『氷雪の暁、運命へ祝福あれ』④
薄藍の冬空には、小さな薄桃の雲花が咲き広がる。
淡く美しい空の色を映し始めた氷雪海の上を、緩慢にかつ一心不乱に歩む深月。
一刻に迫られるように一歩を進めていく度に、深月の白い呼吸は荒く、額から冷たい汗は零れる。
何よりも、蛍の背中を打ちつける鼓動は一段と強く、けれど律動だけは確実に弱まっている。
「深月兄さ……お願いこれ以上はもう、歩いたら、だめっ。このままじゃ、あなたがっ」
クルーザーから二十五メートル程離れた道には、深月の左胸から零れた鮮血の花が轍となって咲いている。
氷海に咲いた真紅の轍は出血量、それに比例して確実に弱まりつつある深月の灯と執念を物語っている。
もはや蛍は涙を止めることができない。
「大丈夫だから蛍。もう少し、もう少しだから、蛍」
「だって、もう、こんなにも、血が、止まっていないのに……っ」
胸を引き千切られるような想いと共に、蛍は深月を必死に呼び止める。
しかし、深月が蛍を抱えたまま歩みを止めることは決してない。
雪と同じくらい青褪めた顔に苦悶と汗を浮かべながらも、深月は清雅に微笑んで見せる。
罪と受難の十字架を背負いながら死の丘への歩みを緩めない聖者のように。
それほどまでに、深月の歩みと言葉は切実で、蛍への強き想いと切なる祈りに満ちていた。
クルーザー付近で佇んでいるヴィクター、と彼に足止めされている光の位置から、さらに三十メートル程遠ざかった氷海の上で、深月はようやく膝をついた。
それでも蛍だけは片腕に離さないまま、もう片手を白く冷たい地面へつけた。
はあはあと苦しげな呼吸を零しながら首を垂れる深月。
額の透明な汗は、白い薄氷と深月の片手の上へと零れ融けていく。
祈りと執念に融けた涙のように。
「っ、この辺でいいかな」
「兄さん、もう、もう……っ」
「すまないね蛍。僕は、君の涙も好きだけれど、どうか泣かないでおくれ」
深月の腕の中で泣いている蛍の涙を、白くて綺麗な指がそっと掬った。
雪のように凍え切っているはずの指からは、不思議と優しくて心地良いぬくもりが痛いほど伝わる。
蛍の胸は一層切なく締め付けられた。
「だって」
「これから、君にどうしても見せたいものが、あるんだ」
「何言って……」
「お願いだ、蛍」
蛍に向かって紡がれた深月の言葉は、透明な祈りに満ち煌めいていた。
人でありながら人ならざる心を備える者――そう忌避された存在も、銃で撃たれたら、当然血を流す。
肉を貫く暴熱の苦痛に苛まれ、そこから体を巡る滅びの気配には、誰もが慄かずにはられないはず。
それでも深月は、神の慈愛を彷彿させる微笑みと眼差しで蛍をひたむきに見つめる。
「深、月」
「もう暫くだけでいい……君とこうしていることを、どうか許してくれ……」
“あの夜”と同じように深月の名前を絞り出した後の蛍は、それ以上何も言えなかった。
お互い口には出さないが、今この瞬間――この場所こそが、二人の“終着点”であることに薄々と気付いている。
ならば、今蛍の今為すべきことは唯一つ。
これ以上歩む力すら尽きた深月は、不意に氷雪海の上へ仰向けに寝転がる。
蛍は意外そうに目を張ったものの、自分も深月の隣へそっと仰向けに横たわった。
ただし、蛍を強く抱き寄せる深月の片腕はそのまま。
蛍を強く抱きしめて離さない、冬の香りに満ちた深月のぬくもりを感じる。
無防備に仰向けた蛍と深月は、視界一面に果てしなく広がる藍紫の冬空を仰いだ。
深月の澄み切った深呼吸、穏やかに上下する胸の振動。
深月は癒しに満ちた冬の空気を全身で味わっているのを、蛍も感じることができた。
すっかり冷え渡っている二人の体。
けれど、穏やかに融け合う双方のぬくもり、と宙に昇る二人の吐息は、どこまでも温かで。
互いを除き、全ての拠り所を失った二人の人間が、神聖な冬の自然と一体になる静寂からわずか数十秒後。
「蛍……」
ぴったりと寄り添ってくる深月は、蛍の名前を囁くと共に目配せした。
深月の視線をゆっくりと辿った瞬間――蛍の澄んだ瞳に、驚きと共に眩い煌めきが灯り渡る。
「――――……」
薄桃の雲花が融け広がる、薄暗い藍紫の空に閉ざされた氷海。
遥か彼方の水平線から昇り咲くは、黄金の眩い朝陽。
淡い冬空から舞い降りる淡雪は、眩い朝陽を浴びながら、二人きりの世界を祝福する。冬の朝陽に煌めく清らかで美しい絶景に、蛍は瞬きすら忘れて息を呑む。
「――綺麗」
「ああ、本当に綺麗だ、蛍」
蛍の隣に横たわる深月も呟く。
この世界で、人生で、最も美しき“刹那”を恍惚とした瞳に焼きつけようとする。
世界を慈しむように温かな黄金の光に照らされるのは、深月の安らかな微笑み。
蛍の胸は甘く焦がれるような熱動に駆られる。
「深月兄さん。もしかして、これを見せるために……?」
「ああ。いつか蛍と一緒に見たい。ずっと前に夢見た景色。それがまた一つ叶って、よかった」
「あ……」
特別列車ウィンタームーン号に揺られていた時。
深月が掘り返した、幼少期の二人が零したささやかな“夢”。
「今まで色々な世界と物語を読み、この目で見てきたつもりだった。けれど僕は初めて知ったよ、蛍」
「深月兄さん?」
「君と一緒に迎えた朝陽は……こんなにも眩くて、こんなにも温かい、とは。否、今だからこそ叶ったのかな」
悠久の時を生きる仙人もしくは賢者さながらの雰囲気を纏う深月に浮かんだのは、どこまでも無垢であどけない微笑み。
神々しい輝きの朝陽は、やはり色素の淡い瞳には焼き付くようだ。
思わず双眸を細める深月だが、彼の表情は心なしか嬉しそうだ。
「ふふっ。深月兄さんって賢いのに、たまに子どもっぽくて向こう見ずな所があったわよね」
「ふふ……っ。そこはちゃんと自覚しているつもりだよ。でも、今は僕の傍に……また蛍がいてくれて、しかもこんな美しい景色を……一緒に見られたんだ。心が自然と浮き立つのは無理もない」
昔ぶりに見た、深月のあまりにも無邪気で子どもっぽい表情。
こんな状況であるにも関わらず、蛍も思わず苦笑が零れるのを止められなかった。
「自然は――世界は――こんなにも美しい――。まさに“体験的価値”に相当するもの」
「“フランクル”……よね? 『夜と霧』、『三つの価値』……だったっけ 」
幼少期に耳にした懐かしき概念、誉れ哀しき歴史の生還者の名前に、蛍の胸に郷愁の火が灯る。
深月も同じなのか、懐かしそうに瞳を細める。
水平線の朝陽の向こう側に待つ何かを眺め焦がれながら、深月は歌うように語る。
「三つの価値――内二つである“創造的価値”と“体験的価値”を奪われることは人生に多々あるだろう。けれど最期の三つ目――『態度的価値』とは、たとえどれほど耐え難い境遇や不条理に置かれたとしても、決して誰にも奪うことはできない――神も死すら超越する価値」
己の手で創造すること、貢献することへの価値と喜びを踏みにじられ――美しき日常非を体験する喜びすら奪われた時、最後の砦となる価値とは――。
「それこそ深月兄さんが愛し尊んでやまない……魂の美しさ、というものかしら」
深月兄さんにとっての“態度的価値”――至上たるものを、私は言葉にして奏でる。
「――どれほど悲惨で不条理に身を置いても、心に何を想い、何を考え、何を大切にしながら生きるのかを貫く魂――その尊い耀きを僕は愛する」
刻一刻と儚いでいく躍動を、零れゆく命のぬくもりに満たされる中。
今、まさに深月は“態度的価値”たるものを感じているのだろうか。
「<祝福しなさい。その運命を。信じなさい。その意味を――>」
深月兄さんの美しく透った声は、祈りの歌となって清らかな冬空で舞い踊る。
昔から過ちを繰り返してきた罪深き私達の魂すら慰めてくれる、生存者の慈愛に包まれながら――。
私達の運命が行く末を祈り、心から“祝福”するように――。
***続く***




