『氷雪回帰』②
「――嘘だろ……っ。やっぱり、本当なのか」
十二月二十一日、午後二時七分頃。
ルーナ警察病院に療養入院中の光・藤堂は、自身の警察端末の立体映像を凝視する。
画面に表示された資料の文章をなぞっていく指先は、逸る思いに駆られるように滑り踊る。
正午辺りの時間、"或る人物"との面会を果たした直後の事。
いてもたってもいられなくなった光は、ルーナ警察署の情報分析部門の扉を叩いた。
面会した人物の助言に従って、重要な事実を己自身の瞳で確認するためだ。
しかし、白い絆創膏の貼られた口元を手で覆う光の体は、動揺で小刻みに震える。
「よりによって、まさかあの人が」
光が署本部へ足を運ぶ前に、情報分析部門へ予め提供依頼をしたのは――指名手配犯の深月・斎賀の脱獄、その際に起きた警察医と監視警備員殺害の状況、そして或る人物の経歴等の記録資料だ。
事件当時、凶悪犯罪対策部隊の撃った麻酔針弾の効果的昏迷状態にあったはずの深月は、何故予期せぬ覚醒を遂げたのか。
意識のなかった深月の体と独房には、人体の異変や脳の覚醒状態を二十四時間監視する「医療探知機」も搭載されていた。
担当の警察医三名の定期診察の記録曰く、脱獄殺人直前までの間、触診と医療探知機と繋がっていたコンピューターの表示から、深月に異変は見られなかったらしい。
ほぼ完璧な監視警備下にも関わらず、何の前触れもなく覚醒した深月は、四名もの命を奪って脱獄した。
独房の室内外にはおびただしい血痕、と遺体の創傷から、四名の死因は頸動脈を裂かれた事による"失血死"――。
亡き後輩の香坂刑事官と同じ死因に、光は自然と唇を噛んだ。
しかし、今の光の中で灼熱と燃える怒りは彼へ立ち止まる余念を許さない。
短くも非常に鋭く深い傷口の形状や、そこから微かに検証された成分の分析結果から判明した凶器の特徴。
通常のナイフよりも刀身は非常に短く、しかし切れ味の非常に鋭い金属製の刃物が使用されたらしい。
さらに発見された不審点は、万が一の覚醒時の抵抗対策として使用された身体拘束具である帯の内側にあった、ほんの小さな"破損"。
事件当時の記録資料を読み始めてからというもの、光は異様な違和感と悪寒に背筋を凍り絡められていた。
「(そもそも深月は、どうやって凶器を入手し、そして脱獄を容易く為した?)」
警察医三名による定期診察は、六時間ごとの目安で実施された。
当日の午後五時半から約六時間後の午後十一時半、三人目の担当・松堂警察医の診察時間を見計らい、深月は四名を殺して脱走した。
ちなみに、午後五時半に診察を担当した二人目・三島警察医は、事件前の診察と医療探知機の電子情報の記録と確認を怠った容疑と責任を追及されている。
しかも、三島警察医の操作していた医療用コンピューター内部からは、深月の犯罪への支持と関与を疑わせる証拠もある。
E・Cの首謀者・スノームーンとしての深月と交わしていた電子伝言や、三島が深月を崇拝する数多の言葉は、PCのごみ箱ファイルから発見された。
「(それにしては、何だか都合が良すぎないか?)」
三島本人は、コンピューターに残された伝言内容にまったく見覚えはない、容疑を否認しているらしい。
仮に三島が「黒月」であれば、診察時に拘束具の一部を壊し、何らかの医療方法で覚醒させた深月に凶器を密かに手渡した、と警察は推測した。
医療用メスと疑わしき凶器による遺体の傷口、脱獄幇助の被疑者の生存と職業。
それらの特徴を鑑みれば、三島が今回の共犯者である証拠も裏付けも十分揃っている。
しかし光自身は、どこか釈然としない違和感が虫のように背中を這うのを感じた。
「(最先端医療と機械技術の発展は、PCによる遠隔医療や、高性能レーザーメスの外科手術が一般的だ。古来の「金属医療メス」を今も用いる外科医は、へき地や発展途上国に限られる。第二ICT化都市であるルーナシティも、首都と同格の最先端医を実施しているんだ。しかも、三島警察医は内科医だ。殺害された解剖医である松堂警察医ですら、今時金属の医療メスを使っていない)」
そもそも、深月が脱獄と逃亡を働いたこの時期すら都合が良すぎる。
何故今になって、三島個人のコンピューターから不審な電子情報は発見された?
史上類を見ない狡猾さを備えた深月もその仲間も、真っ先に疑われる証拠を処分しなかったという、致命的な失態を冒すとは到底思えない。
だとすれば、三島への嫌疑を必然的に誘導するように、深月が彼を嵌めた。
そう考える方が、今の光にとって自然と得心はいく。
「――これって」
途中、光の目に留まったのは、三島の診察より一つ前――十二月十九日・午前十一時の診察記録、と担当警察医の氏名、そして彼に隠された、栄華を極めし経歴記録。
警察端末の立体映像に表示された、二種の記録資料の文字を這う光の指は凍えるように再び震え出す。
「(他の警察医にも気取られずに密かに覚醒し、隠し持っていた凶器で看守達を殺害、逃亡する。それを可能にしてくれるのは、"あの人"くらいしか……)」
菩薩観音を彷彿させる鷹揚さと智性の調和を表す人物。
光と蛍達にとっても馴染み深い微笑み、物腰柔らかな声が、光の脳裏を過る。
全ての人の心を安寧へ導く温雅な気配は、今はかえって光の不安を増長させた。
まさか、蛍はこの事実を知ったうえで、深月を追いかけて。
今となってはひどく懐かしく、遠く感じる蛍の存在。
自分や黒沢の前でしか見せなかった、少女さながらの笑顔と柔らかな声は、光の琴線を甘く震わせた。
「大変だ! 藤堂刑事官っ」
反面、体内で奔流し始めた動悸の音色と熱い血潮、脳内を侵蝕する猛烈な眩暈と恐怖。
激しい動悸と荒い呼吸に乗って加速する不安を後押しするように、さらに不穏な知らせが届く。
「! 浜本刑事官。怪我のほうは」
「そんなことはどうでもいい。とにかく、大変なことになった」
けたましいノック音が三回響いた直後、乱暴気味に開かれた扉から浜本刑事官は現れた。
光と浜本以外の刑事官達は皆、事件捜査と指名手配犯捜索へ駆り出されているため、浜本は電動車椅子を自身で操作して入室してきた。
普段は理知的な浜本にしては珍しく、ひどく焦った様子だ。
しかし、浜本の表情を苦悶で歪ませているものは、未だ癒えていない火傷と創傷の痛みに後遺症によるものだけではない。
「とにかく、落ち着いてください。一体何があったのですか」
浜本のただならぬ雰囲気と強張った態度。
彼が伝えに訪れた悪い知らせは、光にとっても最悪な顛末が含まれていると察知できた。
浜本をなだめようとする光の瞳の変化を機敏に感じ取った浜本の瞳は、一瞬意外そうに見開かれる。しかし、驚きと安堵を浮かべるのも束の間。
すぐに不穏な表情へ戻った浜本は、早急に本題を切り出した。
「現在指名手配中の深月・斎賀……そして櫻井刑事官、二人の捜索と逮捕任務を打ち切る――政府は我々警察に命令した、という報告が入った」
落ち着いて聞いてほしい――そう光に釘を刺しながら。
「何、だと……?」
「政府特例――というものらしい。しかも、二人の捜索と逮捕は、政府直轄の警察組織が代わりに引き継ぐことになった。つまり、ルーナ警察署本部……我々による一切の手出しを禁ずる、ということだ」
"政府特例"という名の命令報告に、光も愕然とした表情で困惑する。
政府特例とは、大規模なテロや深刻な災害、犯罪事件等が起き、国家規模の脅威が生じていると判断された場合に施行される。
政府組織は特例として、政府直轄組織が主導となって現場組織と連携しながら、甚大な脅威等に対応する。
しかし、ICT化都市計画の実現以来、生まれて初めて起きた深刻な人災に加え、ルーナシティ史上最悪の殺傷事件の黒幕である深月・斎賀――たった一人の凶悪犯のために、何故遠く離れた首都・日京の政府組織が、わざわざ動き出すのか。
しかも、標的の身柄確保と国の安全を図るのに欠かせないはずの連携と協力――現場組織であるルーナ警察署との協働を拒否し、手出しを一切禁ずる方針自体は、至極不自然に思えた。
「政府は一体何を考えて」
「そのくらいの事なら、まだいいほうだ、藤堂刑事官。だが、最後の命令内容があまりにも不自然で、史上最悪だ。我々にも……お前にとっても……っ」
さらに光と浜本ですら動揺せざるを得なかったのは、指名手配犯を追跡中である政府直轄の警察が決定した"もう一つ"の方針。
非常に緊迫した口調で浜本が告げた最後の言葉を耳にした瞬間――あまりにも信じ難い内容は、時間まで凍りつくような感覚と共に、光の脳内で木霊した。
<指名手配中の「深月・斎賀」の生存捕縛は厳守。生命維持に影響すると判断される一切の攻撃・発砲を禁ずる>
<ただし、共犯者の「蛍・櫻井」は、見つけ次第――即発砲せよ>
*
「そんなことより、僕からも蛍に一つ訊いてもいいかい?」
何かしらの理由と目的によって、政府の"標的"に定められている深月。
より深みを帯びた柔和な微笑みは、その事実をさりげなく肯定していた。
それでも当の深月は、自分が政府に狙われている理由も、彼自身の目的との関与まで、肝心な情報をあえて明かしてこない。
この期に及んでも尚、はぐらかそうとするのか。
「はぐらかさないで、これ以上。私は真剣に訊いて……」
しかも、本人の悠然とした態度からも、政府の件は至極どうでもよさそうにすら窺えた。
さすがに業を煮やした蛍は、呆れを隠せない表情で追及する。
「僕と行動を共にしてから、蛍ばかりが質問を投げかけ、僕ばかりが返答する方式も、さすがに公平ではないと思うが」
「っ……でも、私は最も知りたい"真実"は未だ教えてもらっていないわっ」
「答えなら、さっき伝えた通りさ。ただ、僕自身は"言葉"という媒体を用いて、どれをどの程度まで伝えたか、そうでないかの違いだけさ」
明らかに論点が微妙に逸れ始めている。
否、正確には人為的なものか。
悪く言えば狡猾な義兄は、あえて的外れな問いかけを投げることで会話の波長を乱し、本題から遠ざけようとするだろう。
未だ深月がそうする理由と必要性までは察し難いが。
悠然と微笑む冬空色の瞳には、児戯に興じる幼子らしい高揚の色が瞬く。
こちらの戸惑いや緊張へ、深月は微笑ましい眼差しを注ぎ、手に取るように見透かしているのだ。
「屁理屈をこねないで。私が確かめたいのは、もっと具体的なことで……」
蛍にとって一時も気の抜けない対話に翻弄される様を、深月は愉しんですらいるようで《しゃく》癪だ。
深月の圧倒的な余裕と優位性が癪に障り、蛍の口調は自然と冷え渡る。
「さらに明確な答えとその先を知りたいというのなら、僕の質問にも答える義務は蛍にあるはずさ」
「……何ですって」
「何事も、物事には順序と過程が必ず存在する。過程なき結果なんて、存在しないだろう?」
深月の言葉を意訳すると、以下の通りか。
深月の実際に返した答えが、蛍の望んだ形であるか否かは、一旦棚上げにすべき事。
氷柱を掘って造られたような深月の心臓に秘めた、さらなる事実を知りたければ、深月の問いにも答える――要するに、"等価交換"。
のらりくらりと躱され続けている内に、蛍はいつのまにか義兄に翻弄されている。
とはいえ、今ここで無駄な意地を張ったとしても、先へ進む事は叶わないだろう。
元々蛍は、些細な矜持に固執する性格でもない。
「――それで、深月兄さんの訊きたいことは何なの?」
蛍は溜息と共に一度深呼吸をすると、深月の条件を渋々と呑んだ。
すると、深月は悪意の欠片もない清雅な微笑みを咲かせて礼すら述べた。
天使の皮を被った悪魔さながら狡猾かと思えば、善悪の区別すらない無垢な子どものような眼差しと微笑みを見せてくる。
未だに掴み所のない言動といい、昔から変わっていないはずが、蛍自身が大人になって初めて気付かされる胸の違和感とざわめきに、調子を狂わされるばかりだ。
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