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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第2章『黒い蝶と雪の月』
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『氷り崩れる愛、絶望の調べ』③

 一方、望月からの容赦ない理不尽な糾弾をこれ以上見過ごせなくなった浜本は、彼女を厳しく諌めようとする。


 「確かに、我々警察がしっかりしていれば防げた被害もあった。だが、櫻井刑事官ばかりに責任を追及するのはお門違い……」

 「つまるところ、何もかも貴様が()()ってわけだな!!」


 浜本の真っ当な反論に、さすがの望月も納得せずとも言動を鎮めるはずだ。

 周囲も胸を撫で下ろした矢先に、無粋な横槍は舞い込んだ。

 望月に賛同する形で蛍を糾弾しに現れたもう一人の登場に、周囲の空気は再び凍り付いた。

 普段は飄然とした神楽ですら、「何でコイツまで来てんだよ」、と言いたげな眼差しで、忌々しげに小さく舌打ちした。

 浜本の声を唐突に遮った人物の予期せぬ言動に、彼も困惑しながら当人を尋ねる。


 「()()()()まで、何故ここに」

 「道理でおかしいと思ったんだ。おい、櫻井刑事官!」


 望月に続いて突然現れたのは、両目を包帯で厚く覆われた小川刑事官。

 付き添いの看護師の制止も厭わずに、小川は視線の先で立ち尽くしている蛍に向かって立腹した様子でまくしたてた。


 「斎賀とかいうトチ狂った犯罪者は、元からあんたが狙いだったんだろう!? 話は全て部下から聞かせてもらったぞ!」


 『E・C事件』の際、爆破に巻き込まれて負傷した小川も同様に、警察病院で療養中のはずだ。

 しかし、暫しの安静と休養を主治医に言いつけられていたはずの小川まで訪れるとは、またしても予想外だ。

 しかも望月といい、揃って蛍一人へ非難を浴びせるためだけに。

 ただでさえ面倒な状況の渦中へ、傲慢で場の空気をわきまえない小川まで乱入してきた。

 もはや、浜本班長の命令だけでこの場を治めるのは至難の技だ。

 憎たらしい相手を睨み怯ませたくてもできなくなった小川の両目の痛ましい包帯を、蛍も気の毒そうに凝視する。

 一方蛍の気配を感じ取れたらしい小川は、迷いない足取りで彼女のもとへズカズカと詰め寄った。


 「なるほどな。浜本は優秀な部下であるはずの貴様をあえて現場班から外したのも頷ける。深月・斎賀は身内の貴様への当てつけに、あんなおぞましい犯罪を平然とやってのけたのだな! つまり、貴様のような"疫病神"さえいなければ、我々警察も……」

 「小川刑事官! いい加減に――!」

 「浜本は黙っておれ! 若造がしゃしゃり出るな! 連続猟奇殺人事件に限らず、今回の騒動といい……そもそもこの女は、以前から独断行動も目立っていたらしい」


 浜本の制止も無視して小川は、蛍相手へ望月以上に容赦ない罵倒を浴びせる。

 浜本を含む他の同僚も小川を懸命に(いさ)め、蛍を擁護しようとする。


 「小川課長、そのくらいで」

 「しかも、満月図書館であの男を追い詰めておきながら、『凶悪犯罪対策部隊』だが 訳の分からん田舎連中に刑事部門の手柄まで奪われおって! そのうえ、あの時の爆破のせいで俺は()()()()()()()()!」


 しかし、小川の身勝手で不合理極まりない罵倒は増長(エスカレート)していく。

 小川と望月がほとばしらせた非難と憎悪の飛沫を、蛍は静かに受け止めるしかなかった。

 一方、蛍を咎める小川達の暴挙を戸惑いと共に傍観していた同僚ですら"疑念"に表情を曇らせていく。

 彼らは、蛍へ意味深な一瞥を送った後、隣同士の同僚と不安げに頷き合っていた。


 「全て貴様が"元凶"だ――!


 普段から威張り散らすばかりの厚顔無恥な小川へ心から賛同する者は、ほぼいないだろう。

 反面、"否定し難い事実"に気付き始めた仲間の()()()は変わっていった。

 確かに、凶悪犯・深月の異常性と危険性に身内の蛍が予め早く気付いていれば。

 そもそも、蛍の存在さえなければ、ルーナ警察署本部のある中枢区域は標的にされなかったであろう。

 深月とE・Cの招いた惨劇と被害から、ルーナシティと一般市民を守りきれなかった"責任の所在"は、蛍にあるのではないか。

 己へ集中し始めた不穏な眼差しと疑念を肌で感じ取れたらしい。

 蛍は薄氷の瞳で虚空を見据えながら、氷人形みたいに佇む。


 「――お願いします」


 異様な空気に満ちてゆく病室に、沈黙に凍る蛍の心中を浜本は察した。

 不毛な罵り合いの場へ発展する前に、浜本は目配せと共に指示を出した。

 困り果てた表情で狼狽えていた看護師は、素早く看護呼鈴(ナースコール)を押した。

 駆けつけた複数の看護師は、喚き散らす小川、くたびれた人形さながら俯いた望月の二人を病室から連れ出した。

 かくして、浜本の機転と看護師の援護によって一旦場は収拾がついた。

 それでも、沈黙に凍り閉ざした蛍の心も、彼女を取り巻く仲間の疑念を晴らすことは叶わなかった。

 人間の本心を音に換えた"言葉"といは、一度口に出してしまえば、もう二度と()()()()()()

 言葉を引き金に心の奥で芽吹いた疑念と不穏の芽も同様に。


 「お先に失礼いたします。浜本刑事官」


 先ほどの騒動は、明らかに小川と望月に非があり、理不尽極まりない。

 とはいえ、蛍には自分の存在そのものが仲間の不安を煽り、険悪な空気を生み出した自覚はある。

 これ以上自分が長居すれば、簡易会議の集中と心理的な妨げにもなる。

 そう判断した蛍は、浜本へ丁重に断ってから静かに速やかに退室しようとする。


 「……櫻井。お前は、何も気にするな」 

 「そうですよ、櫻井先輩っ」


 かつての後輩と理不尽な上司から一方的に詰られ、仲間には庇われるどころか疑念すら向けられた蛍の胸中はいかなるものか。

 今となっては、蛍を心配する数少ない人間である浜本は理知的な声に励ましの言葉を乗せた。

 神楽からも蛍を気遣う眼差しが真っ直ぐ注がれる。


 「お気遣いいただき、ありがとうございます、浜本刑事官。神楽刑事官。では、事務に戻りますので、これで失礼いたします――」


 浜本と神楽の気遣いは心からありがたく、とても心強い。

 それでも蛍は、自分を心配する浜本と神楽、困惑を抑えられない仲間の表情、そして――心在らずの虚ろな表情を崩さない光を、これ以上直視していられなかった。

 冷静沈着な佇まい、薄氷の瞳に隠匿した苦悩と不安が零れ出す前に、蛍は速やかに退室した。

 独りで歩む蛍の背中を見送る者達の内、彼女を追う人間は誰もいなかった。


 *


 こうなったのも、()()()()()()――。


 深月義兄さんの凶行も狂気も、全ては()()()()()()()がために――。


 刑事部事務所に戻った蛍は、残っていた報告書等の後始末を迅速に済ませた。

 区切りの良い所で休憩時間に入ると、蛍は人気の失せた夜の屋上で一人佇む。

 屋上へ吹きつける夜風は肌を突き刺すように冷たく、宙を舞う吐息も白い。

 治安の揺らいだルーナシティ、と心許ない避難生活を送る一般市民の現状も厭わず、冬の大気は街中を氷り尽くしかねない勢いだ。

 蛍が署内共有の仮眠室や休憩室ではなく、あえて寒空の屋上を選んだ理由。


 今だけは、どうしても一人になりたかった。


 ただでさえ激務や惨事のストレスでピリピリと張り詰めた事務所内だ。

 "諸悪の根源"に近しい存在()がいるだけでも、他の同僚を取り巻く空気は重く凍り付くのだ。

 なるだけだ。

 小川と望月と同様に、他の同僚にも蛍を密かに疑い疎んじる者達が多くを占めるようになった。

 周囲の不安げに憂う表情や、視線を露骨に反らす態度から伝わる"疑念と忌避"がその証だ。

 浜本の病室における"櫻井騒動"は、小川の部下や望月に同情する者達が署内へ流布したのかもしれない。


 とはいえ、この街もここに暮らす多くの人々も皆、深く傷つけられたのは確然たる事実だ―― ()のせいで。


 深月義兄さんの野望ら私との因縁――結果的には、私を信頼してくれた仲間と部下を巻き込んでしまった。

 己の正義も誇りも踏み躙られながら、望月は大切な相棒を目前で"惨殺"された。

 ドライアイス爆弾の破片が両目に突き刺さり、ほぼ"失明"を余儀なくされた小川。

 立て篭り事件の人質となって拷問を受けた仲間を救うために、決死の覚悟でフェンリルと闘った浜本班長。

 彼は重度の"凍傷(火傷)"と激痛に苛まれ、斬りつけられた右肩は二十針も縫った。

 E・Cからの二通の手紙が暗示していた真なる拠点で、深月が蛍を待ち伏せしていた国立満月図書館について。

 蛍が薄々と抱いていた違和感の正体であり、深月の"真なる狙い"を最初から早く特定できていれば。

 警察と一般市民の被害をより最小限に抑えられたはず。

 今更ながら遅すぎる後悔と罪悪感に、蛍は心臓を締め潰されるように胸が痛んだ。


 『俺はお前が本気で好きだった』


 『お前が本当に好きな男はあいつなんだろう』


 光は――誰よりも勇敢で心優しかった。

 いつも、私のことを大切に愛して守ってきてくれた。

 凍った心を解かしてくれた大切な"太陽"すら奪われた。

 最初から、私なんかと()()()()()()()()()()、彼を深く傷つけることもなかったのに。

 大切な親友の黒沢刑事官も、あんな事にはならなかったのに。


 何よりも、私は……光を裏切ってしまった。


 あの時、何故私は躊躇したのか。深月義兄さんの言う通り、弁解も言葉も紡ぐ余地も与える必要はなかったはず。

 冷たい夜の空気を裂くような格闘技を、義兄さんの頭へ迷いなく直撃させれば。

 冷たくも柔らかな白い両手に、無理矢理にでも手錠をかけて押さえつけることだって、できなくはなかった。

 けれど、結果的に()()()()()()()()()()


 ――蛍。 君を、他の誰にも渡したくなかった。


 深月義兄さんを傷つけることも。

 自分を抱き締めて離さないぬくもりを振り解くことも。

 震える耳朶へ注ぎこまれた、あの愛しくて狂おしい"追憶"から耳を塞ぐことも。

 "失われた数年"を埋めるように奏でられた、残酷なほど甘く幸福な"心音の雨"を止ませることも。


 ――幸せ。


 あの夜、深月義兄さんの言葉によって、私の瞳から芽吹き落ちた"涙"は――ずっと氷で蓋をしてきた深月義兄さんへの想いは――光の愛と優しさを踏み(にじ)った。

 絶望に打ちひしがれた光の顔にクシャリッと浮かんだ、深く傷ついた哀しげな表情は、今も忘れられない。なのに。

 同時に、あの瞬間のぬくもりを――叫びたくなるような狂おしさ(おしさ)は、今でも鮮明に思い出せる。

 あの狂おしい熱を刻まれた身体の記憶を辿る。

 途端、蛍の心臓は"幸福な絶望"に満たされていく。

 かつての想いが再燃した心臓は甘い熱を灯らせて。

 蛍の心を守ってきた氷壁も、深月以外の痕跡(ぬくもり)も瞬く間に溶かし消す。


 「っ――……」


 追憶の恋慕へ溶けた氷の滴は、涙となって頬を伝い落ちる。

 冬を待ち焦がれる夜風に当てられても尚、決して凍結しない。

 むしろ、消えない熱を帯びた涙が"全ての答え"を克明に訴える。


 「――深月、義兄さん……」


 たまらず、冷えた唇から零れた名前に、蛍の心臓は甘くも冷たい熱で締め付けられた。


 確かに私は、深月兄義さんのことがずっと、好きだった――。


 幼き頃の私にとって、義兄さんは私の"世界"の中心だった。

 私にとって、無垢な雪のように淡く儚い、何よりも大切な"初恋"だった。

 しかし、熱く淡い恋心を忘却へ帰すことは、決して叶わなかった。数年前、幸福で残酷な"あの夜"に初めて知って、初めて喪ってしまった事ど、蛍の心臓には狂おしい"恋慕の炎種"が芽吹いたのだ。

 氷で閉ざした心の深淵で眠り咲く瞬間わ待っていたに過ぎなかった"想い"を、蛍自身は自覚しないまま。

 数年前に喪った強く儚い恋心が覚醒した今――蛍の周りには、もう誰もいない。

 蛍を愛しんでくれた誠実な恋人である光も。

 深月との間には成立しない"純愛"――光との真摯な恋仲を応援してくれた彼の親友も。

 氷のごとき冷徹さで敬遠されがちな自分を信頼し、付き添ってくれた同僚と後輩も。

 深月の"標的"であり、凶悪犯の"身内"でもある蛍を露骨に忌避し始めた警察署内。

 浜本や神楽達の気遣いへこれ以上甘える事は、いずれ彼らにも迷惑が被る。


 「()()、独りになっちゃった」


 孤独には慣れていたはずなのに。

 何故、言いようのない不安と虚しさは"涙"となって、底から無性に湧き溢れるのか。

 爪先から体の芯の震えが止まらないのは、きっと寒さだけのせいではない。

 蛍の世界に深月唯一人しかいなかったあの頃――彼を喪い孤独の氷海へ沈んでいた"弱い()"へ戻ったのだ。

 だから、無性に怖くて、不安でたまらないのだ。


 光……光、こ、う――っ。


 "真夏の太陽"らしいぬくもりで、常に蛍を抱擁してくれた光が――あの不器用な優しさ、真っ直ぐな愛情が恋しい。

 けれど、もう自分には光の名前を声に呼んで(すが)る権利すらない。

 光との絆は、かつてとは異なる温もりと共に蛍が取り戻せたもの。

 光と共に育んできた末、結局自らの手で壊してしまった大切なもの。

 まさに、取り返しのつかない裏切りと喪失だ。


 義兄さん、義兄さん、深月、義兄さん――()()……っ!!


 孤独と罪悪感に凍える心は、内奥で激しく呼び求めた。

 罪深く愛おしい(狂おしい)存在を。

 心が――魂が――()を求め喘ぎ、打ち震えながら悲鳴をあげた。


 「お願い……けて……()()()()――……!」


 数年前ですら声に上げられなかった蛍自身の"叫び"。

 果たして、救いを希う言葉は()()届けたかったのか。

 きっと蛍自身にも定かではない。出口なき迷宮へ囚われた感情に独り圧し潰されそうになる。

 静かな悲鳴が凍った夜空に響く中。


 「――蛍」


 懐かしく甘い声が脳内を痺れさせる。

 まるで、祈りは届けられたことを錯覚させるように。


 もう一度、蛍と一緒に生きるために――。


 ああ、なんだ。

 狂気へ身を焦がす深月の愛と執着を前に、蛍の祈りも求めも周りとの遺恨も、全ては無意味だ。

 再び逃亡した深月は、必ずまた何か仕掛けてくる。


 蛍がこの世に生きる続ける限り。


 蛍唯一人を手にするために。


 たとえ、あらゆる全てを傷つけて、犠牲にしてでも。

 世界すら敵に回してでも。


 ならば、今の蛍の始めることは深月の痕跡を辿ることではないか。


 蛍が心から深月を求めているのか否かは、もはや関係ない。

 蛍に残留する氷炎の想いと拮抗する使()()()は、蛍を前へ突き動かす。

 屋上から降りてきた蛍は、周囲の視線も瞳に入らない気迫で、署内の()()()()へ向かった。

 蛍は或る場所に保管された"記録と報告書"を密かに読み上げる。最中、深淵を彷徨っていた蛍の瞳は一瞬、驚愕に凍りついた。

 疲労を滲ませながらも、悲壮な美しさも漂う蛍の顔に波紋するのは"動揺"だった。

 蛍に対して協力的な職員ですら戸惑いの表情を浮かべた。

 一方、蛍は職員にお礼を簡潔に述べると共に「警察署の一時宿泊所を利用してきます」、と伝えて事務所を出た。




 これが、ルーナ警察署内で蛍を見かけた()()となった――。



 *


 十二月二十一日、午前十時頃。


 「大変だ! 藤堂刑事官!」


 理性的な浜本らしからず、珍しく焦った様子で光の病室へ駆け付けた。

 焦りと動揺で顔を上気させ、荒い呼吸を繰り返す様は、何よりの証拠。

 浜本に付き添う神楽と担当看護師も、鬼気迫る表情で"緊急事態"を訴えてくる。

 浜本達の神妙な面持ちと強い動揺から、ただ事ではないと窺えた。


 「……何かあったんですか、浜本刑事官……」


 一方光は、浅き眠りによる倦怠感とは異なる虚ろな眼差しで茫然と返事をする。

 あまりに覇気のない表情に希薄な反応の光に、浜本は堪えかねたのか叱咤した。


 「っ……貴様は、いつまでそうやって呆けているんだ! よく聞け!!」


 浜本の怒り様と緊迫した声色から、光自身にも関係する報告であるのも察した。

 しかし、浜本の口から紡がれた次の台詞を耳にした瞬間、虚ろだった光の瞳に光が宿った。


 「昨夜から姿が見えない……どうやら、()()したようだ――」


 かつては最も愛しくて、けれど今となっては憎らしさが上回っていたはずの存在(名前)

 虚しさと憤り、深い失望にて揺蕩(たゆた)う光の琴線を激しく震わせた。


 「蛍・櫻井刑事官は、消えたんだ――」


 "偽りの正義"から芽吹いた茨の炎に囚われていた「ブリュンヒルド」。


 しかし今こそ、罪深き天地を()け馳せた――"罪濡れ"の「シグルス」と共に。


 「――蛍」


 二つの()は、愛憎の氷炎へ身も心も捧げる。

 双方を引き裂いた、呪われし"悲恋の運命"へ終止符(ピリオド)を打つために――。





 ***第二部・完***


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