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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第3章『氷雪の暁』(終)
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『氷砂糖の真実と記憶』②

 クルーザーの窓硝子に空いた風穴から、凍える大気が奔流してくる。

 クルーザー屋内には、血の気が失せた顔に苦悶の色を浮かべて倒れ伏せている内村先生。

 左胸を押さえつけている指の隙間、と青紫の唇からは赤黒い滴が留めなく溢れる。

 一方、クルーザーの外には、大人しく両手を挙げた蛍と深月、そして二人の後頭部に銃口を無言で向ける船乗りの()()()()()がいた。

 ヴィクターに誘導されるがままクルーザーから離れ出た蛍と深月を、埠頭の入口付近で待ち構えていたのは――。


 「ご無沙汰だな、()()()()()


 感染防護服を彷彿させる漆黒の全身服装(スーツ)に、素顔を隠す覆面(フェイスシールド)付きの頭巾(フード)を纏った二人組。

 一人の広い肩に背負われている重厚なライフル銃、と硝煙に混じって微かに漂う独特の香りも記憶に新しい。

 異香を纏ったライフル銃の人間は、蛍の肩書と共に彼女の名前を慇懃に述べた。

 機械さながらの冷徹な声色、そこに秘められた親しみに近しい響きに、蛍は聞き覚えがある。


 「()()警察官、ですか」

 「ああ。とはいえ、この部隊の名前も、私自身の存在も、全て仮初のものだが」

 「なるほどね。君達が、そうか」


 通称・『凶悪犯罪対策部隊』――表向きは政府直轄の上級警察組織であり、一般警察内でも存在を知る者はごく少数。

 しかし草野の言う通り、当部隊は他の公的組織に素性と動向を気取られないための仮名に過ぎない。

 実状は、国家機密に関わる工作・諜報活動を担い、必要であれば関係者の()()すら失効する政府の極秘組織。

 対策部隊、とその構成員である草野達の正体について、蛍は内村先生の情報提供から既に悟った。

 満月図書館においては、深月と黒沢に麻酔針弾を発砲し、逮捕へと繋げた草野警察官、とその隣は恐らく相棒。

 二人組は政府組織の命令に従い、指名手配中の深月と蛍のいるフロストムーン区まで密かに追跡してきたと思われる。

 特別列車ウィンタームーン号で蛍と深月へ奇襲を仕掛けたものの、捕縛し損ねた同部隊の仲間に代わって。

 背後には銃口を無言で突きつけたままのヴィクター。

 前方には雪闇で無慈悲に光るライフル銃を構えた草野警察官達。

 双方に挟まれた蛍と深月は、逃走の経路も隙も完全に立たれてしまった。

 非常に緊迫した窮地に閉じ込められたことで、蛍の心臓は急速に早鐘を打ちつける。

 それでも蛍は、焦りと共に固唾を呑みほしてから、強い口調で草野へ言い放った。


 「その銃で……内村先生を、よくも」


 政府の国家機密である『サイコ・ソシオパス計画』、そして政府が深月を狙う理由ついて、内村先生が語っていた最中――マッチを擦るようにほんの一瞬の間に銃声が響き渡った。

 クルーザーの窓硝子を貫通した冷たき銃弾は……今思えば、蛍達を庇う位置に立ち上がった先生を撃ち抜いた。

 血相を変えて慌てて先生へ近寄ろうとした蛍、と隣の深月には気付けばヴィクターの銃口は向けられた。

 二人を無言で制圧するヴィクターによって、二人共にクルーザーの外へ誘導され、そして今に至る。

 忌々しい硝煙を香り立たせているあの銃は、最後の砦だった内村先生を射殺した。

 しかし、応急処置を施す間すら与えられなかった蛍と深月は、目の前で冷たくなっていく先生を黙って眺めるしかできなかった。

 恩師を射殺された憤りの氷炎を燃やす眼差しで、蛍は草野達を責め射らずにはいられない。


 「()()()()()()のは、そこの医者だ。悪いが、国家機密の計画を漏洩した以上、決して生かすわけにはいかない」


 しかし当然ながら草野は、憐憫や罪悪の微塵もない無機質な声で応じるのみ。

 さらに草野の冷徹さをより薄ら寒くするように、もう一つの冷淡な調べは埠頭に響き渡る。


 「あの内村先生が、してやられるとは、思いもしなかったよ。まさか君達の諜報員(スパイ)が密かに紛れこんでいたとはね。そうだろう? ()()()()()


 一方、深月は両手を無抵抗に掲げているものの、どこか緊迫感に欠ける柔和な微笑みを咲かせている。

 むしろ、いたずらを前に愉しそうに笑う幼子さながら言葉を紡ぐ。

 自分の恩師が目の前で発砲され、自分を狙う政府組織に追い詰められているにも関わらず。

 皮肉めいた笑みをクスクスと奏でる深月の問いかけに対し、ヴィクターは沈黙を以て肯定した。

 困惑した眼差しで深月を見ていた蛍も、弾かれたようにヴィクターへ視線を移した。


 「ヴィクター。まさか、あなたも」


 船乗りヴィクターの正体は、蛍と深月の行き先を特定し、最適の時間と地点で二人の身柄を確保するために潜入していた政府組織の工作員。

 指を軽く引っかければ何時でも発砲可能な銃、とヴィクターの無感情な瞳は全てを物語っていた。

 内村先生は、政府組織と忌むべき計画の魔手から深月を蛍と共に守り、二人を密かに海外へ逃がそうとしていた。

 しかし、先生の密かな目論見を、政府組織の諜報員は既に見破っていたのだ。

 このままでは、深月は政府の本部へ連行される。

 そして、国家機密の計画と陰謀を知った蛍は、政府の脅威として始末されてしまう。

 心臓からじわじわと凍りついていくような危機感は、北風の音色さながらの()()と共に、現実味を帯びていった。


 「深月兄さん!」


 陽に融け崩れる雪さながらずるりと力なく倒れた深月に、愕然とした蛍は駆け寄った。

 しかし、幾度も体を強く揺さぶり、声をかけても、深月は返事どころか微動だにしない。


 「動くな、櫻井刑事官」


 雪床に膝をついて深月へ呼びかける蛍に対し、草野達三人は問答無用で牽制をかける。

 風を貫くような俊敏さで、深月の左腕辺りを撃ったのは、あの夜に使用されたのと同じ()()()()

 氷人形のように意識と動きを封じられた深月の様子から、一目で容易に把握できた。


 「遅くても五日間、手に刃物を刺しても奴は決して目を覚まさない。だが、安心しろ。あの時よりも、少々弱めに調合した麻酔薬の針弾を撃ち込んだし、命に別状はない。本部に連れ帰った後、その男とはじっくり話し合う件が山積みだからな」

 「そして、今からここで私をすぐに()()するつもりなのね。内村先生、と同じように」


 蛍が爪先一つでも動かせば、草野達の無慈悲な銃弾は蛍に引導を渡すだろう。

 感情なき銃殺機械人形さながら冷然と構える草野達を前に、蛍は唇を噛む。

 絶凍の場に関わらず流れる汗は、蛍の焦りと危機感を雄弁に物語る。

 それでも、義兄とは正反対の澄んだ青黒の瞳だけは、草野達を果敢に見据える。


 「貴様が指先一つでも動かせば、な。だがその前に、我らの(マスター)からの言葉を貴様へ伝える義務がある。蛍・櫻井、選べばいい。ここで死ぬか? それとも、()()()()()()()()?」

 「何ですって?」


 氷然たる殺意を吹雪かせたままの草野が述べた予期せぬ選択肢に、蛍は虚を衝かれた。

 蛍の懐疑的な視線を浴びる中、草野は冷然と続ける。


 「心して聞くがいい。主の目標でもある『サイコ・ソシオパス計画』――その要となり得る深月・斎賀を、主は切望している。その男が唯一執着し、主への逆心を生む枷となっている貴様を始末するのも納得だ。だが、最大の合理性を思案した末に、主は貴様を()()()として迎える道も用意したのだ」

 「どういう心境の変化なの?」

 「深月に限らず、あなた自身もまた希少価値の高い存在。それが我らの主の慈悲深き判断」


 草野達が主と呼び敬う存在は、計画の中核と指揮を担う政府の人間を示唆しているのだろう。

 それにしても、稀少価値の高い被験者とは、一体何を意味するのか検討もつかない。

 恐らく、体のいい実験体と大差ないのだろう。


 「()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()()()――、それがサイコパスという人間」


 当惑を浮かべていた蛍の眼差しと空気は、一瞬にして氷り尖る。


 「逸脱した精神構造を持って生まれたサイコパスに、我らの主は()()()()()()を与えようとしているのです。何と合理的かつ慈悲深いお考えか」

 「さあ、選ぶがいい、蛍・櫻井。その男と共に、我らの主の理想へ貢献するか……もしくは、死の礎となるか。貴様には二つの道がある」


 草野とその相棒は共に主たる存在への崇敬を籠めて、言葉を連ねていく。

 主とやらの理想も真意も不明だ。

 しかし、サイコパスの烙印を押された人間を戦争兵器として運用し、危険な業務を肩代りさせる計画も、それを企てた者の根幹は非常に不穏で好ましい性質ではない。

 それは、蛍にとっても想像に難くはない。

 しかし、絶望と共に彼らにみすみすと殺されてやるほど、自分は諦めの良い人間ではない。

 草野達に言付けられた主の提案に対し、蛍は……。


 「分かったわ――」


 一言だけ、決心を淡々と述べた蛍はゆっくりと立ち上がった。

 蛍の言葉、と無防備に垂れ下がった手足の動きから、今の彼女に反撃の意がないことを草野達は察した。

 草野達は蛍を迎え入れるように、距離を縮めようとして――ほんの一、二歩辺りで足を止めた。


 「撃ちたければ、撃てばいいわ」

 「何……?」


 蛍の予期せぬ台詞に、草野達の氷杭さながらの殺気が再び冷たく尖っていく。

 わずかな恐怖で凍直していた蛍の心臓は、再び高まる鼓動と共に熱を帯びていく。

 それでも凍え切った蛍の唇は止まらなかった。


 「主とやらに伝えなさい……サイコパスの心理特性を適性として活かせる役割へ、彼らを当てはめることは、きっと正義なのでしょう。それでも……自分達の罪や汚れ仕事を他人に肩代わりさせ、道具のように利用している者に、私は従うつもりはない――」


 サイコパスの共通点のみを取り上げて、人間を特定の枠組み(カテゴリー)に当てはめることは、全て悪ではない。

 一つの枠組みや(タイプ)は、主なる自己意識(アイデンティティ)の形成や拠り所にもなる。

 しかし、自分の役割や存在意義というものも、あくまで()()()()見出して受け入れる、という前提によって成立するのではないか。

 しかも、誰かが背負う必然性を謳われながらも、人に感謝されるどころかむしろ蔑まれるような役割を、他人が一方に与えてやる。

 そのように思い上がっている人間に従う道理はない。


 「誠に残念だよ、櫻井刑事官」

 「あなたの不合理な選択に、我らの主も落胆を隠せないでしょう」


 蛍の結論を耳にした草野達は、氷塊よりも冷重で、炎よりも激しい失望を静かに表す。

 麻酔針弾の仕組まれたライフル銃とは別の拳銃を懐から取り出す二人。

 蛍の左胸辺りへ照準を定めた銃口は、そのまま彼女がこれから辿る末路の関門であり、終わりを示唆している。

 草野達が引き金を引けば、蛍に待ち受けるのは間違いなく“死”だ。


 「なら、撃てばいいわ。私だけじゃない……深月兄さんは、たとえ罪深くても、冷酷でも、深月という“ただ一人の人間”に過ぎないわ。サイコパス――あなた達が勝手に決めた狭い枠に、人という存在も心も、当てはめることはできない」


 深月兄さんが、サイコパスという特異な精神構造心を持って生まれた人間であるのは確かだ。

 深月兄さんと私を引き離したあの夜の悲劇を契機に、兄さんは許されざる罪と血であの優しい手を染めてきた。

 笑いながら人を傷つけることのできる人間が、人の涙を見ても躊躇や痛みも感じない人間が――自分以外の誰かを愛したり、優しさで抱きしめたりできるのかは、真っ当な疑問だ。 


 それでも深月兄さんは――出逢った時から今までも――いつだって――何よりも。


 「私と深月兄さんの、生きる理由も、願いも、魂の意思も、自分達で決めるのよ――! それだけは決して、誰にも譲らない――!!」


 私というただ一人の人間の心を、魂そのものを、愛し慈しんできてくれた。

 ありのままを見つめる無垢で透明な眼差しと共に。

 誰にも必要とされなかった私を、ただ一人、心の奥底から求めてくれた。

 たとえ、冬花さながらの優しい微笑みの影には叡智で彩られた狂気、と愛慕から芽吹いた執着を孕んでいたとしても。

 結局、最後は私の意思を尊重してくれる。

 それが、深月兄さんという人間。

 魂の性質はどうあれ、私にとって“救い”となったのは、深月兄さんが――()()()()()()()()()


 「遺言は全て済んだか? ならば逝くがいい、櫻井刑事官――」


 意識を失っている深月に触れた両手を離さない蛍に向かって、草野は引き金を慎重に引いていく。

 絶望に震えるどころか、むしろ強い意志に透き通った瞳は草野達から決して逸らさない。

 引き金を完全に引いてから、冷硬な銃弾が蛍の左胸を貫通する時間まで、わずか二秒程――薄藍色に照り始めた冬の空間を、二つの銃弾が真っ直ぐ切り開いた。


 「え――?」


 しかし、二つの渇いた銃声に続いて響き渡ったのは、低空花火を散らしたような()()()

 埠頭の周辺は、一瞬にして猛烈な雪飛沫にのみこまれた。

 白霧さながらの雪飛沫が薄っすらと晴れてきた後、凍りつくように拡大した蛍の双眸に映り込んだのは――冬空を穢す灰色の硝煙、そして純白の雪畑にほとばしった()()()()であった。


 *


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