其ノ二十二『氷砂糖の真実と記憶』①
十二月二十三日、午前四時頃――冬の闇と静寂に呑まれた雪花町にて。
広大な港の防波堤沿いを颯爽と駆け抜けるのは、どこか年季の入った“電動キックボード”。
冬闇で美しく舞う雪の花びらは、運転する男性の熱い吐息へ融けてゆく。
純白の花畑さながら降り積もった雪の美しさは、男の心中を占める一人の女性を想起させた。
「蛍……っ」
すっかり冷え乾いた唇から、絞り出された女性の名前。
自分にとって、最も今すぐ会いたくてたまらない相手。
過去へ帰ることが叶うのであれば、真っ先に過去の自分を殴り倒したいほどに。
時折、胸部へ電撃の走ったような痛み――“罪悪感”は男を責め苛む。
しかし男は歯を食いしばって耐えながら、凍闇の道を独り突き進んでいく。
心許ない手がかり、と己の直感と判断のみを頼りに。
「負けて、たまるか……」
彼女と再会するための手がかりを示す秘密の伝言を発信してくれたのは、男にとって“最初で最後”の親友。
男の背中を押してくれた親友の熱い“涙”は、今も男の瞳に焼き付いて離れない。
それは、時折凍え挫けそうになる男の心身を焚きつけてくれた。
*
「久しぶりだな、光。まあ、その何だ……元気にやってっか? って、すまん。その怪我と包帯具合から、一目瞭然だな」
十二月二十二日の午前中に、蛍の失踪が発覚した後の出来事。
入院中の光との面会をわざわざ希望してきた人物は――今も警察署内の独房で隔離拘束されているはずの弓弦・黒沢。
担当の警察医と看守曰く、深月の脱獄事件の翌朝に黒沢は麻酔針弾による昏迷状態から既に回復したらしい。その直後に自嘲聴取も済ませてある。
ICT化以来最も凶悪な罪人深月の未確保という予断を許さない現状や、彼の犯罪に加担した反逆行為を鑑みれば、黒沢は警察官にあるまじき“裏切り者”だ。
しかし、黒沢本人の強い希望を呑んだ警察署は、看守の同席と監視記録を行う条件で、黒沢と光の一度きりの面会を許可した。
猟奇連続殺人事件の潜入捜査以来、久しぶりに再会した黒沢は、やはり悄然とした顔つきでやつれていた。
それでも、重苦しい空気にそぐわない軽口や、疲れの滲み出た軽薄な微笑は以前と同じまま。
強化アクリル板越しでなければ、光は夢で過去の黒沢と逢って話しているような錯覚に陥りそうになる。
言葉にし難い安堵、同時に真っ当な憤りが絡み合う複雑な心境で、光は重い口を開いた。
「俺に、今更何の用だ」
ようやく唇から零れた声は、光本人も予想しないほどに低く、暗い怒気を燻らせていた。
途端、光は親友の“裏切り”に対しする強い憤りと軽蔑を改めて自覚した。
ふざけるな。
利己的な目的のために、無辜の一般市民を弄んだ深月の罪深き行為へ加担したお前が。
親友だけでなく、己の正義すら裏切り、堕落してしまったお前が、今更何を話すというのか。
よりによってお前が――。
あの夜、深月に邪魔者と見なされた俺を、お前は――「 」そうとした!
憮然とした表情、重苦しい沈黙をもって、最大限の軽蔑と非難を注ぐ光の眼差しを前に、黒沢の目付きも一瞬で真剣な色を帯びた。
光に燻り始めた憤りと失望も見透かしているらしい黒沢は、自嘲気味な微笑みを浮かべた。
「どのくらい前だったのか……お前も俺も、もう忘れているかもしれないが……俺には昔、妹がいたことを、一度だけ話したことあったよな?」
妹――? それが一体、どうしたというのか。
その話は今の俺達と何の関係があるのか。
何の脈絡もなく触れられた存在の話題、と相変わらず飄然とした態度。
光は思わず黒沢を罵りながら、今すぐ退室したい衝動に駆られた。
しかし、静かに怒り震える光の拳も脚も、何故か凍りついたように動けない。
それは、以前と変わらぬ微笑み、光を真剣に見つめる瞳は、かつてなく“痛み”に揺らめいているせいか。
それとも、手錠を厳重にかけられた両手首は、心なしか震えているからか。
疑心と非難の視線を一身に浴びる中、黒沢は光の返事を待つこともなく語り始めた。
黒沢にしては、珍しく重厚で、落ち着き払った口調で。
「だらしのない俺とは違い、ホタルは本当にしっかり者で可愛い、俺の自慢の妹だった」
この場に不相応な律動で一方的に展開していく話から出た名前。
まったく同じでありながらも異なる音の響き。
光の瞳にも衝撃という名の亀裂は浮かび走り、心臓も反射的に激しい律動を奏で始める。
ホタル――大切そうに奏でられた名前は、黒沢の妹のことだ。
そう理解するまでに数秒も有した。
今までになく優しく、故に悲壮な声色から、黒沢にとってその妹はかけがえのない存在だったことは、ひしひしと伝わってきた。
「物心ついた頃から、俺とホタルには互いしかいなかった」
酒に溺れながら、我が子すら殴る蹴る罵るばかりの親父しかいない家庭に生まれたのは、黒沢弓弦とその妹のホタル。
弓弦が小学校入学生になった頃からは、妹と一緒に入所した児童養護施設で育った。
今まで光がさりげなく知らされていたのは、それらの淡々とした事実のみだ。
その詳細や想いまで不躾に訊くことは憚られるため、それ以上のことは知らない。
今回の黒沢の裏切り行為、と彼の妹の存在はどう繋がってくるのか、光には見当もつかない。
「もしも、妹のホタルのいなかった場合の人生を想像した時、思う……きっと俺は親父と同じで、周りへ怒りを吐き散らすことでしか自分を保てない最低野郎になっていただろう。でも、俺がそうならずに済んだのも、警察官を志すことができたのも……こんなふがいない兄貴を慕ってくれたホタルのおかげだ……ははは」
至って気安くも感慨深い口調で、蛍と同じ名前の妹について語る黒沢に、光は呆然と耳を傾けるしかなかった。
しかし、一見妹自慢から始まった話は、後に弓弦がE・Cを率いる幹部、深月の操り人形だったB・Bになってしまった理由でもある、“痛みと慟哭の物語”であった。
「気立ても良かったホタルは、無返還型の奨学金と補助金で通った難関大学を卒業し、大企業で就職して立派に育った。俺が心置きなく警察官を目指せるようにって……」
「……なら、妹は今どこでどうしているんだ? 大丈夫なのか? 今回の騒動で――」
「その心配はいらない――ホタルは」
愛おしさのあまりか、目尻を下げて顔を緩ませながら妹のことを語っていた黒沢の表情と声へ暗い影は差す。
「自殺したからな――ずっと前に」
渇いた声で奏でられた衝撃の言葉に、光は凍てついた沈黙と共に息を呑んだ。
愕然とする光の疑問に応えるように、もしくは己を戒めるように、黒沢はさらなる衝撃の台詞を淡々と零した。
「……俺にとっては、殺されたようなもんだと……今も思っている」
黒沢にとっては、しっかり者で心優しい妹のホタルが自ら死を遂げた理由。
しかも、殺されたようなもの、という言葉の示唆するものとは。
指の隙間から血が滲み出そうなほど固く握り絞められた黒沢の拳は、悲嘆と憎悪に震えている。
鉛を吞んだ全身を引きずるように沈痛な面持ちと口調で、黒沢は最後まで語り続けた。
「俺が二年浪人してやっと警察学校に合格する前……今思えばあの頃から、ホタルは少しずつおかしくなっていた」
不条理によってこの世から抹消された、最愛の妹の死を――。
「屈指の大手企業へ入社してから半年後、あんなに明るくて元気に満ち溢れていたホタルはだいぶやつれて、顔も蒼白で。でも、てっきり俺は、ホタルが仕事に忙殺されているせいだから、と思っていた。俺は一度でも病院に行った方がいい、って声をかけた。そしたらホタルは直ぐに分かった、と言った。でも、俺は気付けなかったんだ――」
青白く痩せた黒沢の顔は、決して拭いきれない後悔と罪悪の渦によってくしゃりと歪む。
「ホタルは、俺のために飯を作り置きしてから会社へ外泊する頻度が増えたのも……本当は受診していないのに行ったことにして誤魔化していたのも全部……バイトをしながら、受験勉強にも励んでいる俺を心配させないためだったんだ。そして……」
念願の警察学校にようやく合格した黒沢を、妹のホタルは以前と変わらない明るい笑顔で祝福してくれた。
お祝いには、久しぶりの手料理まで色々と奮発してくれたらしい。
しかし、幸福の絶頂にいた黒沢を絶望の淵へ突き落としたのは……。
「本当に可哀想なことをしたよ……身も心もボロボロのあの細っこい体を、独り……最後まで怖くて痛くて苦しくて、たまらなかっただろうに。それでも、あいつは」
翌々日の朝、妹は会社で首をくくって亡くなっていた姿で発見された。
妹の不審な自殺とその背景は、当時激しく動揺していいた黒沢本人も、彼女の勤め先の会社にとっても、謎に包まれていた。
亡き妹へ報いるために、黒沢は悲嘆と絶望に凍え重くなった心身へ鞭打つように、訓練に勤しんだ。
己の全霊と妹の命を賭けてまで受かった警察学校で、黒沢は光と出逢った。
最愛の妹を喪った悲しみを引きずったまま警察官となった黒沢は、己の夢と正義を目指して歩み、光や蛍等の大切な仲間も得られた。
しかし、黒沢の心身を抉った悲劇の闇は、そこで終わることはなかった。
「エクリプス区の地下で、あの男に囚われてしまった俺は……今思えば、ホタルを喪った悲しみに付け込まれた。奴による“洗脳”の罠に嵌まった」
“あの男”、という言葉へ敏感に反応した光は、それが深月・斎賀の事だと瞬時に理解した。
「レギンに殴られて気絶させられ、捕虜になった俺に対して、奴は唐突に教えたんだ。俺の妹を自殺に追いやった“元凶”は何なのかを」
後悔と悲嘆に表情を歪ませながら懺悔を繰り返す黒沢を見下ろす“あの男”の姿は、光の脳裏に浮かんだ。
人を人とは思わない酷薄な微笑、憎たらしいほどに清雅な顔立ちを――。
「ホタルは、勤務先の会社の上司と同僚達から執拗な嫌がらせを受け続けていたことを」
「っ――何、だと」
「しかも、ご丁寧に奴は、ハラスメントが日常的に横行していた社内の映像や音声データ、それから俺の妹が密かに削除した電子伝言の証拠を見せながら、な」
高度なクラッキング技術を備えた深月自身、もしくは仲間の手にかかれば、表向きでは削除されたハラスメントの音声・映像データの入手や盗撮・盗聴は、朝飯前だろう。
実際、深月が黒沢へ渡した証拠データには、職場で嫌がらせを受けている妹の苦悶の様子や音声、表情等を確認できたらしい。
「ホタルは、自分の睡眠と食事を削らされてまで作成した企画を、上司にゴミだと一蹴されて……お酒はあまり飲めないと断った負い目や立場の弱さへ付けこんだ上司にも体をべたべたと触られ、卑猥な台詞を浴びせられた。それに抗議したことについて、同僚には逆に疎ましがられて……ホタルは孤立無援の中で過重労働を強いられ、心も体も壊されていった……」
さらに、深月が仲間にクラッキングさせて入手したもう一つのデータは、妹ホタルの本当の労働時間記録表。
ホタルの会社は、ハラスメントの他、過労死ラインを遥かに超える労働・残業時間を記載した記録を秘密裏に処分し、彼女の労働時間を偽装したのだ。
最愛の妹は、会社での常軌を逸したハラスメントと過重労働に起因する精神崩壊で亡くなった――そんな自殺の真相を、黒沢は知ってしまった。
「今思えば、俺は本当にどうかしていたと思う。深月の甘言を受け入れ、自分の中で再燃した悲しみと憎しみに憑りつかれた俺は……E・Cとして社会への復讐へ駆られた」
妹の仇討ちの機会、何よりも黒沢の内奥に燻っていた憎悪の溶岩、後ろに秘めた癒え難い悲嘆を――理解された歓喜。
死んだ妹の無念を晴らす機会すら与えてくれた深月へ、黒沢の精神は屈服せざるを得なかった。
「俺が出逢ったE・Cの仲間も皆、俺の親父のような奴からひでー仕打ちを受け、ホタルのように傷つけられ、社会から末梢された若者、我が子を奪われた哀しい親まで色々な奴がいた。だから、どうしても放って置けなくなった。何よりも俺は……櫻井を……蛍だけでも守ってやりたかった――」
「蛍を、守るだと?」
深月の犯罪を幇助した黒沢の裏切り行為は如何にして“蛍を守る”事に繋がるのか。
光にしては訳が分からないと困惑するしかなかったが、その意味は直ぐに理解する事になる。
「蛍、と俺の妹は似ても似つかない。だが、光と一緒に幸せそうに笑う蛍の笑顔も……お前もよく知る通り、あいつの強がりで放って置けねぇ所も、いつも俺に妹を思い出させた。ホタルが自ら命を絶つ寸前ですら、久しく見られなかった、ホタルの笑顔を」
顔すら知らぬはずの黒沢の妹、と蛍の少女みたいな懐かしき笑顔は、光の脳裏にも切なく重なる。
「俺が深月に従えば、蛍だけは絶対に守る、と……なら、光にも手を出さないでくれ、と頼んだんだ。深月・斎賀は、約束してくれた」
「約束、だと?ふざけるな! なら、あの時どうして俺を」
「本当にすまなかった、光。でも俺は、お前を助けようとしたんだ」
「何だと?」
E・Cを率いる幹部として深月の犯罪への加担へ黒沢を掻き立てた動機は、復讐心。
最愛の妹の死に対する癒えぬ悲嘆、彼女を奪った社会に対する憎悪を燃やして。
しかし、同時に。
「見ての通り、深月・斎賀は、蛍へ強く執着している。蛍の隣にいるお前に対し、あの男が決して良い感情を抱いていないのは明白だ。だから俺は、お前の身動きを封じて、あの男から遠ざけようとした。俺と約束したとはいえ、自分にとって邪魔者に過ぎないお前を、あの男が始末しない保証はできないからな」
妹の面影を持つ蛍、と警察学校時代に心を閉ざした黒沢と真摯に向き合った親友の光。
せめて二人だけは、不条理の闇が蔓延る社会から守りたい。
黒沢は、決して心の髄まで深月に洗脳されていたわけではない。
結果はどうあれ、二人への深い情だけは、復讐に蝕まれた黒沢の良心を思い留まらせた。
あの夜も、黒澤はむしろ光を危険から遠ざけ、助ける意志に従って動いていた。
予想すらしなかった黒沢の哀しき過去、深月に従った真意を知らされた光は、ただ愕然とした。
同時に心の隅では、己の目的のために黒沢の過去の傷すら利用した卑劣な男に対する怒りはさらに激しく燃える。
一方、絶句したままの光の前で、黒沢は突如額を机に打ち付けた。光が目を張って黒澤を見据える。
血が滲みでそうな程に、額を机へ強く擦り当てる黒沢から零れたのは。
「っ。本当に、すまなかった、光――!」
黒澤の悲痛な謝罪と嗚咽が哀しく融け合う。
顔を伏せた黒沢の瞳から絶え間なく溢れる滴は、黒沢の腕から手錠、机を哀しく濡らしていく。
己を裏切った親友に対する怒りで燃え荒んでいたはずの心は、刺すような痛みを伴いながら浄化されていく。
「許してくれ、なんて虫のいいことは言わねぇ。ただ、お前に謝りてぇ。そして……」
蛍が深月を追って姿を消したことは、黒沢の耳にも届いているらしく。
罪悪の涙に濡れた目配せから、黒沢が光へ何を訴えようとしているのかは言葉にせずとも容易に伝わった。
「黒沢。でも、俺は……」
蛍のためにできることは、もう自分には何もない。
そう紡ぎかけた言葉を、光は溜飲の下がらない思いで無理やり呑み込んだ。
妹を喪った過去、妹と重なる蛍へ寄せていた複雑な愛情を鑑みれば、黒澤は蛍が救われることを何よりも願っているのは明白。
しかし、三大中枢区における交通基盤機能復旧の目途も未だ立たず、政府組織からはルーナ警察署本部の警察官「出動停止命令」も出ている中、蛍を探し出すのは現実的にも厳しい。
光達がここで手をこまねいている間にも、蛍と深月は既に警察の手も届かない遠くへ逃亡しているだろう。
二人の居所を突き止める術も、彼らへ追いつく手段も光一人だけでは詰んでいる。
「すまないな、光。もう、いいんだ」
光の深い失望と諦めを感じ取った黒沢は、もう一度小さな謝罪を零した。
重く凍えた沈黙は再び流れ去る。
「それより、さ。俺、霜降り肉が食いたくなっちまったぜ」
「……は?」
先程までの沈痛な面持ちから打って変わり、あっけからんと零した台詞に、光は唖然と目を丸くした。
「霜降り肉だよ! しかも、豪華に船から月を眺めながらな! 霜降り肉は、一番寒い季節のが美味いって、聞いたことあんだよな。あ~、まじ霜降り肉食いてーな」
「お前な」
何を突然呑気なことをぼやきだして。
以前と変わらないノリで、あまりにも唐突で場違いな態度に、光は怒りを通り越して呆れた。
光も以前そうしていたように、黒沢を諌めるように溜息を吐いてから数秒後――ハッと言葉を呑んだ。まさか。
光は弾かれたように向かい席の黒沢、と横に腰かける看守の顔を交互に見た。
二人の会話を監視していた看守は、「黒沢刑事官らしいね」、と呆れ蔑む表情を浮かべるのみ。
幸い、看守は気付いていないようだ。
何の脈絡もなく高級肉の話題を切り出した黒沢の意図を、光はようやく察した。
不自然に見られない程度に、黒沢を凝視する光。
すると、黒沢は口角をニカッと皮肉っぽく吊り上げて見せた。
それから、光を叱咤激励するような眼差しで真っ直ぐ射抜きながら、黒沢は声にならぬ訴えを送った。
強い意志を灯す双眸は、同時に涙を堪えるように濡れ揺らいでいた。
黒沢が垣間見せた切ない耀きに、唯一人気付いた光は彼の訴えを密かに呑み込んだ。
(どうか、蛍を助けてやって、くれ――)
*




