『氷雪の暁、運命へ祝福あれ』②
『政府組織のいる日京へ我々と共に来るんだ、深月君』
蛍と結ばれた翌日、斎賀叔父夫婦の家を訪問した僕を迎えた青天の霹靂。
僕の心理療法士としての腕と功績を高評価した政府は、日京臨床大学病院の専門医療チームの一員として僕を抜擢する話を進めていた。
『蛍ちゃんのことなら心配いらないわ。蛍ちゃんに相応しい男性を、主人の会社から見繕ってきたの。蛍ちゃんもあなたも、きっと気に入ると思うわ』
しかも、フルムーン区に一人残される蛍のために、叔父夫婦は自らの会社に勤める男性社員を彼女の婚約相手として紹介してきた。
僕達の意思と選択を確認する余地すら与えないようだ。
早急に話を進めてきた叔父夫婦に対し、僕は当然不審な気配を感じ取った。
両親が不慮の事故で亡くなった後も、時折僕と蛍の仲の近さについて度々言及してきた叔父夫婦を昔から信用していなかった。
一見友好的な彼らの眼差しの奥には、卑しき打算がいつも透けて見えた。
もしもの時に備えて両親が予め登録していた後見保護人が他人である内村先生であることも。
僕と蛍がいるため両親の遺産の取り分が皆無であることも。
きっと、叔父夫婦にとってそれらは全て気に喰わないのだろう。
目障りで小賢しい僕を遠くへ追いやり、婚約者とのたまう男を使って蛍を懐柔し、遺産の取り分を得ようとする彼らの魂胆は見え透いている。
厚顔無恥な叔父夫婦を腹の底で嘲笑しながら、僕は申し出を丁寧に断った。
君達ごときに、僕から蛍を奪えると本気で思うのか。
しかし、柔らかくも鼻白んだ微笑みを崩さない深月が、叔父夫婦を素通りして蛍の待つ自宅へ帰ろうとした矢先。
『待ちたまえ、深月君』
冬の外套を翻した背中に突き刺すような視線を感じ、深月は素早く振り返った。
すると拳銃を手にした叔父の姿が目に入った。
無機質に光る銃口を突き付ける叔父と隣の叔母、そして蛍の婚約者とのたまう男性社員の瞳は、操り人形のように深月を冷然と射抜いている。
今回は異様にしつこいと思ったが、まさか叔父が武装してまで引き留めてくるとは。
さすがの僕にとっても、予想外の展開だった。
試しに居間の扉に手を賭けてみるが、いつのまにか施錠されている。
このまま自力で退室するのは難しいようだ。
叔父夫婦達に追い詰められたまま微動だにしない様子から、僕が銃に怖気づいた、と思ったらしい。
叔父は普段の温雅な仮面を剥がし、その下に隠れていた下劣で醜い面を晒した。
『ごめんなさいねぇ、深月さん。でも私達は、何が遭ってもあなたを帰すわけにはいかないのよ』
隣の叔母も同様に、女狐さながら瞳を卑しく細めながら言葉を連ねる。
『随分と物騒なものですね。叔父様と叔母様は、僕に一体何を求めているのですか?』
『簡単なことだよ。日京の政府組織に君を引き渡す。それだけで兄貴達の残した遺産だけでなく、多額の報酬金がもらえる、一石二鳥だ。“計画”が何だかよく分からんが……』
政府組織の計画とは一体何なのか、一瞬気がかりではあった。
しかし、今の僕が優先して思案すべきは、僕に詰め寄る目障りなこの人間どもをどうやって追い払うか。
腐り果てた魂の醜さを下卑た表情に透かす奴らに気取られないように、僕は視線をゆっくりと動かす。
僕の背後にある扉は、やはり施錠されたまま。
前方には叔父と叔母、男のそれぞれは僕を逃がさないための囲い。奴らの背後に見える中庭へ繋がっている硝子戸も施錠されているだろう。
いかなる退路も塞がれ、しかも叔父に銃を向けられた状況では、猛突猛進な逃走は無謀に終わる。
さて、どうしたものか。
窮地に置かれた状況で、深月はやれやれと内心苦笑しながら叔父達の隙を窺う。
とはいえ目先の欲望に突き動かされている叔父が、無抵抗な相手を射殺する度胸も覚悟もない卑小な人間であることはお見通し。
ならばこちら側からあえて隙を見せ、油断させた所で切り抜ければいい。
この時の僕はそう単純に策を考えていた。
『深月さんさえ了承してくだされば、僕は社長様の麗しい義姪・蛍さんと結婚できるんですよね?』
―――――。
『ああ、僕今から楽しみなんです。写真を見た瞬間、僕は蛍さんに一目惚れしました』
人間の男の皮を被った醜い生き物は、一体何を独り言ちているのか。
『ああ、どうか安心してください。蛍さんは、僕が必ず幸せにしますから。お義兄さん、あなたに誓って』
薄っぺらい微笑みを浮かべる男性社員の浮かれ気味な台詞が、ひどく耳障りだ。
豚の呻き声とは比にならないほど醜く聞くに堪えない声で、蛍を気安く呼ぶな。
脳髄から燃やされるような頭痛と猛烈な吐き気が湧き上がる。
『どうか悪く思わないでおくれ、深月君。君はただ頷き、俺達に従ってくれ』
叔父達の醜悪な嘲笑と台詞は僕の脳内を汚染し、焼き尽くそうとする。
やめろ、来るな、許さない。
これ以上ここにいては、この豚よりも遥かに醜悪で無価値な連中と言葉を交わすだけでも気持ち悪い――。
『深月く、待って! ごめんなさいごめんなさい。私達が悪かったわ! でも、仕方がなかったの! あんなこと言ったけど、私達本当は政府に脅されて――』
奴らの声のせいで僕の脳内も、そこに存在する蛍すら穢されていくようで。
そんなことは、僕が決して許さない。
蛍は僕のものだ。決して誰にも、渡さない。
僕と蛍を引き離し、僕から蛍を奪う存在は、たとえ誰であっても僕は―――――。
『叔父さん一人ではさすがに寂しいでしょう。今すぐ行ってあげてください。ちゃんと間に合うように、僕が手伝ってあげますよ』
『いや、やめ、助けて、許し、ぎゃあああああああああああああ』
表面上は叔父に従う意思を示してからの記憶は、少々断片的で曖昧だ。
有頂天になっている叔父夫婦と男性社員のもとへ、僕は友好的な微笑みを崩さないまま近づいたのは覚えている。
しかし、脳内に張り巡らせていた理性の網糸は、突如発火した憎悪によって焼き切れた。
やがて、理性の燃え滓を頼りに現実認識へと戻った僕の視界に映ったのは。
『――――はは……ははははは……』
男性社員は、左頚動脈辺りをきつく押さえている指の隙間から血をドクドクと零しながら、痛みと恐怖に脱力していた。
叔父は、頚動脈から顎下に走った亀裂から醜い赤黒の小川を垂らした状態で絶命していた。
叔母は、真紅の横線が刻まれた顔と両目を押さえつけながら、激痛の暗闇にのたうち回っていた。
そして、奴らの醜い返り血を浴びた僕自身、と右手に握り絞められた血染めの“カッターナイフ”。
僕とあろう者は、らしくもなく熱くなってしまった。
やはり蛍のことになると、どうしても普段の理性が脆く熔けるようだ。
ああ、恋に落ちるというのは――己を見失うほどに相手しか瞳に映らなくなる――まさに甘美な苦痛。
実際に人をこの手にかけたのは、これが初めてだった。
けれど命を刈る行為は、僕が想像したのよりもずっと呆気なく味気ないものであった。それはさておき、犯行現場と自身の痕跡をこのまま放置するわけにもいかない。
真っ先にそう考えた僕は、と殺された家畜よりも憐れ醜い姿の叔父夫婦に留めを刺した。
それから、子どものように泣き惑っている男性社員をバットで殴って気絶させてから、適当なベルトできつく縛り上げた。
証拠隠滅と犯人の仕立て上げとして、時間少なき命を有効活用するために。
証拠隠滅を済ませてからは暫く逃亡し、ある程度事件に収拾がついた頃に、蛍を迎えに行けばいい。
この時の僕はそう密かに計画を練った。しかし。
『彼らが直々に君を攫いに来る前に間に合ってよかったです。僕は君に、サイコ・ソシオパス計画のことも、政府組織の利己的な陰謀についても、君に伝えるべきことがあります。蛍さんのためにも』
開かずの居間の扉を解錠し、僕の逃亡を密かに計ってくれた意外な人物は、恩師の内村先生。
以下は、ミニチュア型コンピューター端末越しの通信で後に明かされた話だ。
本来であれは、先生は僕を得意の麻酔薬で眠らせてから、政府組織の秘密部隊へ僕を引き渡す算段にあったという。
しかし、先生は政府組織を謀ってまで僕を救出し、逃亡の手引きまでしてくれた。
『ですが、まずはあなたの身の安全の確保が第一優先です。さあ、奴らに気取られていない今の内に』
政府組織の追手を欺くために、僕と先生は互いの腕辺りへ意図的に裂傷を負わせた。
互いに争った末に深月を取り逃がした、という痕跡を残すために。
先生は連絡手段よぅのミニチュア型PC端末を渡すと、叔父夫婦家の裏口から逃がしてくれた。
先生の指示した逃走経路を辿って僕が家を離れた頃合いに、先生は叔父夫婦の家へ火を放った。
後は、僕の強い抵抗に遭って負傷し、捕縛に失敗した風を装った先生が政府組織へ緊急連絡した。
政府組織は、辛うじて息のある男性社員、僕が放火殺人犯として指名手配される可能性、それによって機密の計画が他の公的組織に露見する事態を危惧した。
政府組織の人間は、男性社員を叔父の車に乗せて攫い、洗脳によって偽の容疑者に仕立てあげる算段を立てた。
しかし僕は、少年院から密かに抜擢した仲間のレギンを、男性社員の暗殺へ遣わせたのだ。
僕の蛍へ注いだ下劣な恋慕と薄っぺらな記憶を詰めた脳から手足に至るまで、もろもろの汚らわしい塵を排除したかったからだ。
『ここいれば、暫くはずっと安全です――』
冬の殺人火事件から数年もの間――一般警察は当然、政府ですら迂闊に介入できないエクリプス区の地下空間で僕は身を潜めていた。
政府組織に気取られない範囲で内村先生との秘密の通信連絡を交わし、先生を経由して利用できる仲間を増やしていった。
偽りの正義と善意が蔓延びるこの社会、それを統べる厚顔無恥な政府へささやかな嫌がらせを贈るために。
僕から蛍を奪おうとした傲慢、その報いを受けるがいい。
僕と蛍を束縛する忌々しい鳥籠――ルーナシティの監視警備機能を崩壊させるのだ。
ICTと機械に依存する僕達人間がその手段を失った途端、どれほど無知無能で矮小な存在へと成り下がってしまったのか、その身で思い知るがいい。
そしてICT機能障害による中枢区の混乱に乗じて、蛍と一緒に海の向こうへ羽ばたくのだ。
もう誰にも邪魔されない自由な場所で、蛍と共に生きるために――綿密で大掛かりな計画を数年がかりで組み立て、遂に実行へ移した。
『内村先生は、何故僕にここまでしてくれるのですか』
身を粉にして僕の逃亡と計画を援助し、一人残された蛍を後見保護人として見守ってくれる我が恩師に、一度だけ訊いてみた。
心理療法士を志す僕を弟子として迎え、手厚い教育指導を授けてくれた内村先生。
先生は僕とその義妹の蛍に対して、親に等しい愛情を注いでくれた寛容で心優しき魂の持ち主であることは間違いない。
しかし、菩薩観音を彷彿させる慈愛と善良性の象徴的存在が、政府と倫理に逆らってまで深月と蛍を護ってくれる理由が理解らなかった。
『あなたの祖父・冬夜先生は、僕の命の恩人です。兵士としては誰よりも冷徹で狡猾、このうえなく恐ろしい御方でしたが、我々にとって非常に頼もしい導き手でした』
内村先生は、『サイコ・ソシオパス計画』に先生が関与した経緯から、先生が“影の英雄”となった第三次世界大戦、そして犠牲になった実験体たち――祖父についても告白してくれた。
『冬夜先生の孫である君、君にとって大切な義妹の蛍君と出逢い、二人を守ることになった。これはきっと、先生が手繰り寄せてくれた“運命”に違いありません』
怒りも憎しみもない静謐さで語る先生の口からは、肖像画でしか顔を合わせたことのない祖父の名前も頻出した。
そこで初めて垣間見せた懐かしさ、とほんの微かな切なさを帯びた声色は、祖父に対する崇高と親愛を物語っていた。
『深月君……君は妹想いで思慮深く、これほどまでに聡い。蛍君も、兄想いで純真な娘さんだ。僕は君たち二人のことが、“一人の人間として”好きなのです。ですから、政府の身勝手な例の“計画”にも、それに便乗する個人の利己的な目的によって、君達まで壊されてしまう所は見たくない。ただ、それだけなんです――』
最後に絞り出した言葉は、薄氷の湖底さながらの深淵を窺わせた――そこにどんな意味と経緯があるのかは、僕ですら知らない。
ともあれ、己の手を汚してまで僕と蛍を我が子同然に、最後まで擁護してくれた我が恩師。
内村先生の献身と親愛、富や名声、偽善に突き動かされない気高き魂へ、最大の感謝と崇敬を捧げたい。
おかげで、これ以上待たずに済むんだ、蛍。
後少し、後一歩で――僕達の願いは叶う。
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