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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第3章『氷雪の暁』(終)
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『氷雪回帰』③

 「蛍が、"僕と一緒に来てくれた"理由」


 深月の唇から紡がれた予期せぬ問いかけに、蛍は思わず目を見開いた。


 「蛍が僕と一緒に来てくれるのは、()()()()。それでも、君自身の口から聞きたい」


 暖炉で舞う炎に照らされた深月と、不意に瞳が合う。

 静謐の冬空みたいな薄水色の瞳は、透明感と底知れぬ深みを帯びている。


 「蛍は何故、僕を選んでくれたのかな。それこそ、名誉や功績、信頼、正義と信念、さらには同僚、上司、後輩、友達、そして親愛に足る()()ですら……」

 「……」

 「僕を失ってからの蛍が積み上げてきた、大切なあらゆるもの全てを、かなぐり捨ててまで」


 蛍の覚悟は如何に、氷さながら純真で強固であるものか、と言い聞かせるような……期待と近しい色声。

 それにしても、"選んだ"――という言葉自体は、蛍にとって若干の語弊がある。

 しかし、ここではあえて受け流すことを決め込んだ。

 静謐の炎を恍惚と揺らす眼差しに、蛍は心臓の奥まで覗き込まれているような緊張感に見舞われた。

 蛍は己の薄氷の鏡さながらの瞳に、深月の冷たく澄んだ瞳を映し返すことで平静を保とうとした。


 もしかすると、深月兄さんは()()()()()()()()()()


 蛍の心臓で今も尚、氷に閉ざした炎が燃え燻るような強き想いに。


 「それとも、幼き頃から君が()き続けてきた不安も寂しさも……()で紛らわすことは、やはり無理だったのかい?」


 聞き捨てならないことを呟いた深月の唇を縫いたくなったが、蛍は何とか耐えた。

 最後の台詞は()(かく)、あながち全てが間違いではないかもしれない。

 自分にとっては顔と名前すら知らぬ父親――母が唯一愛した男に、結局母は捨てられた。

 決して帰らぬ人を待ち焦がれる孤独な愛の末に燃え尽きた母に、ずっと見放された哀れな娘が蛍。

 今も時折、そんな蛍を襲うのは、漠然とした不安と無性な虚しさと寂しさだった。

 任務や責任等を口実に自分を追い込むことで、蛍は心の逃げ場を作っていた。

 春夏の日差しに似た優しさやぬくもりに抱くのは、安堵と同時に潜在的な()()

 幸福な未来を約束してくれるぬくもりや、純真で穢れなき愛情で塗り固めた拠り所をようやく得た私を、深月兄さんは必ず捕らえて離さない。

 薄氷に守られたこの心臓に眠る空虚を、全て見透かしたうえで。


 「昔から今もずっと、君の不安も寂しさも理解し、その空虚な心を満たすことができたんだ。()()()が」


 私が決して口に出せなかった不安や恐れ、願いすら、唯一理解してくれた深月兄さんを、幼き日の私は信頼していた。

 けれど、私の全てを見透かすこの透明な眼差しを、今ほど恐ろしく感じたことはない。


 「深月兄さん。確かに私は兄さんの傍にいることを選んだ。けれど、一つだけ言っておくわ。私は、あなたを許したわけではないの」


 深月兄さんの言葉を否定も肯定もせずに、私はただ率直な想いを毅然と伝えた。

 忠義を誓った警察組織、自分を信頼してくれた同僚や上司、何より自分を大切に愛してくれた恋人――のために。


 「君の怒りは、僕にもよく分かるよ、蛍。一つは罪を犯した僕に対する、正義の怒り。もう一つは、数年前に君を置いていかなければならなかった僕への怒り」


 全てに背を向けて、深月兄さんと共に行くことを選んだ私自身の"決意"を鈍らせないために。


 「ええ。利己的な目的のために、あなたは無辜の人達を巻き込み、深い傷跡を残し、大切なものを奪った。私の仲間の矜持と勇気を踏みにじり、痛みと屈辱をもって玩弄し、尊い命を奪った。傷ついた人たち――E(アーストワイル)C(チルドレン)の憎悪と悲嘆すら利用し、一般市民の安心と安全すら脅かした。だから私は」


 何があっても、あなたを――。


 「蛍が僕の傍へ帰ってくることで、僕の目的を達成させる。さすれば、君の大切な仲間や無関係な一般市民をこれ以上傷つけずに済む。まさに、正義感の強く勇敢な"君らしい"理由だ」


 深月の的確な見解は、蛍にとっても否定の余地はなかった。

 蛍がルーナシティにいる限り、深月の手に渡らない限り、彼は彼女を手に入れようと策謀を巡らせ続ける。

 余興も兼ねて、いかなる手段を用いてでも、蛍の守りたがっていた大切な者達の人生や誇りを踏みにじってでも。

 蛍へ執着する深月を止める方法は唯一単純だ。

 深月の目的が達成されるか、もしくは深月の存在を抹消するか。

 そうしない限り、深月の織り成す憎悪と恐怖の悲劇に終着点は訪れない。


 「みくびらないで。私にとってこの旅は、真実を知るためでもあるの」


 ならば、今の蛍が最も確実で実行可能な最善の方法は一つ。


 「()()()()()()()()()()()。まさに蛍の"原点"だ」


 蛍が胸の内に秘めている意図を察し、深月は曖昧な微笑みを浮かべる。

 蛍は一筋の冷たい汗が背中を伝うのを感じた。

 しかし、蛍を見つめる透明な瞳に甘く穏やかな炎が再燃した様子から、幸い深月は不都合や怒りを覚えているわけではなかった。

 蛍の"真なる目的"を薄々察しても尚、穏やかな態度を崩さない深月に、蛍は嵐をやり過ごせたような安堵を覚えた。


 「僕にとって、やはり君は興味深い存在だ」

 「どういう意味?」


 反面、幼少期に繰り返し向けられた、深月の慈しみの眼差しと言葉のやり取りに、切ない懐かしさも再燃する。


 「蛍は本当に勇敢で賢い、そして、さらに美しくなった。けれど、本質的には昔と変わっていない……」

 「……」

 「僕から見ると、君という人間は誰よりも素直で純粋で、それでいて()()()()()()()()()()()()()()()、芯の強さも併せ持つ」

 「褒めている、と受け取っていいのかしら」

 「もちろんだよ。何故なら君は、僕という人間を真に理解したいと(こいねが)い、()()()()()()()


 さりげなく奏でられた最後の言葉に、蛍の心臓に烈火がカッと灯った。

 代わりに、声で奏でた言葉は雪解けのように冷たくも揺らいでいた。


 「そんな、こと」

 「ない、と心の底から言いきれない。あの夜、君が見せたあの美しい"涙"が何よりの証拠だ。しかし、君は僕を求めていながらも、同時に僕という人間を誰よりも否定し、抗おうとする……だが、そこがいい」

 「……私は、ただ真実を知りたい。それだけよ」


 あの夜、深月と光の前で晒してしまった無様な弱さと惨めな涙は、蛍にとって何よりも忌まわしい記憶だ。

 何よりも、光の心を最も抉り傷つけたのだから。


 「一番の理由は何であれ、結局君は僕と一緒に来てくれた。それだけで僕は嬉しいんだ。僕は蛍の想いを尊重する。それも、昔から今も変わったつもりはないよ」

 「深月兄さん」

 「最後、君がどのような"答え"へ辿り着くのか。どのような"道"を選ぶのか。その全てを僕は真近で見たい」


 深月兄さんはやはり、どこまでも昔の兄さんのままだ。

 私の全てを見透かし、全てを肯定したうえで、私の想いを尊重しようとする。

 数年前の夜、破れた薄氷から奔流した強く儚い"恋心"も、過去に封じた喪失の"悲嘆"も、今は蓋を閉め直したことで落ち着きを取り戻していた。

 けれど、この氷炎のごとき想いは、たとえ束の間に抑えつけることも忘れることもできたとしても、"痕跡"までは消しきれない。

 薄氷の下に封じた私の想いを理解しているからこそ、深月兄さんも私を求め続けた。

 罪と血で濡れた冷たいはずの両手は、昔と変わらないぬくもりで、私を抱きしめてくれる。

 深月兄さんの罪深さを糾弾することはいくらでもできる。

 しかし結局、兄さんを心から完全に拒絶しきれない私の弱さを、兄さんは私以上に理解している。


 「さあ、深月兄さんの問いには、ちゃんと答えたわ。なら、今度は私の質問に答える番。兄さんが政府に追われている理由も含めて全てを、そろそろ教えてほしいわ」

 「今度は僕の番か。ならば、()()答えてあげよう」

 「ここに来て、また先延ばしにするの?」


 互いへの問答に随分時間を費やした末、結局明日へ先延ばしにされるとは。

 結局、肝心な所を再び躱された蛍は、狐に摘まれた思いだ。

 当然釈然としない蛍の語気は、自然と荒くなる。


 「悪いね。だが、今ここで話すよりも、先に明日の目的地へ着いてからの方が理解しやすいから」


 そういえば。今夜は、追手から身を隠すために予め用意されたこのコテージを出た後の予定――明日の"目的地"について未だ聞いていなかった。

 深月が執着対象である蛍と共に目指す"終着点"について、彼女はフロストムーン区へ入った時点で薄々と勘づいていた。

 しかし、確信材料が未だ揃っていない現時点では断定できなかった。


 「それは、どういう意味? 明日の行き先に、私の求める答えが存在するの?」

 「君の最も知りたがっている"真実"の語り手(ナレーター)として、僕よりも適任な存在がいるのさ」


 深月の仄めかした"第三者の存在"に、蛍は反射的に双眸を見開いた。

 蛍が深月のもとへ自発的に赴いた理由へ繋がりうる()()()()()、そして()()()()の顔が脳裏を過ったからだ。


 「その様子から、君は既に気付いているようだね」


 蛍の薄氷の瞳に一瞬生じた波紋を、深月は目ざとく捉えた。

 しかし、深月が適任者と謳う謎の人物は果たして何者なのかも含め、現時点で蛍がどこまで推測できているのかを、彼は見透かしているのか。


 「君が真に知りたがっている答えを、その人がちゃんと教えてくれるかどうか、結局は君次第だが」


 しかし、それすら深月にとって些末な問題らしく、彼は相変わらず他人事のように微笑みながら呟いた。

 ()次第……つまりそれは、明日の目的地へ辿り着くまでに、自分なりの解答を用意し、自らの手足で真実へ辿り着け、と……深月兄さんは示唆しているのだろうか。

 二人ぼっちの冬夜のコテージにて。

 蛍が深月との懐かしき対話に没頭してから、どのくらいの時間は過ぎ去ったのか。

 いつのまにか窓の外に広がるのは、冷たい藍色に染まった空に舞う薄紫の吹雪。

 建物の外壁をわななかせる冬風の音色。

 暖炉の炎と厚い毛布のぬくもり。

 沸いた湯沸かし器の甘やかな湯気。

 外界から隔絶された冬闇の世界は、寄る辺を手放して彷徨う罪深き二人を抱擁する……あまりにも冷たく、けれど心地よさすら残す雰囲気に、蛍はふと猛烈な睡魔に見舞われた。


 「おや……眠たいようだね、蛍? なら、もう少しだけ眠ればいい。ここへ到着した途端、君は一度気を失っているんだ」


 抗い難い睡魔に誘われる蛍に気付いた深月は、子守歌さながら優しい声で語りかけてくる。

 満ち欠けゆく月さながら徐々に閉じていく蛍の(まぶた)へ、深月の顔はゆっくりと舞い降りた。

 暖炉の前で同じ毛布に互いに包まれている故、ゼロの距離はこれ以上ないほど縮まる。

 雪のように冷たく、けれど儚い雪よりもずっと確かな存在を伝えてくる深月の唇は、蛍の瞼へ舞い落ちた。


 「蛍。僕を憎んでくれてもいい……君にはその資格がある。愛する君に憎まれることも、僕は喜んで受け入れるよ」


 穏やかな睡魔と共に閉じた瞼裏の闇を見据えながら、蛍は深月の語りに耳を傾ける。


 「……なら、教えて、よ。数年前、どうして……私を、置いて、いったの……っ」


 頭上から雪のように降る甘い囁き、瞼から広がるぬくもりに微睡む中、蛍の声は絞り出すように震えていた。

 猛烈な睡魔で思考は徐々に霞んでいくのに反し、言葉に押し込めた感情ばかりは炎さながら静かに、激しく燻るばかり。


 「ごめんよ、蛍。ただ僕はね……もう、僕と君を隔てる余分な要素を、僕達の間に介在させたくない……それだけさ」


 深月の唇から零れ舞う言葉は、氷炎さながらに熱く、それでいて虚しく儚い謝罪のみ。

 こんなにも近いはずが、どこまでも遠い。

 数年前から今も尚、蛍を置いてきぼりにする深月の物言いに、彼女の胸はジクリッと冷たく痛んだ。


 「意地……悪……だから、何も、言ってくれないの……? それじゃあ、数年前と……同じ……」


 強烈な睡魔へ引きずり込まれていく中、蛍は精一杯の苦言を弱々しく零す。


 「他人のくだらない利己(エゴ)と策謀、不条理には、もう二度と邪魔をされたくはない。それに尽きるんだ」


 やはり、意味深で訳が分からない。

 今回は嘘偽りの感じられない透明感に響き渡った言葉を、蛍は不安に似た切ない痛みと共に、ただ頭の中で反芻(はんすう)した。


 「蛍はただ、僕のことだけを考えていれば、それでいいんだ。あの()()さえ超えれば、君と一緒であれば……()()()()、全て大丈夫だから――」


 境界――深月兄さんが示唆した何かを、二人で一緒に飛び越えれば――今度こそ、誰にも邪魔されない、二人だけの世界へ旅立てる。

 昔と同じように、二人で一緒に生きられる、というのだろうか。


 もう一度、蛍と共に生きる――。


 今となっては、ただの夢物語へと、深月兄さん自らの手で零落させてしまった幸福……それだけのために、多くの人達を殺し弄んだ彼の、ほんのささやかで罪深い願いは、果たして叶うのか。

 そして、私自身の願いも……。


 冬のぬくもりを感じながら深き眠りへ落ちた蛍。

 蛍を抱き寄せたままほくそ笑む深月自身も瞼を閉じていく。

 窓の向こう側に映る吹雪、飴色に照らされた静寂のみは、身を寄せ合って眠る二人を見守っていた。郷愁の秋から冬の静謐へ凍り融けてゆく、温かで甘い二人きりの過去と世界を体現するように。




 ***続く***


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