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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第3章『氷雪の暁』(終)
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『氷砂糖の真実と記憶』③

 薄藍色に染まり始めた朝冬の空の下――。

 埠頭の出入り付近の港に山積みされていた、直径二メートルセンチの小さなコンテナは、硝煙を立ち昇らせながら大量に崩れた。

 コンテナの雪崩の下と周辺には、酸えた芳香を放つ鮮血、生焼けになった肉片が無残に飛び散っている。


 「一人、確実に仕留め損ねたか。だがまあ、あの様子では、長くは持たないだろう」


 突如起こった小さな爆発の衝撃によって、一斉に雪崩れこんできたコンテナ。

 憐れにも冷たく重い鉄塊の下敷きとなったのは、()()()()()()()である。

 コンテナの雪崩の隙間から覗く草野の相棒は、スクラップ人形さながら首や片腕が不自然に折れ崩れている。

 崩れたコンテナの隙間から留めなく溢れ伝う鮮血は、白雪をみるみる汚していき、小さな肉片も混じっている。

 恐らく草野の相方は、ほぼひき肉と化しているであろう。

 下肢から胴体辺りまでがコンテナに埋もれた草野も、既に虫の息だ。

 一方で一人の男は、物言わぬ肉塊と化した草野達を嘲るような微笑を咲かせていた。


 「一か八かの賭けではあったが、君達も無事でよかった」


 間もなく興醒めした男は、己の腕に抱き留めている女一人、そして背後で寡黙に待機している男へ視線を戻した。


 「――()()()()()。何で」

 「ああ、薬と爆弾のことかい?」


 自分を抱きしめたまま事もなげに微笑む深月を、蛍は愕然と見上げながら率直に問う。

 蛍の疑問を見透かしている深月は、握り拳を模ったままの己の手のひらを開いて見せた。


 「これって。まさか」


 一本の空の()()()、とボールペン状の小型スイッチ――。

 瞬間、蛍は驚愕を隠せないまま、この惨状とそれを招いた張本人の伝えたいことを悟った。

 深月は対人麻酔針弾の()()()を予め注射していた。

 あの時、麻酔針弾を撃たれた深月は即失神したのを装い、反撃する機会を窺っていたのだ。


 「万が一に備えて、内村先生とヴィクターが()()()()()()()んだ。使っておいて正解だった」


 草野と相棒の注意が完全に蛍へ集中した隙に、後方で控えていたヴィクターは二人へ発砲した。

 草野達の特殊防護服は、汚染物質や銃弾すら通さない頑丈な作りをしている。

 しかし、防弾性とはいえ後ろから突然発砲されれば、バットで強打されると同等の衝撃が背中を襲ったはずだ。

 草野達が前のめりに転倒した隙に、失神を装っていた深月は小型爆発のスイッチを押した。

 結果、コンテナの山に予め仕掛けた爆弾の衝撃によってコンテナは雪崩落ち、草野達はその餌食となった。

 何がともあれ、深月達の作戦と機転のおかげで窮地を脱することはできた。

 蛍から自然と零れるのは、安堵の溜息。

 反面、コンテナの雪崩に圧し潰された草野達の悲惨な死に姿、漂ってくる焦げ臭い鮮血の匂いは、重く酸えた憐憫と罪悪を蛍に与えた。


 「立てるかい? 蛍。もう、大丈夫だから」


 それでも――終わりを覚悟したはずの自分は、今こうして呼吸できている。

 高まる鼓動と心の共鳴を示すように微かに震えている蛍に、深月は優しく微笑む。

 さりげなく抱かれた肩へ伝わってくる深月の鼓動とぬくもりに、不謹慎にも蛍の胸は安堵と《《歓喜》》で絞めつけられた。


 「ヴィクターは、政府組織から派遣された工作員のはず。でも、本当は何者なの?」

 「いや、その逆だよ、蛍。ヴィクターは、“この時”のために内村先生が政府組織へ遣わせた()()()()()なんだ」


 蛍の素朴な疑問に対し、氷人形さながらの無表情と寡黙さを崩さないヴィクターに代わって、深月は丁寧に説明した。

 表面上、対策部隊に不意を突かれて射殺された内村先生が、実は密かに準備していた“保険”に蛍は再び愕然と目を見開く。


 なら、まさか、内村先生はこうなるかもしれないことを知った上で……?


 ヴィクターと深月兄さんも。先生が仕掛けた“保険”に協力した二重工作員のヴィクター、と標的である深月の心中は想像にも及ばない。


 「政府組織の人間を出し抜くためにも、ヴィクター()は必要不可欠な人材だった。しかし、本業は()()()()()だ、と聞いている」

 「ここまで説明しておきながらも、核心部は謎のまま留めておくのね」


 複雑な心境に駆られる蛍を余所に、深月はいたずらに成功した子どもさながら無邪気に微笑んですら見せた。

 あどけない声色で曖昧に返答する深月に、蛍は狐につままれた思いで首を傾げるしかない。

 一方、深月の説明が終わった途端、感情なき氷人形さながら佇んでいたヴィクターは、突如クルーザーへ疾走した。

 ここに来て初めてヴィクターが見せた、感情らしき強いものを原動力にした素早い動きに、蛍は目を丸くした。

 ヴィクターの動向が気になった蛍は彼に続こうとしたが、深月に引き留められた。

 突然肩を掴んだ深月に、蛍は一瞬戸惑った。

 しかし、ヴィクターが真っ先に駆けつけた場所へ視線を移した途端、すぐに合点がいった。


 「今は、暫くそっとしておいたほうがいいのかな……」

 「そうだね……()()()()()()を伝えているようだ。僕達も、後で続こう」

 「ええ……っ」


 ヴィクターが足を止めた先は、クルーザー屋内で眠るように横たわる内村先生のもと。

 血溜まりに眠る先生の冷たい手を静かに握り絞めるヴィクター。

 凍り曇った窓硝子に入った亀裂が邪魔で、ヴィクターの表情は見え辛い。

 二重工作員ヴィクター、と先生を繋いだ経緯や関係性を知る由もない。

 ただ、無骨な両手へ溢れ伝った透明な雨は――人間らしい体温の感じられなかった者の心境、そして祈りを捧げる相手への忠義を物語っているのか。

 雪のように冷たくなった先生の手を取りながら、祈るように瞳を閉じるヴィクターの姿を遠目で見守る蛍達。

 蛍の黒く澄んだ瞳に煌めく熱に、深月は慰め慈しむような眼差しを注ぐ。


 「蛍の気に病むことではないよ。内村先生は最初から覚悟していた。ヴィクターも、先生の想いを汲み、最後まで忠義を尽くした」


 内村先生も、深月兄さんの犯罪に手を貸し、クラッキング技術を駆使してルーナシティ中枢の安寧、そこで暮らす無辜の民を脅かした犯罪者だ。

 しかし、先生は政府の『サイコ・ソシオパス計画』の脅威から深月や蛍を守り、彼の悲願を叶えるためだけに手を尽くしてくれた。

 蛍の知る内村先生は鷹揚で思慮深く、医師として人としても尊敬と信頼に値する人格者。

 しかし、何故先生が重大犯罪に手を染めたのか。

 最後には迫り来る敵を欺くために己の命を賭してまで、何故深月と蛍を守ったのか。

 内村の献身の理由は分からないまま、自分達を救ってくれた感謝すら伝えられなかったことを、蛍は内心悔やんだ。

 清冷なる静謐(せいひつ)に抱かれて、内村先生の死を悼むこと数分後。

 気が済んだのか、ヴィクターは振り返って立ち上がる。

 蛍と深月達を誘うように、手振りと視線で合図を送ってきた。

 氷の仮面さながらの顔に、凍り渇いた“涙跡”を残したまま。

 クルーザー内に残った先生の遺体や血痕、窓ガラスの銃痕を気にしつつも、ヴィクターは出航の準備にかかっていた。

 先程、別れを済ませた恩人から託された“最後の任務”を完遂するために。


 「さて、僕達も行こうか、蛍」


 心なしか、深月の声は安堵に鎮まり澄んでおり、屈託無く微笑んでいる。

 努力の積み重ねの末に、欲しかったものを手にする寸前の幼子のように。

 クルーザーの先端が示す方向――薄藍の空と朝陽が融けた氷海を、深月は見つめる。

 冬空の瞳に無垢な希望を灯した深月は、蛍を手招きする。

 伸ばされた雪色の手に向かって、蛍も手を伸ばした――。


 「――これは、何の真似かな? 蛍」


 しかし、伸ばした深月の手に蛍の手が重なることはなかった。

 代わりに、深月の白い手を覆ったのは。


 「見ての通りよ、深月兄さん――」


 蛍の右手に握られている漆黒の物体の影。

 無機質に輝く鉄塊の虚は、深月の命を確実に捉えている。


 「罪には裁きを。裁きをもって、赦しと救いを」

 「……()()()()()()()()()()


 警察官専用の拳銃を向けたまま、蛍は深月を真っ直ぐ見つめる。

 深月は確信を得た様子で呟くと、唇に優美な弧を描いた。


 「鋭い兄さんのことだから、既に気付いていたのかしら? いつ頃から?」


 一方蛍の方も瞳から表情、声に至るまでが、氷さながら冷たく澄み渡っている。

 蛍は、銃口の焦点を変えないまま、冷凛と言い放つ。


 「最初から、薄々と気付いていたよ。でも、蛍が内村先生の存在を感知できた時点で、ある程度察したよ。()()()()()()()()()()()? ここの辺りに」


 深月は自分の左胸下あたりをぽんぽん、と指さしてから、蛍の厚手の外套の左胸ポケットへ意味深な視線を送った。

 穏やかな冬空の瞳に潜む鋭い光を感じた蛍の意識は、己の左胸ポケットの存在へ一瞬注がれる。

 しかし、静かに澄み渡った蛍の眼差しは、目の前の深月から決して離れなかった。


 「ここに来てから今までの会話とやり取りは、()()()()()()()()()()()()


 蛍の左胸ポケットに忍ばせた小型の()()()は、たった今深月と蛍が交わしている会話の内容も、一寸の狂いもなく秒単位で刻んでいる。

 双方を取り巻く冷たく緊迫した空気は、清浄な冬の大気と穏やかに融け合う。


 「深月兄さん。あなたを()()()()()――」


 氷の剣さながら鋭く澄んだ声は、凍てつく空気すら裂いた。

 一方、静謐に咲く冬花のように佇む深月は、柔らかに問いかけてきた。


 「蛍は、積み上げてきた信頼や名誉、忠義、さらには仲間も恋人すら、全てかなぐり捨ててまで……僕と共にこの最北の終着地へ至った。そんな君は今、何がためにその銃をかざす?」

 「決まっているわ。私は()()()だから――。たとえ、警察官の地位を失っても、ただ私は……私の選んだ“正義”を貫くだけ」

 「至福の痛みに満ちた涙を、僕の前で零した蛍が? 僕を選んだ君が、それを言うのか?」


 冷凛と銃を構える蛍の心奥を見透かすような深月の言葉に、彼女の双眸は哀しげに細められる。

 深月の言いたいことは、蛍自身も胸が痛いほどに理解している。

 深月の心に孕んでいたのとは色相の異なる、けれど同等の激しさに燃える“氷炎の想い”を、蛍もまた秘め続けてきたことを。

 自分の胸に吐露することすら憚られるような、狂おしい愛しさを。

 二人で共に過ごした、見果てぬ幸福の三日間。

 共に目指した道なき道と夢。


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