『氷砂糖の真実と記憶』④
「私は、大切な人を守りたい――これ以上哀しい想いをする人を、一人でも減らしたい。それこそ私の夢であり、私の正義の拠り所。まだ何も分かっていなかった子どもの私が抱いたささやかな願い」
しかし、胸を焦がす甘く熱い胸の痛みを糧に、蛍は決意の氷炎を燃やす。
「それは全て、深月兄さんが美しい、と――そう尊重してくれたもの。だから私は警察官になれた」
懐かしくかけがえのない夢、その実現を目指した蛍の背中を押してくれた義兄。
深月の存在があったからこそ、蛍は夢へ迷いなく突き進み、誰かの幸福を希うことができた。
「健気だね、蛍。夢の第一歩を叶えた君への贈り物として、僕が大がかりで朗読してあげた悲劇から、君も目の当たりにしただろう? 偽りの正義と安寧に塗り固められた社会の醜さを。凍てつく汚泥の底には、人知れず血を流して慟哭し、命を燃やされる人間が蔓延びっているんだ。石井君も、レギンも、フェンリルも……否、誰もがね」
一方蛍の想いを余所に、冷たい冬空の瞳は夢を語る幼子を見つめる大人と同じ切なげな色を帯びている。
「ええ、そうね。どれほど科学技術が発展しても、完璧な正義と幸福に彩られた社会なんて、存在しないのかもね。私達が人間である限り。社会の闇影へ捨て置かれたE・Cのような人々の痛みも慟哭も、無視されていいはずがない」
「ならば、尚更だ。間違いだらけの偽りの社会、そこで醸成された偽善と正義は……果たして、蛍が人生を賭してまで守る価値はあるのかい?」
「何が真に正しいのかは、私にも分からない。それでも、はっきり言えることはある」
きっと、深月の言うことも全て正しい。
今に限らず昔からずっと、社会も私達人間も、常に壮大な間違いを冒し続けているのかもしれない。
我々が求める正義も愛も、全ては在りもしない真なる理想の世界に見出した夢物語でしかないのかもしれない。
それでも――。
「私は、認めるわけにはいかないわ――自分と同じ痛みを他人にも与えたE・Cを。E・Cは、耐え難い苦痛に声なき叫び喘ぎながらも、心の何処かで“幸福”を求めて信じていたはず。だからこそ苦しんでいた」
人は自分が心から信じるものを胸に自分自身を――誰かを幸せにできることを希いながら、傷つき、傷つけられながらも、生きていくのだ。
「彼らに、復讐以外の選択肢を示さなかった深月兄さんの“傲慢”を、私は否定する」
氷砂糖のように甘く澄んだ記憶を想起する。
かけがえのない人の笑顔とぬくもり。
二人だけの秘密を共有する幸福。
冬の夜明けさながら神聖な日々――その永続を共に希ったはずの蛍と深月。
しかし二人は、一体どこで、何故、いつのまに道を違えてしまったのか。
そう自問自答し、悔やまずにはいられない。
だからこそ、蛍が蛍で在ることを許してくれた深月が、誰かの命を弄ぶ道をこれ以上歩むことを止めたかった。
何よりも、道なき道を歩もうとする深月を救わないまま、自分一人幸せへと歩む己を、蛍は許せないのだ。
「僕への強い愛慕を断ち切れないうえで、君は君自身の信念を曲げない。むしろ、愛すら正義に置き換えて全うする君の在り方――。やはり昔から蛍だけは、僕の思い通りになるようで、ならない存在だ。けど、それがいい――」
蛍が深月と共に来た理由は、彼の狂気と執着に屈したからでもない。
また、断ち切れなかった遠い日の恋心に溺れたわけでもない。
蛍にとってかけがえのない人間として愛する深月へ“裁きによる救い”をもたらすために――そして、罪を共に背負うために。
それが、蛍なりの揺るぎなき正義であり、同時に無垢でひたむきな“愛”である。
「哀しいほどに美しくも気高き君の魂に、僕は惚れ直したよ、蛍……」
「深月兄さん……」
「ならば……そんな愛しい君に、僕も誠意を返さねば――」
恍惚と細められた冬空色の瞳。
意気揚々と輝き始めた表情、無垢で危うい気配を、蛍は見逃さなかった。
蛍が一呼吸した瞬間、銀に煌めく一閃は彼女の瞳の先を駆けた。
蛍は内心肝を冷やししながらも、拳銃の標準を深月へ定め直す。
一方、既に手袋を脱ぎ捨てた深月の白い手がかざしているのは、冷気で凍え輝く“カッターナイフ”。
他者の命を貪ってきた愛用のカッターナイフを取り出した深月の意図を、蛍は瞬時に察した。
拳銃を構える蛍、カッターナイフを握りしめる深月。
数歩にも満たない距離で対峙する蛍と深月の間に、緊迫に凍てつく空気が再び流れる。
凍りつくような汗、燃えるような血潮が蛍の内外を奔流する。
緊張に張り詰める蛍とは対照的に、児戯に興じる幼子さながらの微笑みを湛える深月。
出逢った時から今でも同じ願いと幸福を共有しながらも、決して交わることのない道を歩む二人。
矛盾を抱える双方は、互いの納得する終着点を目指して命を捧げようとする――。
「――蛍……!!」
「――」
埠頭から離れた後方から響いてきたのは、馴染み深くもひどく懐かしい声。
冷気に凍えた耳の奥まで急速にじんわり温まり、鼓膜も熱く震えだす。
ぶっきらぼうなのに、どこか優しいこの声は。
蛍の名を必死に叫ぶ声の主に薄々と気付いている。
それでも信じられないという想いが、蛍の意識と目線を突き動かした。
「――コ、ウ……?」
港に降り積もった雪沼を踏み越え、一秒でも早くとこちらへ駆けつけてくる光の姿。
どうして、あなたが――。
これは、雪飛沫が見せた都合の良い幻影ではないか、と一瞬錯覚した。
胸の奥に眠っていた深月への恋心を断ち切れていなかった蛍を、光は見放したなのだから。
それ以前に、肋骨を折られた怪我で入院しているはずの光が蛍に追いつけるはずがない。
しかも、高速交通の八割も未だ機能障害で無効化されている状況で、クレセントムーン区から遥か遠いこの最北地まで、たった一人で辿り着けるはずがない。なのに。
「蛍! 待つんだ! 蛍……――!!」
しかし、愕然と開いた蛍の瞳を捉えて離さないのは、確かに光の熱く力強い眼光。
不愛想に絞められていた唇が一心不乱に叫ぶのは、二度と奏でるはずのなかった蛍の名前。
激痛に苛まれているはずの体に鞭打って、雪空間を必死に駆ける姿。
一度は自暴自棄になって蛍を突き放したはずの光の表情は、縋りつくように必死な色を帯びている。
全ては、酷薄の雪空間を熱く溶かして真実を晒す、まごうことなき“太陽”――。
「――なん、で。あなた、が」
蛍との距離をみるみる縮めてくる光の姿に、彼女の瞳は再び優しい熱を灯す。
悲しいのか、それとも驚きのあまり感極まっているのか分からない。
ただ蛍の驚愕も拒絶すらも、今は一切受け付けない光の真摯な眼差しから目を離せない。
蛍は、深月へ抱くのとは異なる胸の痛みに締め付けられる。
かつて、蛍へ注いでくれた太陽さながらひたむきな愛情も、刑事官としての矜持も踏みにじられた光。
深月への想いを断ち切れていなかった蛍を見放した光が、一体何故、どうやって彼女をここまで追いかけてきたのか、理由は分からない。
ただ、光の必死な表情と真っ直ぐな眼差しは、今の彼の想いを克明に物語っている。
光、あなたはどこまで、不器用で、優しすぎる人なの。
私は、あなたの優しさも愛も裏切った。
あなたを傷つけてしまった弱い私を、それでもあなたは。
蛍は、光を前に動揺を抑えきれなくなった。
拳銃を握りしめていた蛍の両手の力は、融けゆく雪のように緩んだ。
*
どうして、忘れてしまっていたのか。
氷徹な佇まいには不相応なほど華奢な肩に、大きな影と重圧を背負ったごく普通の少女。
それが本当の蛍の姿ではないか。
それこそ、俺なんかには想像もつかなかったほどの傷と痛みを胸に抱えて。
まさにその通りで。
「蛍……そこにいるのか? 蛍……!」
ルーナ警察署の刑務所で黒沢と面会した直後、光は気付いた。
黒沢が呑気に紡いだ台詞は、蛍と深月の行き先を暗示していた。
「霜」降り肉――。
「舟」の上で「月」でも眺めて――。
「寒い」季節の方が美味い――。
霜と月を英訳で合わせた地名を持つのも、随一の寒冷地区と名高い場所は、ルーナシティでは「フロスト・ムーン区」に当てはまる。
さらに、フロストムーン区内における「船」と言えば、区内の三大港町を示唆する。
光の読みが正しければ、たった今彼が駆け抜けている雪花町、もしくは雹炎町のどこかに、蛍と深月はいることになる。
紆余曲折を経て、何とかフロストムーン区へ辿り着いたとはいえ、自分が無謀な真似を働いているのは承知している。
孤独な静寂に凍結した港町をがむしゃらに駆け巡ったとしても、蛍と再会できる確率は低いのかもしれない。
万が一間に合ったとしても、自分に対し蛍は何を思うのか。
恐らくあの男と一緒にいる蛍に、今更自分はどんな言葉をかけるのか。
あの時蛍を一方的に詰り、自分一人が傷ついた気になって、全てを放棄しかけた自分が。
あの夜も、蛍どころか己の身一つ守ることすら叶わなかった。
蛍の深層心理を暴いたあの男の言葉に翻弄され、無様に床で這いつくばることしかできなかった自分が。
今更、何ができるのか、自分でも確証はない。それでも――。
「どうか、間に合ってくれ、蛍……!」
もしも、許されるのであれば、俺はお前にもう一度。
そして、どうか消えていなくなるな。
あんな手紙を残したまま。
「コ、ウ……?」
絶凍の雪空間は、光の切なる願いと燃えるような祈りを聞き届けてくれたのだろうか。
雪飛沫と冬闇を切り拓いた先にある港の埠頭に、彼女はいた。
愛しい彼女の名を叫びながら、光はがむしゃらに駆けた。
光の気配に気付いた蛍が振り返る。
すると、哀しいまでに美しく澄み渡った双眸と視線がぶつかり合った。
しかし、光の胸に熱い歓喜が灯るのも束の間――。
「――蛍! 危ない!」
拳銃を握る手の力を蛍が緩めたと同意に、光は警告する。
しかし、ひどく焦った表情で駆け付けてくる光を前に、蛍は凍然と立ち尽くすしかなかった。
ほんの一・五秒にも満たぬ刹那――人の運命すら容易く弄ぶ無慈悲な銃声は、聖なる雪空間とそこにいる人間の鼓膜を震わせた。
失う寸前にあったかけがえのないものへ、今度こそ手を伸ばす光を嘲笑うのは、ただ一つの銃弾。
希望の潰えた眼差しで凍りつく蛍と光とは対照的に、もう一人の男は柔らかな微笑みを咲かせていた。
***続く***




