『氷り崩れる愛、絶望の調べ』②
「そんなのは単なる言い訳で、本当はお前だって会いたいんじゃないのか?」
光の予想外の台詞に、蛍は動揺に息を呑んだ。
ただ、光の問いかけは図星だからでは決してない。
「そんなことないわ。光ってば、何を言って……」
「それとも……俺に遠慮しているわけか」
「どういう、意味」
いくら会いたいと願っても叶わない状況であろうがなかろうが、蛍自身は深月との再会を希望しない。
たとえ、政府機関の迎えが来る前に深月の意識が回復したとしても。
内村先生の図らいか権限を使って、正式な"お別れのあいさつ"を済ませる絵空事は叶うとしても。
むしろ、本人ともう一度顔を合わせることを蛍は恐れてすらいるのだから。
ただ、感情を抑えたような光の声色と言葉の真意を一瞬掴みきれなかった。
恐る恐る問い返した蛍に対して、光は包帯越しに睨んできた。
まさに深い"失望"と僅かな"怒り"の混ざる炎が揺らめいていた。
全てへの諦念を集めたような暗い眼差しと目が合った。
瞬間、蛍はこのままやり過ごせたらいいと思えた"最悪の予感"が現実になろうとしているのに気付いた。
二人を結び続けてくれた"あらゆるもの"が全て脆く両断されてしまったあの夜から、既に遅かったのだ。
「蛍。もう、ここには、来なくていい」
「え……?」
光が告げた驚きの台詞は、蛍にはある程度心の隅で察していた。
それでも、胸から溢れて止まらない動揺に、蛍は双眸を愕然と揺らす。
まさに蛍を突き放す台詞が、単なる光らしいぶっきらぼうさによるものではないのは明白だ。
今の光は心の底から蛍を拒絶している。
沈鬱な面持ちの光の真意を問うように、蛍が黙って彼を凝視する。
「今までの事は、全て俺の勘違いだったわけだ。無理をさせて悪かったな」
「光……? 言っていることが、よく、分からないよ」
再び紡がれた言葉の意味も理由も、蛍はまるで理解できなかった。
ただ、傷ついた幼子が感情を堪えているような、ひどく哀しげな眼差しと声は蛍の心臓を締め付けた。
「俺はお前のことを本当に好きだった。けれど、お前は違った」
「っ!? 何を言って――」
「お前が本当に好きな男は、俺じゃなかった」
「っ――違う! どうして、そんなことを言うの!? 光っ」
一体光が何を言っているのか、一瞬呑み込めなかった蛍は悲痛な声をあげた。
しかし、今度は蛍の問いかけに対して明確に答えようとしてくれない。
代わりに、嘘と失望で塗り固めた沈黙と眼差しで、蛍の心へ亀裂を入れていく。
「私は本当にあなたのことを好きになった! だから、私はあなたと一緒にいたいと思った! 今までも、これからだって――っ」
光に抱いてきた恋慕と信頼を全否定された蛍は、真っ向から反論する。
今まさに、蛍の手から零れ落ちようしている大切な"太陽"の存在とぬくもりへ必死に手を伸ばすように。
これ以上、奪われてなるものか、失ってなるものか、と叫び抗う。
「仕事だって、あなたと一緒だからこそ頑張ってこれた!」
「蛍」
「それとも私のこと、嫌いになった……? 私が弱いから……私がちゃんと義兄さんから、あなたを守れなかったから――」
「俺に触るな――」
光を失う恐怖と哀しみを露わにする蛍の手を、光は払い除けた。
まさか払い除けられるとは予測しなかった蛍は後退し、危うく均衡を崩しかけた。
疑う余地がないはずの言葉すら、宙へ虚しく跳ね退けられた。
完全なる拒絶の意――急激な落陽さながら、心の遠ざかった今の光には、どんな言葉も何一つ届かない。
「コ、ウ……?」
何故、と問う眼差しの蛍は愕然と立ち尽くす。
蛍の瞳と同じくらい、ひどく傷ついたような眼差しは彼女を強く咎めている。
しかし、この後に及んでも尚、蛍は自覚すらできていなかった。
光の拒絶の理由も、そこへ繋がっている蛍自身の"心理的逃避"に。
「お前は、あの男が……深月・斎賀のことが、今も好きなんだろう?」
「違っ――私は」
「あの時、お前が零した涙が、何よりの証拠だろうが!」
「っ……それは」
次の光の台詞は、既に氷壁を失った蛍の胸を容赦なく突き刺した。
蛍自身の光への想いを疑われた。
挙句、蛍の心では終わった過去、として葬ったはずの想いを突き付けられた衝撃から言葉に詰まった。
「頼む、蛍。出て行ってくれ……これ以上、お前に余計なことを言う前に……」
「光」
「これ以上、俺を惨めにさせないでくれ――」
悲しみと怒りの織り交ざる眼差しと声色で蛍を断罪する台詞。
これ以上ない拒絶に、さすがの蛍もついに返す言葉を失った。
蛍は、光のことを本当に好きになった。
当時の蛍は、癒え難い悲嘆と喪失を忘れようと警察の業務へ没頭した。
そんな蛍の心の氷を解かしたのは、真夏の太陽のように熱く眩い存在だった。
光は蛍に笑顔を、大好きな人と一緒にいるぬくもりと幸福を思い出せてくれた。
この人なら、決して自分を裏切らない――。
光への揺るぎない愛情と信頼も、彼との多忙ながらも穏やかな日々も、蛍にとって決して嘘偽りではなかった。
しかし、光との恋慕と深月への愛情――本来は両立し得ない感情の茨に縛られ、蛍の心は身動きが取れなくなった。
過去の箱に閉ざしたはずの――炎へ融ける雪のように激しく儚い恋心。
義兄に抱き締められた瞬間、鮮明に蘇ったのは、互いが一つに融け合った、あの残酷なまでに甘く幸福な記憶。
深月の蒔いた毒の種は、光との大切な日々と想いを疑念と失望で灼き蝕み、灰燼へ帰そうとする。
深月という存在は、氷炎さながら激しく、毒蜜のように甘くも苦しい想いと記憶だけで蛍を支配していた。
後は、深月の望んだ思惑通りだ。
もはや、二人は"離別"という最悪な結末へと導かれるしかない。
「大変です! 櫻井先輩! ……いなくなったんですっ」
光に拒絶された当日の深夜、蛍は身も心も灼かれるようは絶望と罪悪感をさらに思い知る羽目となった。
「どういうことですか。神楽刑事官」
深月は、蛍にとって大切な全てを奪おうとしているのだ、と――。
「あの男が……深月・斎賀が、いなくなったんです――!」
「っ――嘘……」
「しかも、フェンリルは先ほど死亡したという報告もあった原因不明の"急性心不全"だが、正式な捜査は始まった」
「何だと!?」
珍しく慌てた様子の神楽刑事官、と冷静な口調ながら動揺を抑え込んでいるのが明白な浜本刑事官。
両者からの驚きの報告に、病室は沈痛な空気に満たされる。
二人の台詞の意味を一瞬咀嚼しきれなかった蛍も、隣の光も動揺に凍り付いた。
神楽の警察端末の画面越しに映った浜本も、苦虫を嚙み潰したような表情で口を噤む。
永き刹那の間、蛍と光の脳裏へ鮮明に蘇るのは同じ光景。
忌々しくも甘やかな"あの男"の囁き声、と清雅な顔立ち。
今頃、自分達すら届かぬ何処かで、深月は悠然とほくそ笑んだ気がした。
*
十二月二十日、神楽刑事官を通じて驚愕の報告を知った蛍は、逸る思いで浜本班長の病室を訪れた。
消毒液の匂う寝台で上肢を起こしている浜本は、眼鏡越しに沈痛な眼差しと疲労感を見せた。
他の協働捜査班の同僚複数人も、浜本を囲うように集まっていた。
簡易緊急会議の始まりと同時に、浜本が改めて告げた"緊急事態"。
蛍と同僚の間には強い動揺が波紋した。
深月・斎賀が"逃亡"した――。
絶凍に閉じた冬闇の淵へ突き落とされたような衝撃は蛍の心にも走った。
深月義兄の策謀によって織り成される恐怖と絶望に"終わり"はないというのか。
傷ついた心の持ち主達を思い通りに使役し、ルーナシティの中枢を恐怖と混沌へ陥れた。
そんな危険犯罪者と認識された深月が逃走したとなれば、ルーナシティの平和はどうなるのか。
「拘置所で一体何が起こったのですか、浜本刑事官」
協働捜査班一同は動揺や戦慄、不安を隠せない中、現状と今後の動きについて確認を始める。
「十九日の午後十二時五分頃。交代に入る予定の二名の看守が、深月・斎賀の独房へ向かった。しかし、その時は既にもぬけの殻だったそうだ」
「一体どうやって? あの厳重な監視警備に看守まで付いていたのに?」
他の班員の尤もな質問に、浜本と補助の神楽は理路整然と答える。
「独房内には、斎賀・深月の医療確認に訪れた担当の松堂警察医一名、扉の外にいた看守の警察官三名、計四名の遺体が発見された」
「四名共に、刃物で頚動脈を切り裂かれていました。恐らく失血性ショック死でしょう。四名の死亡推定時刻から推測できるのは……」
「深月・斎賀の"逃亡時間帯"は、日付が変わる前の……十九日の午後十一時四十三分頃だ」
凶悪犯罪対策班による新兵器・強力な麻酔弾の薬効、と拘束具を用いて凶悪犯・深月を無力化した。
しかし、深月は透明硝子の厚い壁の境界線を、いかに容易く踏み越えたのか。
さらに厳重な監視警備をものともせずに、屈強な警察官を惨くも殺害。
現場には痕跡や行き先の手がかりすら残さずに。
完璧だったはずの対策はことごとく打ち破られた事態を、一体誰が予測できたのか。
「本当に勘弁してほしいです。深月・斎賀を一刻も早く捕らえなければ、またどこかで、あんな事件が起きるのか!?」
深月の残忍性と狡猾さは、まさに壁や施錠をすり抜け、赤子の手をひねる軽やかさで、人間を翻弄する"悪魔"そのものだ、と。
「でも、いくらなんでも妙です。如何にして、被疑者は寝台の拘束具から扉の警備を解除したのでしょうか」
戦慄の波濤が皆の背中から心臓へ冷たく押し寄せる中、簡易会議は疑念と思考で過熱していく。
「奴に脱走の隙を与えた原因については今、鑑識隊が現場調査を続けている最中だ」
「脱走前の"午後六時頃"に医療確認の診察をした"もう一人の担当警察医・三島"も聴取を受けています。電子医療記録と拘束具の異常や、本人に不審点は本当になかったのか」
「三島警察医は責任追及を恐れているからか、狼狽するばかりでまともな返答をしていないらしいが」
浜本と神楽の報告内容にますます周囲は首を傾げ、まるで答えの見えない問題に頭を悩ませる。
「そうなると、奴は本当にどこへ……」
「逃げたんですよ、あの男は。あの時みたいに――」
簡易会議を開いていた浜本の病室へ、"懐かしい人物"の声は冷然と響き渡った。
知らぬ間に入室していた"彼女"を認識した瞬間、冷静だった蛍の表情にも波紋が広がる。
蛍すら呼吸を忘れて凝視するほどの相手は――伸び放題の箒さながらの前髪を揺らし、落ち窪んだ暗い瞳をギョロッと吊り上げる。
かつてね面影はすっかり喪失した彼女の変貌ぶりに、病室の皆は一瞬誰なのかを捉えかねて絶句する。
最中、自分だけを凝視する虚ろな瞳に燃える"怨嗟"へ応えるように、蛍は彼女を重々しく呼んだ。
「っ――望月刑事官。どうして」
蛍達が久しぶりに対面した人物は、車椅子を引きずって入室してきた元・後輩の望月。
相棒だった香坂刑事官を、深月によって目の前で殺害された。
以降、強い衝撃を受けた望月は|PTSD《心的外傷後ストレス障害》を発症していた。
深月の残虐行為と相棒の残死、己の無力さに心を壊されたせいだ。
刑事官を辞めた後の望月は、治療と休養のためにそのままルーナ警察病院に入院していた。
「何故、一般病棟から出てきたのか、訊きたいですか?」
蛍を含む同僚誰もが望月を密かに案じていた。
しかし、望月は周囲への強い拒絶と錯乱状態で「面会謝絶」となっていた。
精神状態も悪化へ辿った事から、精神科の閉鎖病棟――しかも、「保護室」へ移されていたはずだ。
「症状は少しだけ安定したので、"行動制限"の解除と"外出許可"が下りただけです」
本人の言う通り、症状が安定したという主治医の判断と許可が下りたらしい。
だから、こうして一般病棟に入院中の浜本を訪ねることはできたのだろう。
とはいえ、久しぶりに再会した望月は、以前とはまったく別人になっていた。
愛らしく芯の強い女性らしい姿勢。
艶やかだった栗色の髪は、墨を被ったボロ箒さながら傷み、顔や首の前で無造作に垂れている。
健康的で若々しかった肌は青白く、痩せ細った手足と顔は幽鬼のようだ。
何より蛍達へ内心衝撃を与えたのは、車椅子の肘掛けへ乗った望月の手首の分厚い"包帯"だ。
今の望月の姿こそは、絶望へ堕ちた彼女の心の危うさ、保護室行きの理由を物語っている。
再会した後輩の痛ましく危うい変貌ぶりに、蛍達はただ胸を痛めた。
「そんなことより、どうしてですか? 櫻井先輩」
一方、明らかに相手を咎めている暗い眼差しと声色に、蛍は心臓を突き刺された気がした。
否、厳密には蛍の中に存在する"忌むべき対象"へ燃やす激しい憎悪を、蛍自身も皮膚で感じ取れた。
それでも、正直蛍には理解しかねていた。
本来は特定対象に限られているはずの憎悪の暗炎が、火の粉のように自分にも飛んできている理由を。
「分かっていない表情ですね。どうしてですか」
髄から湧き燃える憎悪を糧に、望月はやつれた両手で車椅子を押した。
動揺と困惑の表情を浮かべる蛍へ詰め寄ると、下から睨み上げながら急にまくしたててきた。
「どうして、どうして! どうしてっ。どうして!! あの時! あの男をちゃんと殺さなかったんですか!?」
「突然何を言い出すんだ! 望月! 仮にも警察官のお前がそんな発言を……」
「浜本班長は口出ししないでください。とぼけても無駄ですよ? 櫻井先輩! 私、もう知ってるんですよ。あの男は……香坂を殺した殺人鬼は、よりによって先輩の義兄だなんて」
「……! そう、知ってしまったのね、望月刑事官」
後輩からの突然の怒りと詰問を叫ぶ理由をようやく悟った蛍は、腑に落ちた眼差しで彼女を見つめる。
「へえ、否定しないんだ……だから殺せなかったんですか? あの男は先輩の義兄で、"家族の情"があるから見逃したんですかぁ?」
「違うわ。私は、ただ……義兄さんを逮捕して、ちゃんと罪を償ってもらおうと……」
「逮捕!? 無駄無駄! あの男はどこへだって逃げ切る! 現に逃げられたじゃないですかぁ! まったく警察が情けな過ぎて笑っちゃうわ!」
望月の理不尽な憶測と非難に対して、蛍は毅然とした態度で否定する。
しかし望月から見れば、蛍のあまりに落ち着き払った態度から否定と弁解の言葉すら、白々しくて神経を逆撫でするものらしい。
「いい加減口を慎め! 望月刑事官! それ以上の侮辱は……」
「あの男は、また新たな悲劇をまき散らし、殺戮を冒す!それは、あの男がこの世にいる限り、決して終わらないんですよ! 現にこうして、また新たな死人を四人も出しちゃったじゃないですか!? 」
蛍への一方的な罵倒と侮蔑、警察官だった者としてあるまじき考え方に見かねた浜本は介入する。
しかし、浜本の叱咤激励すら、今の望月の心を虚しくすり抜けるのみだった。
しかも事実、再び被疑者を逃してしまい、よって死者を出してしまった警察側の不手際は否定できない。
浜本ですら一瞬言葉に詰まった隙に、望月は"一つの現実を容赦なく突き付ける。
「あの男を殺す――もはや、それしかルーナシティも市民も救う確実な方法はないんですよ!!」
狡猾で残忍な深月・斎賀の恐ろしさを、望月は既に痛感している。
そんな望月から見れば、犯罪者・深月へ改心と贖いを期待している蛍のやり方はあまい。
深月の脱獄も、"完璧な監視警備"故に警察達が招いた油断と認識の甘さの結果ともいえる。
とはいえ、国の組織である警察には、崇高なる正義感と倫理が求められる。
たとえ罪人であっても、相手の命を奪うことを決して正当化できない。
十年前の「死刑制度廃止」以来、徹底的な人道主義国家として国際社会と足並みを揃え始めた日昇国の方針でもある。
望月も元々は警察官として、いかなる理由があっても"殺しは許されない"という人道主義の理念を胸に掲げていたはずだ。
「ちょっと落ち着きましょうよ、望月さん。さすがに"殺し"はマズイですよ。たとえ、市民と社会を守るためでも、人殺しと同じ手段を選べば、結局"殺人犯"です」
蛍と警察の手段と認識の甘さを容赦なく糾弾する望月へ、今度は歳近い同僚の神楽はやんわりと諭す。
「だったら。何故、香坂は殺されなければならなかったんですか」
「それは、その……でも」
すっかり望月は、大切な相棒を奪われ、己の正義を踏み躙られた悲嘆から灯った憎悪に囚われている。
もはや、かつての警察としての正義と倫理も、仲間の励ましすら何一つ胸へ響かないのだろう。
行き場を失くした憤怒と憎悪を目の前の者へ浴びせることでしか、自分の心を保つ術を持たない望月は、再び蛍を糾弾する。
「そもそも、あの日の時点で、蛍先輩があの男をせめて逮捕していれば……否、いっそ殺していれば、E・Cも結成されなかった。現在みたいに、こんなにも多くの市民や仲間が傷つくことも、死ぬこともなかったんですよ!?」
「おい、望月。それ以上は」
「櫻井先輩! すべてはあなたの――」
望月の台詞が示唆する的確な"事実"に、蛍は深い悔恨と罪悪感に呑まれて言葉を失くした。
一見、不合理で理不尽な望月罵倒は、まさに蛍自身も心の隅で考えていた事を代弁したから。
"無自覚の忘却"によって、深月への思慕と苦悩、過去の全てから逃げてきた己へ降りたに"罰"なのだろう。
もしも、数年前に行方不明を装って地下で潜伏していた深月を、最後まで諦めずに探していれば。
深月による凶行と惨劇を未然に防げたのではないか。
「いい加減にしろ、望月!!」
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