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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第3章『氷雪の暁』(終)
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其ノ終ワリ『ブリュンヒルドの心葬』

 こんな場所で、こんな時に、こうして兄さんとまた、哲学や物語のことを語り合えるなんて――。


 初めてでありながらも、ひどく温かくて懐かしい光景。

 懐かしくて、切なくて、あまりにも幸福な刹那。


 心安らかな眼差しで、美しい夜明けを茫然と仰ぐ深月。

 真紅に咲き染まった広い胸へ、蛍は自然と身を寄せた。

 深月は空いた片腕で蛍を抱きしめると、顎下で舞う蛍の柔らかな黒髪を撫でる。

 繊細な硝子細工の宝を大切に扱うように、優しく。

 二人が願い焦がれてきたのは非常にとるにたらない、けれど二人にとってかけがえのない日々。

 美しい朝陽の海を眺めるようにごく身近な――二人きりで語り合うようにごく当たり前の“幸福”を。

 ただ、それだけだったのに。


 「蛍」


 私も深月兄さんも、一体何時、何が、どこで、どう狂ってしまったのか。

 懐かしく儚い幸福に包まれる中、蛍は心の片隅で茫然と思い(ふけ)った。

 一方で深月は――頭を廻り始める軽い眩暈(めまい)、じわじわと氷結するように緩慢と弱まる心音。

 深月と蛍は互いに感じることができた。


 「なぁに、深月兄さん」


 もう時間は、あまり残されていない――と。


 蛍を抱擁したままの深月は、蛍の名を甘く囁く。深月に静かに応じる蛍。

 深月の肩口に顔を寄せる蛍の肩は、小刻みに震え始める。

 それは、寒さに帰する震えではないことを、深月は気付いている。

 氷人形さながら冷えた蛍の矮躯を、深月は自分の胸からほんの少しだけ離した。


 「深月、兄さん?」


 蛍は揺れる瞳で深月を真っ直ぐ見上げた。

 感情の読めない微笑みを浮かべる深月と目を合わせる。

 深月は厚手の外套の懐に納めていたあるものを慎重な手付きで、蛍に手渡した。


 「――どう、して」


 途端、手のひらに感じた耀きと重みを前に、蛍の瞳に悲痛な色が波及していく。


 「蛍――君自身の手で――()()()()()()()()()()


 柔和な微笑みを咲かせたままの深月が静かに、けれど力強い響きで訴えた。

 蛍が愕然としている間にも、深月は外套のボタンを片手で外し、真っ赤な花の咲いた白いシャツを裂いた。

 シャツの亀裂から覗くのは、真紅の花を止めどなく咲かせている銃創。

 そして丁度左中心部から響く鼓動の音色。

 深月が手渡してきたのは、彼が愛用する銀のカッターナイフ。

 カッターナイフの刃が放つ危うい耀きと重み、深月の唇が訴えた驚愕の頼みに、蛍は状況を直ぐに呑み込めなかった。

 否、決して理解したくなどない。


 嘘だ。そんなことできるはずがない。


 まさに今、命尽きる寸前の深月兄さんを、私自身の手で刺すなんて。

 カッターナイフの鋭い刃で貫く心臓の柔らかな手ごたえ。

 生暖かい血潮の芳香。

 唇から漏れる苦悶の呻き。

 段々と冷え失せていく兄さんの肉体。

 想像しただけで、胸を引き千切られるような痛みと吐き気に見舞われる。

 蛍の顔に広がる動揺と悲嘆、そして絶望を、深月は当然想像し得たのだろう。

 深月は静謐な表情を崩さないまま、聞き分けのない幼子をなだめる口調で続けた。


 「蛍。僕はね……僕達以外の誰かの手ではなく……()()()()()によって、終わりを迎えたいんだ」

 「でも、兄さ」

 「ブリュンヒルドが憎むほどに愛するシグルズと一緒になるために――己の命を一つに燃やし尽くしたように」


 草野が穿った致命的な一閃によって、生命の証である血を零す部位。

 今も鼓動を刻む心臓の息の根を、蛍自身の手で止める。

 まさに、シグルズ以外の存在によって終止符を打たれることを頑なに拒絶したブリュンヒルドの炎――深月自身の悲願。

 こうして二人が言葉を交わし、互いの存在をぬくもりで感じることができる時間は、もう残りわずか。

 命の灯が弱まりつつある深月のために、今の蛍がしてやれる最善とは。

 受け取ったカッターナイフを握る手に自然と力が籠る。

 蛍は覚悟を決めたように、深月を真っ直ぐ見つめる。

 涙と震えを忍ぶ蛍の透き通った瞳を前に、深月の瞳に陶然とした炎が揺らめく。

 朝陽に反射して輝くカッターナイフの刃に映る、蛍と深月の顔。


 「深月、兄さん」

 「何だい、蛍」


 カッターナイフを構えて深月と向き合う蛍は、深月の名前を最期に呼んだ。

 冬に舞うそよ風さながら、もの哀しく儚げな声で。


 「私、あの時は()()()()()って言っていたけれど……ごめんなさい、あれは嘘」

 「蛍……?」

 「私、本当はちゃんと覚えていたよ」


 小さな世界の片隅に蔓延びる不条理の渦中にあっても、自分はまだ何も知らなかった。誰かを深く愛し愛される幸福も、愛を失い奪われる悲嘆も。


 「罪の茨炎に囚われたまま生涯を終える運命よりも……シグルズと出逢い、愛し愛される幸福と悲嘆を知る運命を……ブリュンヒルドは――()()()選ぶと思う――」


 かつての幼き自分が、義兄に向かって無邪気に零した言の葉。


 「蛍――」

 「たとえ、どれほど悲しくて苦しい最期を迎えることになっても、シグルズと――深月兄さん……()()()()()()()()――私は」

 「――――」


 カッターナイフを両手で握り絞める蛍のぬくもりは、目の前の深月のぬくもりと再び一つへそっと融け合う――。

 赤い生命のぬくもりを喪失しつつある体の一部を駆けた刹那の衝撃――深月が瞳を大きく見開く。

 まるで、この世で最も衝撃的で、最も美しく尊いものを垣間見た幼子さながら無垢な眼差しで――。

 痛みをもって命を燃やす左胸に触れている、確かな感触。

 粉雪まみれの背中に回された、か細くて温かな蛍の腕。

 深月の頬と雪銀の髪をくすぐる、濡れた羽さながら美しい黒髪。

 薄紫に凍えた淡い唇を甘く融かすは柔らかな熱。

 甘く愛おしい熱源とその正体を認識できた瞬間、呼吸すら忘れていた深月は蛍をより一層強く抱き寄せた。


 「深、月……っ」

 「蛍……」


 愛している、と囁くように優しく奏でられた双方の名前。

 今度は深月が蛍の唇を貪るように奪う。

 二つの甘い熱源と吐息は一つに融け合っては離れ、互いの名前を奏でては、再び融け合うことを暫し繰り返す。

 あの刹那と同じ、二人にとって神聖でかけがえのないぬくもりと幸福。

 蛍の唇が名残惜しそうに深月から離れる。

 生命の赤い香りに染みた深月の左胸へそっと触れる白い手。

 深月の心臓を貫くことは、蛍には出来なかった。

 代わりに、白く冷えた皮膚越しに鼓動を奏でる心臓へ――蛍は()()()を落とした。

 心臓を隔てる皮膚へ優しく零れ伝うは、甘い熱と透明なぬくもり。

 深月の瞳が初めて揺らぐ。


 「蛍――」


 深月を見つめる澄み渡った瞳も微笑みも、悲しいほどに優しく、ひどく安らかに満ちていた。


 「ごめんね、深月兄さん。でも、()()()()()()()


 深月の心臓を貫くことのなかったカッターナイフを、蛍は自分の胸へそっと抱き寄せた。


 「独りでは逝かせない。だから、この手を離さないでいて」


 深月の命をこの手で摘み取ることはできない代わりに、蛍は()()()()()をこれから為そうとしている。


 「――ああ。僕も、もうこの手を離さない」


 それは生命を冒涜する行為(救済)

 けれど、この世で結ばれることを許されない二つの生命にとっては、永遠の命と愛へ至る神聖な儀式と祈りそのもの。

 蛍が自ら選び取った想いに、深月の心臓には驚嘆とも歓喜とも言えない、形容し難い感情が燃え上がる。

 たまらず深月は蛍を強く抱きすくめた。


 「なあ、蛍――」


 そして深い呼吸を一つ一つ零すような口調で、深月は最後の言葉を紡ぐ。


 「シグルド(ぼく)と巡り逢えて、君は――ブリュンヒルドは()()()()()()()――?」


 あらゆる苦悩から解放されたように、どこまでも澄み渡った声と表情。

 最後に投げかけた問いは、無垢な祈りを唱えるように。

 一方、カッターナイフを片手に、深月に抱擁されたままの蛍は何も答えない。

 代わりに、深月の胸にうずめていた顔をゆっくりと上げ、深月を瞳に映す。

 苦悩も悲嘆も失せた透明な冬空色の瞳に蛍の表情は映る。


 「――……」


 微笑んでいるとも、悲しんでいるとも言い難い、どこまでも透明な表情の深月。

 しかし、蛍の瞳と表情を瞳に映した瞬間、深月はふっと無邪気な表情を力無く零した。


 そうか。それが君の“答え”なんだね、蛍――……。


 母の胸に抱かれて安寧の眠りへ沈む無垢な幼子のように。

 深月は至福に満たされた表情で、瞼をゆっくりと閉じていく。


 蛍――たとえ僕の冒した罪は、十字架よりも重く許され難いものであっても。


 たとえ――君に心の底から憎まれたとしても、それでも僕は――。


 「蛍」


 最期に煌めいた君の涙。

 それだけで、僕はもう十分――許された気がした。

 蛍の名前を優しく奏でたのを最期に――深月は冬空色の澄んだ瞳を完全に閉じた。

 蛍と共に融け合っていた熱い鼓動は、深き眠りへと鎮まる。


 「深、月」


 冬空の淡雪と祈りの涙は、安らかに閉じた瞼の上へと一つに融け合い、頬を優しく伝う。


 気高きブリュンヒルドの氷炎に抱かれたまま、罪深きシグルズは永遠の眠りへ沈んだ。


 二人を抱擁する清浄な冬の大地。


 果たして、滅びしか待ち受けていなかった二人の愛と運命を憐れむように、冷たい雪風を浴びせてくるのか、それとも――。




 ***


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