『氷雪の暁、運命へ祝福あれ』③
『ありがとう、深月兄さん……懐かしさのあまり、夢の中にいる気分よ……』
『その気持ち、僕にも少し分かるよ。だが、これは確かな現実だ。僕と蛍は今、互いにこうして一緒にいる。もう離れ離れじゃない』
雹炎町の隠れ家にある書斎で、僕と蛍は数年ぶりに『ヴォルスンガ・サーガ』のシグルズとブリュンヒルドの悲恋を共に朗読した。
「昔みたいに本を読んでほしい」――寂しさを堪えるような眼差しで訴えてきた蛍の意外な願いを、僕は快諾した。
内村先生が気を利かせたのか、書斎は本棚やソファ等の素材や色、配置までもが、フルムーン区の実家を高精度で再現していた。
臙脂色のソファに腰掛けた僕は、昔と同じように蛍を膝上に抱いた。
最初こそ、蛍は恥ずかしそうに身をよじった。
しかし、素知らぬ顔で朗読を始めた僕に諦めがついたのか、蛍は直ぐに腕の中で大人しくなった。
かつて幼き少女であった蛍は、僕の膝上で無邪気に微笑み、時折寂しげな双眸に僕を映しながら、僕の朗読へ真剣に聴き入ってくれた。
朗読する僕のよく透る声も、かつては長かった蛍の黒髪を梳く指も優しくて好きだ、と幼い蛍はいつも無邪気に笑った。
こうして僕の朗読へ耳を澄ませる大人の蛍。
今も昔と同じ気持ちで、僕の声とぬくもりを感じてくれているのだろうか。
僕は本をめくる度に、蛍の表情を視線だけで密かに覗いてみた。
すると頁が進んでいくごとに、蛍の瞳は哀しみの炎に熔けて濡れていくのが見えた。
正義と悲愛の狭間に圧し潰され、心臓を締め付けられる感情に苛まれている蛍は今、彼の物語に何を想うのか。
『シグルズとブリュンヒルドは互いにすれ違った。策謀と誤解の末、共にその身を愛憎の炎に投じて、二人の魂は一つへ燃え散った……哀しいかい? 蛍』
シグルズとブリュンヒルドの悲壮な最期を詠み終える。
零れ落ちた透明な滴は、蛍の膝と僕の手を冷たく濡らした。
僕の静かな問いに蛍はひたすら無言だった。
それでも、黒曜石さながら濡れた瞳から零す澄んだ涙は、蛍の感情を克明に物語る。
『蛍は覚えているかい? たとえ悲しいことがあっても、二人が共に逝けたのであればいい、と。ようやく一つになれた二人の魂は永遠に一緒。それが二人の幸せなのだ、と』
哀しみの言葉も嗚咽を漏らすこともない。
ただ静かなる慟哭を静寂へ融かす蛍の代わりに、僕は言葉を紡いだ。
僕の唐突な台詞に、蛍は不思議そうに濡れた瞳で目を合わせてくる。
『ずっと昔のことだから無理もないか……かつての僕と君が言った言葉だ』
『兄さんがそう言うのなら、そんなことを言ったこともあったかもね。でも、今の私は……』
『いいんだよ、蛍。魂の本質を除けば、今の君は昔の君とは違う。大人になれば、子どもの時と考え方は変わる。それが自然の摂理だ。シグルズとブリュンヒルドの最期は、僕にとっても悪くはないが思う所もある』
『兄さん……?』
『ヴォルスンガ・サーガのブリュンヒルドも……白百合のブリュンヒルドも、僕は心から憐れむよ』
おとぎ話の存在に過ぎないブリュンヒルド。
自分を裏切ったシグルズと共に炎で焼き尽くされながら零した愛憎の涙。
いつも“あの男”が白百合に喩えていた女性――淑麗で悲しい“あの女”の涙は――僕の脳内想像として流れる。
『物語のブリュンヒルドとシグルドは炎の中でしか添い遂げることは叶わなかった。ましてや、“白百合のブリュンヒルド”は、シグルドと運命の最期を共にすることすら許されなかった。けれど、僕達は違う』
僕の意味深な台詞、そこに登場する謎の人物へ、蛍の濡れた瞳に真っ当な疑問が浮かぶ。
けれど、それでいいんだ。
これは蛍も誰も知る必要のない真実。
僕と“あの男”しか知りえない、既に終結した物語だ――。
『僕はあのシグルドとは違う。蛍を決して裏切らない。僕の手から離れることは、もう二度と許さない』
蛍の耳元で囁く自分の声は、氷剣さながらの鋭さを帯びていくのが分かる。
『君も、今までのブリュンヒルドとは違う。決して脆弱な魂を持つ弱い人間ではない。愛する者に絶望して心中を選ぶことも、自分達を引き裂いた不条理へ屈服することも、君ならしないだろう』
だから共に行こうじゃないか、蛍。
神の呪いと運命は、ブリュンヒルドとシグルズが結ばれることを決して赦さなかった。
神や呪いと同様に、僕と蛍が共に生きることを阻む存在がいるのなら、臨むところだ。
蛍とは“魂”で繋がってさえいればいい。
たとえ、どれほど過酷で凄惨な運命と罪の重なりが待ち受けていようと、僕は乗り越える。
たとえ、非人間的な感覚をもって生まれながら、普通に刺されれば死ねる人間として生まれた僕の命を、死神の気まぐれが摘みに来ても。
『僕等の邪魔は、もう誰にもさせない――』
さあ、薄氷の海に彩り輝くあの冬の夜明けこそが“終わり”であり、僕等にとっての“始まり”でもある。
さあ、共に歩もう蛍。
僕の愛しの唯一人だけのブリュンヒルド。
たとえ、死が二人を分かつ瞬間が訪れても――永遠に。
*
刹那、自分達のいる時空間のみが氷結したような静寂へ衝撃は波紋する。
冷たき清浄な冬の静寂を裂いたのは、一つの鉛玉の奏でた銃声。
淡い花びらのような唇から舞う真紅の泡沫。
鮮血は赤い花となって、白き聖域を穢し咲く。
動揺に目を見開く蛍と光の視線は一人の男――蛍を後ろへ隠すよう前に出ている深月一心へ注がれていた。
「み、つき、兄さ」
「……ここに来て、最期の悪あがきを見せるとはね」
苦悶を抑えた声色と意味深な台詞に、愕然とした蛍が首を傾げる。
しかし、蛍の疑問が言葉になる余地は与えられなかった。
立て続けに響き渡った銃声は、蛍の鼓膜を貫いたからだ。
二度目の音源は、蛍の前に佇む深月の右手にある拳銃。
焦げた香りに混じって硝煙を昇らせる銃口の先は、同じく冬空を汚す灰色の硝煙を昇らせる拳銃を握った――。
「――草野、警察官」
「さすがは、我が恩師から対人麻酔弾発砲の手解きを受けた唯一の人材なだけはある」
深月の皮肉るような視線の先には、先ほどの爆破でコンテナの下敷きになっていた草野。
しかし、拳銃を力なく握りしめたままの草野は、頭蓋の中身を白雪に零した状態で既に絶命していた。
港に突如現れた光が蛍へ警告を叫んだ理由。
それは、コンテナの雪崩で絶命寸前の草野が、最期の力を振り絞って蛍へ発砲しようとした事から。
深月と蛍が対話に集中している隙を狙った草野の、せめてもの悪あがきだったのだろう。
深月の心を虜にして止まない蛍さえ始末すれば、彼女と共に生きるための逃亡計画も瓦解できる、と思ったのだろう。
しかし、皮肉にも草野の最期の悪あがきは、彼の主にとっても回避すべき“最悪の展開”を招いた。
「み、深月兄さんっ」
「蛍……間に合ってよかった。怪我は、ないようだね」
光の警告よりも一呼吸早く草野の動きを感知した深月の方が、先に動いた。
蛍だけは何としても守るために。
しかし、反撃すら既に間に合わない、と踏んだ深月が唯一取れた方法は――身を挺して蛍を庇うこと。
主人の標的へ誤って発砲してしまった己の失態に、草野は悔恨とやり切れない失意に打ちひしがれたに違いない。
絶望で淀み詰まった草野の頭蓋を、深月は拳銃で即座に撃ち抜いた。
蛍自身には大事がないことを確認し、安堵でほころぶ光と深月とは対照的に、当の彼女は顔面蒼白に震える。
深月が膝をついた途端、彼の左胸と指の間隙を伝って白い大地へ零れ咲く赤い血花。
「深月兄さ、血が」
「ああ、平気だよ。大した傷じゃない。幸い、心臓からわずかギリギリに逸れたようだからね」
泣きそうな顔で駆け寄る蛍に、深月は安心させるように柔らかく微笑む。
深月の言う通り、草野の銃弾は急所からわずかに逸れた。
しかし、左胸を押さえている深月の指の隙間から零れ落ちる血滴、彼の額に薄く浮かぶ汗に、蛍は焦りを覚えずにはいられない。
今すぐ応急処置を施さなければ、深月の身体は危険な状態にある。
蛍は迫り来る恐怖と絶望的な可能性に戦慄する中、自分の外套の袖を引き裂いた。
先ずは左胸の傷口を何とか止血しようとする。しかし。
蛍のみを映していた冬空色の瞳に、突如不穏な耀きが灯る。
突然深月に手を引かれる蛍。
予期せぬ動きに反応できず、為すがまま深月に抱き寄せられた蛍は、無理やり立たされた。
「深月兄さ、何を……」
「来るな――」
「貴様っ。蛍を放しやがれ!」
蛍を左腕で強く抱きすくめると、右手の拳銃で深月が牽制する相手は――二人に駆け寄ろうとしていた光の存在。
「光……っ。待って、深月兄さん。一体何を」
「これ以上、誰も僕達の間に入ってくるな。僕達の邪魔をする者は、たとえ蛍にとって大切な仲間であっても容赦はしない」
「く……っ。蛍……!」
何があっても光を蛍へ近付けさせたくないらしい。
深月は今までにないほど殺気を宿して凍らせた目付きで光を制する。
激情に突き動かされていた光は、恐怖と焦りという名の理性で動きを止めた。
蛍を盾に出され、銃口を向けられた状況では、光は手も足も出ない。
またしても己の迂闊さと非力さに、光は悔しそうに拳を握りしめる。
しかしこうしている間にも、深月の左胸からは鮮血の花が熱をもってじわりと咲き広がり、蛍の背中すら侵し染める。
だめ、これ以上放置すれば、やがて深月兄さんは。
一方、蛍を案じている光は危険を承知で爪先を一歩前に出していた。
「ぐあああ……!」
「光……!」
撃ち放たれた銃弾は威嚇するように、冷たい薄藍の空間で閃く。
凍えた光の薄紫の唇から苦悶の声が零れる。
左脚を撃ち抜かれた光は、脚にかけて巡り暴れる激痛に耐えながら雪床へ膝をついた。額から脂汗を滲ませて深月を睥睨する光に、蛍は心配の声をあげた。
「分かっただろう? 僕は本気だ。また一歩でも僕達に近づけば、今度は確実に頭か心臓を狙う」
「ぐ、深月、てめぇ。蛍を、放、せ」
「光……っ。もうやめて! 深月兄さん。光もあなたも、一刻も早く手当しないと」
「だめだよ、蛍。そしたら、またあの男は僕から君を奪う。また、君は僕の手をすり抜けてしまう。そんなことは、もう二度と許さない――」
しかし、深月は蛍を痛いほど強く抱き絞めて離さない。
熱に浮かされた調子で蛍をなだめる深月の眼差しに、蛍は危うさを感じ取った。
深月は光に銃口を向けたまま、体を引きずるように後退し、逃亡用クルーザーへ近づいた。
柔和な微笑みを張り付ける深月の額に浮かぶ汗。
深月の左胸から波及する真紅の花。
寡黙なヴィクターもさすがに一瞬目を張った。
しかし、悠然と微笑んでいる深月の目配せから、何かしらの意図を察したヴィクターは無言で頷いた。
恩師の愛し子である深月へ従うヴィクターの忠義に、深月は心からの感謝を述べると――ヴィクターのいるクルーザーから身を乗り出した。
「深月兄さん? 一体何処へ行くの?」
このままクルーザーに乗って蛍を連れ去るという予想に反し、深月はクルーザーから離れようとする。
蛍は困惑の表情で問うが、深月は沈黙を貫いたまま。
虚ろな冬空の瞳が氷海の水平線を見つめる様子に、蛍は胸騒ぎを覚えた。
今の深月の真意は計りかねないが、直ぐに浮かんだ不穏な予感は的中した。
深月は蛍を連れてそのまま、白い薄氷の海面を歩み始めた。
極寒地フロストムーン区の海が最も寒い瞬間を迎える時、海面には氷床と白雪の二層が形成される――それこそ北極海の氷地のように。
氷雪層は、蛍と深月二人分の体重を支えられるまでに厚く頑丈な構造を成す。
とはいえ、所詮脆い氷と雪に雪花石膏の代わりは務まらない。
クルーザーの発進やエンジンの熱、人間の跳躍等の強い力が少しでも加われば、氷雪の海面は裂け砕けるだろう。
故に蛍は迂闊に抵抗することもできず、ただ為されるがままだ。
「っ――……はぁ……は――っ」
・




