『雪影を掴むがごとく』②
十二月二十一日・午前十一時三十五分頃。
青天の曇間から降る陽光に艶めく暗緑色の欧米風列車。
"旧時代の遺産"と称される特別列車は、ルーナシティの最北地「フロストムーン区」を目指して駆け行く。
一本の細長い線路を囲うのは、秋へ別れを告げる季節の景色。
冬気を迎えた青空の下、健気に生い茂る彩りの畑とくすんだ雑木林のコントラスト。
「秋は終わり、冬が訪れる」
都会の喧騒から離れたもの寂しくも豊かな自然に、一人の女乗客は感慨深く呟いた。
窓越しに眺める秋終わりの景色は、"彼女"の心を穏やかに慰めた。
艶やかな焦がし栗色に波打つ長髪。
微睡に霞む双眸は、列車の揺れと景色に合わせて艶めく。
郷愁に満ちた表情で窓縁に手を当てる彼女へ、隣の男性は距離を詰める。
黒曜石色の髪を肩口辺りで毛先を切り揃えた男性は、彼女の白い手へ自分の手をそっと重ねた。
「……何?」
「何となく。気分はどうだい?」
後ろから彼女を包み込むように手を重ねてきた男性の温もりを背中に感じる。
強気な眼差しで問う彼女へ、男性は黒曜石色みたいに端麗な瞳を優しげに細めた。
「平気よ」
「あんなに青い顔をされたら、誰だって心配になるさ」
彼女の桜色の端麗な唇が奏でた声は淡々と素っ気ない。
それでも男性の柔らかな声色と微笑みには、彼女への"変わらぬ愛情"を香らせた。
「本当にこれで大丈夫なのかしら」
「何も心配いらないさ。いざという時は僕がホタル……」
「ちょっと」
二人は側から見れば、田舎帰省か市外旅行へ向かう男女だ。
しかしこの二人こそ、今巷でルーナシティ世間を騒がせている「指名手配犯」の深月と蛍本人だ。
蛍と深月本人とはまったく似つかない髪型から髪色と瞳、顔立ちまでもカツラや化粧、コンタクトで別人へ変装している。
周囲の誰も彼らと面識のある者ですらパッと見では気付かないはずだ。
「今の君は誰のことを考えているんだい」
「別に何も」
「心配なんだろう……? 彼のことは」
「そろそろ、黙っていて」
蛍の心を見透かすように囁く深月へ辛辣に反論するが、内心は図星だった。
光のことは心配しているが、それだけではない。
ルーナ警察署本部に残る仲間の心境や負傷についても、蛍は気にしている。
たとえ、警察署には蛍の潔白を心から信じてくれる仲間も、警察官としての役割も居場所も失ってしまっても。
光のように"裏切られた"と傷ついた者、望月達のように"許せない"と憤慨している者には、さらに悪いことをしてしまった。
けれど、きっと。
「…… これでよかったのよ――」
蛍がいなくなることで、あらゆる疑念は明白化し、全て丸く収まるのであれば。
"深月義兄さんと一緒に行く事"こそは、私に今できる最善の方法だ。
きっと、私にしかできないこと……否、私がやらないといけない使命を果たすべく。
二十一日の午前四時頃。
ルーナ警察署の資料保管庫にて、蛍は"或る記録"へ目を通した後に一度帰宅した。
前回、E・Cに風穴を開けられた扉は既に修理済みだ。
とはいえ家庭用防犯AI機械人形も故障中の今、知らぬ間に強盗に入られる危険はある。
やや埃の湿っぽい香りに包まれた久しぶりの我が家の中を巡っている最中、蛍が発見したのは――。
『ヴォルスンガ・サーガ』
蛍にとって深い思い入れの本は硝子卓の中央に置かれていた。
まさに"見つけて読んでほしい"、とばかりに。
さらに栞代わりに挟まれていた「謎のメモ」、用意した人物について蛍は真っ先に思い当たった。メモの指示内容に従い、必要最低限の荷物を準備した蛍は、自宅マンションを飛び出した。
冬の訪れを待ち焦がれるように冷えた夜闇と静寂の早朝に、人目を忍んで自転車を漕いだ。
そして、クレセントムーン区の市街の外れにある人気ない雑木林の奥で蛍を待ち伏せていた深月と再会した。
「ところで、旧型の自転車とバイクなんて、どこで見つけたの?」
深月の用意した変装道具一式と安全帽子を纏った蛍は、黒曜色の旧型電動自転車に乗せられた。
「ルーナシティのICT化計画の実施から、まだ数年しか経っていない。今なら旧時代車の愛好家から購入は可能さ。中央区から離れた田舎区域には、旧時代車専用の競争場や遊走場空間もある」
今となっては希少価値の高い旧時代車。
わざわざ愛好家から購入するほどの莫大な資金は、果たしてどこから調達したものか。
黒い資金源に興味はあるが、恐らく義兄はお得意の微笑みでお茶を濁すだろう。
「なるほど。先程披露してくれた見事な運転技術もそこで身に付けたのかしら?」
蛍は内心半ば呆れながらも、それ以上の追及を止めた。
警察の目を掻い潜るためとはいえ、凸凹や狭い急坂の狭く獣道での"激しい運転"に蛍は度肝を抜かれた。
ハーベストムーン区駅に到着すると、蛍は激しい車酔いですっかり顔面蒼白の前後不覚となっていた。
「急ぎで人目を避けるためとはいえ、多少手荒な運転をしたことは謝るよ」
「別にいいわ。もう、平気になったから」
地元警察の眼から外れた空き地の道から険しい山道を、旧式二輪自動車で下って約《《二時間》》。
二輪自動車を雑木林の端へ乗り捨てた二人は、麓にある市街地の最寄り駅へ来た。
ハーベストムーン区駅で『特別列車』乗り換え、そして今に至る。
ハーベストムーン区は、クレセントムーン区等の中央区域から離れた"田舎町"だ。
しかし、ルーナシティの最北地「フロストムーン区」――二人にとっての"終着点"を目指す特別列車が停車する希少な駅だ。
「……」
「……」
色褪せた真紅のビロードで縫われた二人掛けの乗客席が整列する車両。
蛍と深月、時折巡回に訪れる駅員を除けば、ほぼ無人の車内は静まり返っている。
冬気を孕んだ静寂のせいか、蛍の心は過去への郷愁に満たされていくようで。
深月へ直接問い詰めたい事柄は積もるほどある。
しかし、二人しか乗客のいない車両とはいえ、いつどこから誰が自分達の会話へ耳を澄ませているのか分からない状況で油断は禁物だ。
蛍はゆりかごに微睡むように揺らされながら、深月とは目を合わせずに沈黙を貫く。
変装しているとはいえ、いつ追手が現れるのか分からない。
心の片隅では気の休まらない蛍を他所に、隣の深月は薄ら笑いを浮かべている。
落ち着いた一般客を装う澄まし顔の蛍の内心を見透かしている、とばかりに。
「一体何のつもり、義兄さ……」
蛍の左手に重ねていた深月の手は、不意に指を絡めてきた。
手を繋いでくるとは予測していなかった蛍は軽く目を見開く。
そして、窓硝子に映る深月をキッと眼差しで咎める。
「しっ。今、義兄さんは無しだ」
一方、深月に至っては鋭い睨みに怯むどころか、むしろ悪戯心に満ちた微笑みすら見せる。
蛍の唇はそっと当てられた冷たい人差し指によって反射的に閉さされた。
困惑の表情を浮かべる蛍に対して、やはり深月は満足げに微笑むのみ。
そうしている間も、雪色の指は蛍の指を徐々に、より深く、強く、絡み繋いできた。
逃がさないよ――そう言わんばかりの白い温もりはそれでも優しい。
蛍のみを映す冬空色の瞳には、甘い炎の感情が揺蕩う。
今、深月義兄さんは、一体何を考えていて、何を求めているの?
透き通るようでまるで見えてこない義兄の心裡は読めない。
知りたくてたまらない蛍は、冬空の瞳の奥を自然と覗き込んでしまう。
「こうしていると、僕達の姿は傍からどう見られているのだろうね」
「手まで繋ぐ必要はないと思うのだけど」
「気にすることはない。今の周りには、僕達以外誰もいないのだから」
上機嫌すら窺える深月の台詞の意味合いを、蛍は何となく察した。しかし、自分達の現状を鑑みれば、その意味を言語化する事すら蛍には憚られた。
「でも、いつ誰が、どこで聞いて見ているのか、分からないわ」
追手や監視の危険を口実に、蛍は空いた手で深月の手をそっと引き剥がし、さりげなく距離を取ろうとする。
「それは、安心してもいい。この車両には、無音声防犯カメラしかない。だから、盗聴器による会話の聞き漏れもない」
蛍の警戒は杞憂だとばかりに、深月は悠然とした口調で説明する。
蛍の逃げる隙すら与えないためか否か、彼女の肩をさりげなく抱いている手が視界に入る。
しかし、それよりも深月から何気なく零れた台詞の方が気掛かりだった。
「どうして分かるの」
今日、蛍と同様に初めて乗車したはずの『特別列車』の防犯監視機能を深月は把握しているのか。
しかも、丁度自分達の偶然乗り込んだ車両の監視機器の有無と性能等について、的確に。
「前にも言ったよね。僕は恵まれている、と。君の知らない場所にも、色々と"便利なもの"は多く存在している」
「盗聴器探知機でも持っているとか」
「ご名答」
深月は謎めいた返答をすると、外套の胸ポケットの膨らみをトントンっと小突いた。
蛍は得心したようで、どこか釈然としない面持ちで頷くしかなかった。
「なら、列車に乗るために使用したこのIDカードは一体」
今度はフロストムーン区駅の改札を通った際の疑問と違和感を思い出した。
「丁度、僕達と背格好の似た"或る男女"から拝借しただけさ」
「深月義兄さん、まさか」
深月の言葉を深読みした蛍は動揺に固唾を飲んだ。
自分達と背格好の酷似した見知らぬ男女が、真紅の海に沈んだ――惨憺たる光景を想像した薄氷の瞳は怜悧な視線で深月を突き刺す。
「安心していい。蛍が今、想像したようなことはしていない」
深月は蛍の"最悪な想像"を容易に察したらしい。
場に不相応な屈託のない笑みと共に、蛍の疑惑を直ぐに否定した。
嘘とも真実とも捉え難い生和な眼差しと微笑みだ。
「ただ、余所で少しの間、休んでもらっているだけさ」
蛍は半信半疑の眼差しで、深月を咎めるように凝視する。
仮に先程の返答が偽りではないとしても、信用には足らない。
深月の言葉通りの意味、と蛍の理解した意味が必ずしも一致するわけではない。
正確には、例の男女からIDカードを"強奪"し、余所で休ませているのだろう。
深月に選ばれてしまった不憫な男女の現状と今後を思えば、蛍は一抹の不安を抱かずにはいられない。
「義兄さんのその言葉、信じていいのよね?」
実際、深月は蛍にとって大切な後輩の一人だった香坂刑事官の他、脱獄時に四人もの警察官を躊躇なく殺害している。
目的のためなら他者の命を奪い、その人生と想いを踏み躙ることすら厭わない。
一般的な社会正義や共感から生まれるはずの倫理観や良心の呵責が欠落した深月の精神構造は――まさに冷酷無比な"永久凍土"そのもの。しかし。
「蛍への想いに誓って」
蛍のみへひたむきに向けられる微笑みは、清廉無垢な冬の花のように咲いていた。
大切な宝を掬うように柔らかな声と瞳には打算も偽りもない。
どこまでも無垢で透明な色を帯びていた。
深月への反応に一瞬当惑した蛍は、歯切れ悪そうに頷くしかなかった。
「分かったわ」
麗温の春を嘲笑う永久凍土のような人間にも、果たして「愛」と呼べる感情は芽生えるものか。
極寒の雪原で凛と咲く、唯一輪の花のように。
冬空色に澄んだ瞳で伝えてくる、深月義兄さんにとっての"愛"とは一体何なのか。
私達二人へ干渉する全てを悉く廃してまで、決して離そうとしない。
そんな関係の行く末は、雪原に取り残された"孤独花"と同じになるというのに。
「あの夜……叔父さんと叔母さんも、本当に義兄さんのやった、ことなの?」
静かなる熱を甘く帯びた義兄の眼差しに堪らず、蛍は別の話題――最も知りたい疑問へ移した。
「そうだよ」
不意な問いかけに対して、深月の表情はやはり一切揺らぎがない。
ただ、静粛な沈黙で肯定するのみ。
朝食の献立を選ぶよりも、あまりに迷いない調子の深月に、蛍の方が息を呑んだ。
「一体、どうして……?」
『冬の殺人火事件』――深月は、斎賀の叔父と叔母を刺殺した後、火を放って家を燃やした。
駐車場から車を盗むと、後に遺体となる会社員男性を攫って逃亡した。
凄惨な事件の経緯と真相、そして真犯人・深月の動機について。
「満月図書館でも伝えた通りさ。僕達にとって、叔父と叔母は邪魔な存在だと判断したんだ」
普段の深月らしからぬ不穏な言葉に、蛍の胸には不安ばかりが曇る。
それでも長年の謎――真実を知りたい欲求を抑えきれない蛍は、深月への追及を慎重に続ける。
「あの二人は……僕から蛍を奪おうとしたのだから」
「どういう意味?」
蛍を奪おうとしたとは、どういう事なのか。
何故、深月は父方の弟夫婦でもある叔父と叔母をここまで忌むのか。
叔父夫婦といえば、普段から深い関わりと付き合いがあったわけではない。
それでも、蛍と深月の両親亡き後も二人を案じて時折訪ねてきてくれたし、冠婚葬祭にも歓迎した。
法律上でも後見人となってくれた親切な叔父夫婦、とただ居合わせたせいで事件に巻き込まれた男性社員は不憫だ。
何の罪も非もなかったはずの人達の惨殺・放火・窃盗まで犯した深月の真意を問い詰める。
一体何が、深月をあのような凶行へと導き、今に至る"狂気"を育んだのか。
満月図書館での対峙において、深月は自身の冷酷無慈悲な心の在り様、幾多の凶行も、全て生来のものだ、と告げた。
とはいえ、他者への共感性や良心の呵責が生来欠落した人間も、何の理由や動機もなく他者を突発的に殺すとは思えない。
ましてや、叔父夫婦を殺害する当事件が起きるまでの間、深月は犯罪や非行とは無縁の品行方正・清廉潔白な好青年であった事実。
周囲からの好感も評判も高かった輝かしい経歴も鑑みれば、尚の事だ。
「叔父と叔母の件に関しては、蛍がそれ以上知りたいことは、もう何も出ないと思うよ。今となっては、僕にとっても既にどうでもいい過去なのだから」
「どうでもいいって……私にとっては大切な――」
「僕と蛍を引き離そうとする全ての障害は排除していくだけさ。今までも……これからも――」
深月は曖昧な微笑みと謎めいた言葉で、やんわりとはぐらかした。
知ることができたようで、まるで未だ分からない殺害動機だけではない。
柔らかな微笑みを絶やさない深月の胸に秘めたもっと別の、"深淵"に存在する「本当の答え」を蛍は求める。
蛍の悩ましげな眼差しを知ってか知らずなのか、深月はただ沈黙に微笑む。
罪悪感の微塵なく、虚無に澄み渡る深月の眼差しは、蛍を切ない痛みへ掻き立てる。
胸の痛みと焦燥を誤魔化すために、深月の台詞の脳裏で反芻する最中。まさか。
何の感慨も無さげに零れた"今までも"、という単語は不意に引っかかった。
「……義兄さん。まさか、お義父さんと、お義母さんまで……っ?」
嘘、それだけは信じたくはない。否、決してあってはならない。
確か、義両親の死因は"不慮の交通事故"だったはず。
蛍の胸を過った最悪で残酷な可能性に、心臓が凍りつきそうな悪寒に震えた。
おぞましい怪物を見る眼差しで深月を映した蛍の体は、無意識に距離を取ろうとしていた。
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