理由も、俺は理解するつもりない。
他人の命や苦痛に対して、何の感慨も浮かべなかったあの男が見せた、“最期の気まぐれ”だったのか。それとも――。
当時の記憶について、俺は蛍を問い詰めるつもりもなく、真実を追求する必要性は感じていない。
結局、深月は蛍を連れていかなかった――という、確かな事実が在るだけ。
そして、今もこうして蛍は生きている。
あの頃に失われた笑顔を取り戻しつつあるのが、俺にとってもかけがえのない現実さえあればそれでいい。
*
そして、迎えた十二月二十三日・午後二時時三十二分――出産予定日より一週間も早いが、蛍は無事に元気な女児を産んだ。
蛍が産気づいたという知らせを職場で受けた光は、居ても立っても居られるはずがなかった。
騒々しい足取りで病院へ駆け込んだ光に対し、看護師は「母子とも元気ですよ」、と微笑んでくれた。
よかった……。
俺は看護師の言葉に安堵したものの、いざ病室の前へ案内された途端、手足の震えと緊張が止まらなかった。
蛍は母親に……そして俺は父親に、なるんだ。
俺と蛍の子どもに、もうすぐ会える。
そして、でも、まず蛍とその子どもに何て言葉をかければいいのか。
こんな時ばかりは己の口下手と不器用さに、内心自嘲した。
逸る緊張に胸が熱くなっていくのを感じながら、俺は病室を恐る恐るノックする。
しかし、俺の手足の方はだいぶ気が逸っていたらしく、蛍の返事を待たずして病室へ足を踏み入れた。
「蛍」
「ひ、かる……?」
力無く零れた返事。
それだけで俺の胸に安堵が波及する。
数秒後に迎えるであろう温かな現実への希望に、胸を膨らませているのだろうか。
自分の声が不思議と弾んでいることは自分にも分かった。
「さっき生まれたって連絡が入ったから。その、元気だって聞いて安心した」
「――……」
しかし入室して間もなく、俺と傍にいる担当看護師は直ぐに蛍の“異変”に気付いた。
何となく、蛍の声も呼吸も儚い冬風さながら、いつもよりもか細く響いた。
雪色の妊産婦衣を着ている蛍は、俺に背を向けたまま決して振り返らない。
「……蛍?」
ふと蛍の名前を呼んでみたが、やはり蛍は振り返らない。
一体どうしたんだ。
担当看護師曰く、母子共に健康状態は良好で問題はないとのこと。
だというのに、蛍は暗い表情で俯き震えている。
蛍が何かに怯えていると思しき様子は、彼女の儚げな後ろ姿と弱々しい声が物語っている。
俺は胸騒ぎを抑えきれない中、蛍のもとへ慎重に歩み寄った。
手を伸ばせば肩に触れられる位置まで辿り着いた所で――生命力に満ちた愛らしい笑い声が俺の鼓膜を撫でた。
ああ、本当に、この世に生まれてきてくれたんだな。
俺と蛍の子どもが。
俺達の愛と命が。
緊張と感動で胸を震わせる中、俺は蛍の胸に抱かれたままの小さくて愛らしい生命と初めて顔を合わせる――。
「――――」
どこか現実感のない光景に、光の瞳は愕然と見開かれた。
嘘、だろ。何故、この子が。
生まれたばかりの小さき命を胸に抱いている蛍、と光の当惑めいた視線が交差する。
黒曜石を彷彿させる瞳に薄っすらと浮かぶ涙は、果たして希望か――それとも絶望か。
『――蛍』
数年前に自分達を翻弄し続けた、冬の花さながらの清雅な微笑みと透明な調べが、光の脳裏に蘇ってくる。
困惑を隠しきれない父母との間に、凍りつくような沈黙が暫し流れる。
オギャア、オギャア……!
母の胸に抱かれた赤ん坊は、この世に生を受けた喜びを謳う。
純粋で無垢な泣き声に、父母共に弾かれたような表情で我に返った。
美しく無垢な赤ん坊は、目の前にいる蛍と光に向かって愛らしい両手を懸命に伸ばす。
そうだった。
俺はもう何も迷うことはない。
この子は、今まさに待ちわびているんだ。
「ありがとう――蛍」
不安に震える眼差しの蛍、と彼女に抱かれている我が子の二人を光は両腕に抱きしめた。
濡れた瞳を軽く見開いた蛍。
きょとんとした表情で光を興味津々に見上げる赤ん坊。
悲しく、愛おしく、無垢な二つの眼差しに向かって光は希望を信じて微笑む。
アーモンドさながら整った曲線の瞳、そこで灯る無垢に澄んだ光には、間違いなく妻の面影がある。
「本当に可愛い子だ。ほら、目元なんか蛍にそっくりだ」
「光。私……」
「この子は俺達の子どもだ。それだけは、確かなことだ」
蛍にとって、あの男の存在はどれほど大きかったのか。
俺とは異なる形と意味で、蛍とあの男は魂の深淵まで繋がっていたのだろう。
そこらの家族愛や恋情では計り知れない想いの炎茨で。
二人の複雑な関係に対するわだかまりは、俺の中から完全に消えているわけではない。それでも、今なら確かなことが一つだけある。
失いかけて初めて大切だと気付かされたもの。
たとえ己の正義と信念に背を向けてでも、この手で守り抜きたい。
もう二度と後悔しないために。
数年前の冬に、俺は蛍と自分自身にそう誓った。
「この先、たとえ何があっても……俺は蛍と……俺達の子を――愛している」
我が子を抱いている蛍は、真夏の太陽さながらの眩い光の微笑みと言葉に、胸がいっぱいになった。
ああ、やっぱり光はいつもの光だ。
真夏の太陽のように眩しくて温かい心。
光だけは、私の心に巣食う氷の十字架を熔かしてくれる。
何時でも、何度でも、何があっても、この先。
決して忘れることのできない清廉な優しさと哀しみに氷結された冬の記憶、そして氷の十字架を背負って生きる私も、その子どもも、光はただ愛すると誓ってくれた。
光が紡いだ福音の言葉とぬくもりに、蛍は全てを赦されたような安堵感へ身を委ねる。
「初めまして、エリー。私達のもとへ、生まれてきてくれて、ありがとう……っ」
隣の光と一緒に我が子の名前を呼びかける蛍の涙は、希望の光となって美しく煌めいていた。
蛍――。
心に葬られていた記憶と感情は、静かに降り積もる雪のように蘇ってくる。
たとえ、死が二人を分かつても――。
柔らかな輝きに揺れる雪色の髪。
澄み切った冬空色の瞳。
満月のように美しい線を描く顔立ち。
エリーの愛らしい顔に咲いた純粋無垢な笑顔に、蛍の記憶に眠っていた彼も安らかな微笑みを咲かせたような気がした。
***終***




