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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第2章『黒い蝶と雪の月』
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『幸福はあまりにも甘く残酷で』②

 蛍には、まだ君へ明かしていない"秘密"がある――。


 蛍がここへ駆けつける前に繰り広げていた格闘の最中――深月・斎賀は、()を嘲るようにそう呟いた。

 最初は、俺を愚弄するための挑発に過ぎない、と聞き流していた。しかし、俺には"心当たり"があった。

 たとえ、心の傷を抱える人達を操り、犯罪へ手を染めた冷酷無比な男であっても……蛍にとっては、深月が大切な"家族"であることに変わりないのだろう。

 古びた菫色(すみれ)の本を胸に抱きしめていた蛍の表情は、ずっと頭から離れられなかった。

 懐かしさに切なむ表情と優しい声色で語られた、本に秘めた大切な思い出。

 幼い頃の蛍にとって深月の存在はどれほど大きかったのかも、容易に想像できた。

 だからこそ、蛍の気持ちを踏みにじる深月を許せなかった。

 しかし今思えば、何故俺は異様なほどの焦燥と憤りを深月へ密かに燃やしていたのか。

 冬に咲く白百合さながら清雅な微笑みを脳や瞳に映す度、無性な苛立ちに駆られた。

 深月が蛍の名前を気安く呼ぶ度に、脳髄と喉は灼けるような熱と不快感にざわめいた。

 漠然とした苛立ちの理由を、今初めて思い知らされた。

 蛍の名前を愛おしそうに呟く澄んだ声。

 蛍を思い浮かべている時に見せる、慈愛に満ちた表情。

 自らの手で蛍に触れると、甘い熱に浮かされたように揺れる冬空色の瞳。

 色合いは違えど、深月のあらゆる態度は、本質的には俺の蛍に対する想いと――。


 「()()、僕のことを"ずっと好きだった"――"あの日"、そう言ってくれたね」


 まったく()()だったからだ――。

 蛍について語り、蛍を見つめ、蛍へ触れる深月の瞳に映る感情は、"特別"な色相を帯びていた。

 兄妹愛と呼ぶには深淵のように根深く、毒を孕む蜂蜜のように甘ったるい。

 深月が蛍に向ける愛情は執着と呼んでも過言ではない。

 光の瞳からも異様に映るほどに。


 一方、深月の愛情と執着の対象である蛍自身は――。


 「やめて、深月、義兄さ」

 「僕と一緒がいい……。君はそう言いながら、僕を()()()()()()()()

 「お願い、もうやめて、義兄さん。それ以上、もう何も言わないで」


 深月の腕の中で深く俯いている蛍は、震えた声で呟く。

 しかし、どの単語も、もはや光の納得する答えは与えてくれない。

 俯いた顔から、蛍の表情は垣間見えた。

 涙に濡れた蛍の眼差しを見た瞬間。

 光は頭を殴られたような衝撃が胸の痛みとなって響いたのを感じた。


 何故、そんな()()()瞳をしている? 蛍。


 深月の話が光を翻弄するための虚言であれば「馬鹿馬鹿しい」、と一蹴できた。

 しかし、寒々しい静謐に溶けた深月の声はどこまでも生々しく、無謬性(むびゅうせい)を帯びていた。

 何よりも、深月が真実を明かす前から、蛍の尋常ならぬ怯え方に光は動揺した。

 冷凛とした()()蛍が―― 取り乱している蛍の"涙"は、全てを物語っていた。


 「()()()、蛍自身がそう言った。忘れたくても、忘れられるはずがないだろう? 蛍」

 「それは、私は、私……っ」


 普段の冷静さが見る影もないほどに動揺している蛍は、深月を必死に止める。

 しかし、先ほどから蛍は深月の言葉を一度も否定できていない。


 蛍……何故だ。

 何故、何も言わない?

 何故、「嘘」とも「違う」とも、否定しない?


 蛍自身も動揺のあまり、頭を振り乱しながら、深月の腕を振り解こうとする。

 しかし当然、深月は逃れるのを許さない。

 深月は、俯いたまま泣きじゃくる蛍を後ろから抱擁(ほうよう)したまま、彼女の耳元に淡い唇を寄せる。


 やめろ、それ以上、蛍に触れるな。

 これ以上、蛍を惑わすな。


 すると、深月は光にも聞こえる声量で、蛍へ愛をこれ見よがしに囁き始めていた。

 冷酷に澄んでいたはずの声には、ありったけの慈愛、と微かな切なさすら滲ませて。


 「っ――やめろ! 蛍を――」


 あまりにも聞くに堪えない内容に、光が激昂しようとした。

 しかし、光の怒声に気付いた蛍は、我に帰った様子で顔を上げた瞬間……光の瞳は凍り付いた。

 光の存在を映した蛍の()()()()()()

 涙は胸を絞めつけられるほどに、哀しくも、美しく澄んでいた。

 そして、光にしか見せたことのないはずの、少女のような表情は"悲嘆"に引き裂かれていた。


 かつて、見果てぬ愛へ焦がれた"憐れな幼女"を彷彿させるほどに。


 *


 "深淵"から蘇ってくる――。


 氷に閉ざした蓋を底から押し上げる、"感情"の奔流が。


 「いいんだよ、蛍。僕は全て理解(わか)っているから」


 雪のように冷たい唇は、耳元から甘い毒のような愛を囁く。

 深月義兄さんの言葉は、私の心を守ってくれた氷壁へ致命傷を与えた。

 冷凛な刑事官としての蛍の顔は、既に引き剥がされた。

 今の蛍は、自らの感情を上手く言葉にできない。

 ただ、絶望に澄んだ瞳から"悲嘆"を零すことしかできない。

 零れた涙の分だけ、蛍の悲痛な感情も溢れているようで、彼女の"絶望"は光にもひしひしと伝わった。

 一方深月は、ジクジクと()んだ蛍の傷口へ容赦なく触れ、彼女の心を言葉にして(すく)い上げていく。


 「君は、いなくなった僕のことを()()()()()()()()()、僕への想いに蓋をしていたんだよね」


 やめて


 「すぐには受け入れられないだろう。蓋をしてきた想いも、時間も、長かったから。蛍には辛いものになる。だから、許してくれとは言わない、でも」


 それ以上、言わないで


 「君と離れていたこの数年間……僕にとっても、気が狂いそうなほど長かった」


 お願いだから どうか


 「蛍も、()()だったはずだ」


 これ以上 暴かないで


 蛍の心髄へ侵蝕する深月の言葉に耐えきれず、彼女は思わず顔を上げた瞬間。

 遠くで拘束されている光と目が合った。

 蛍を惑わす深月を激昂しようとしていた光の唇は、凍止していた。


 光……? どうして、()()()()()で私を見つめているの。


 言葉にはできないが、光の表情にも広がる絶望は、蛍の胸にも同じように広がっていく。

 蛍と光が互いに目を合わせた瞬間、両者の胸に去来した感情――互いに悟ってしまった"真実"は、二人の繋がりを嘲笑と共に引き千切った音を鳴らした。

 目の前の現実と人間を冬気のごとく冷徹に見透かす深月によって、遂に思い知らされた。

 蛍の心の氷盾を砕いたモノの正体も。

 薄氷下の深淵に秘めてきた、蛍の真実(おもい)も。


 「っ――」


 氷さながら不撓不屈(ふとうふくつ)な蛍が涙を零した理由。

 それは血の繋がりがないとはいえ、家族の義兄へ()()を抱き、()()を交わした忌むべき過去を暴かれたことか。

 それとも、義兄へ恋をした女を光が軽蔑し、彼女の愛情を疑うことを恐れてか。

 どちらも、ある意味正しい。

 しかしそれ以上に、蛍を大いなる絶望へ導いている存在(もの)は、また別にあった。


 ごめんなさい、光。


 私は、もうあなたを――。


 「蛍――」


 深月は蛍の名前を呼んだ――胸が苦しい――。


 「君を、他の誰にも渡したくなかった」


 深月が蛍を締め付けるように抱きしめる――息が上手くできない――。


 「そのために、僕にできることは何でもやってきた。何人もの血と涙を犠牲にしてきた」


 冷やかな声に秘められた深月の感情は、蛍の鼓膜を震えさせる――涙が止まらない――。


 「もう一度、蛍と一緒に生きるために――」


 耳朶の奥まで囁いてくる()()()()と感情は、私の胸を刺し貫き、鼓動と呼吸すら奪う。

 心臓が灼け千切れそうになるほど熱くて痛い。

 喉は気を失いそうなほど息苦しい。

 辛くて痛くて苦しくて切なくて、なのに、それ以上に――()()だった――。


 異常な愛情と狂気を囁く深月に対し、蛍の胸へ去来した感情――それは、罪に濡れた深月への恐怖でも嫌悪でも哀しみでもない。

 "幸福"――虚偽も欺瞞もない場所から芽生えた、あまりにも愚かで罪深き本心(想い)は暴かれた。

 柔らかく冷たい雪のように、忌々しくも甘い記憶。

 ずっと蓋をしてきた遠い日の恋心は―― "()()()絶望"という氷炎となって、蛍を焼き尽くそうとする。


 かつて深月義兄さんは、私の全てだった。

 深月義兄さんは、私にとって大切な()()だった。


 雪のように真っ白なのに、温かい手も。

 冬に咲く花のように、柔らかな微笑みも。

 彩りの世界へ導いてくれた、優しい朗読も。

 清浄な冬の空気みたいに綺麗な声も……ずっと、大好きだった。


 蛍は蛍のままでいい――。


 穏やかに微笑みながら、私をずっと守って、愛してくれた義兄さんを、私はずっと――。


 「ごめん、なさい……っ」


 今まで気付けなかった私は愚かだった。

 全てを忘却の冬へ(ほうむ)ろうとしていた私は、なんて浅はかで罪深いのか。

 深月義兄さんの罪は、私の罪そのものでもあった。

 本当に裁かれるべき人間は、まさしく()()()()だった。

 もはや涙に溺れ(かす)んだ瞳には、一体誰の姿を映しているのか。

 それすら不明瞭な蛍の眼差しが、光の方向へ移ったと同時に零れたのは、謝罪の言葉。


 「っ――蛍」


 悲嘆と罪悪感に満ちた静かなる"叫び"は、果たして何へ向けた謝罪だったのか。

 本当の意味を知る者は、光と深月の()()()()


 「これで満足か? スノームーン」

 「ああ、十分だ。お勤めご苦労様、B・B」


 蛍の悲痛な謝罪は、深月へ希望を――光へ絶望を与えるには、十分な威力を帯びていた。


 「これで、()()は守られるんだな?」

 「もちろん。後は、君の()()()()()()()()()


 戦意喪失の蛍と光を他所に、先程まで無言に徹していたB・Bは、

 深月と言葉を交わす。

 深月から"許可"を与えられた途端、B・Bは機械さながら手際の良さで、光の手足を縄で縛り始めた。


 「く、何をする、やめ。ぐっ、蛍……!」


 さらにB・Bが光の双眸を黒い帯で覆った所で、呆然としていた蛍も我に帰った。


 「! 光……ま って……! 光、に一体、なに……をっ」


 身体の自由を奪おうとするB・Bに危険を察知した光は、反射的に抵抗する。

 しかし、深月によって肋骨の一部まで折られて満身創痍の光では、武装したB・Bに太刀打ちできない。

 そのうえ、深月の暴いた残酷な"真実"は、光の精神力すら鈍らせていた。

 一方蛍は、為す術もなく拘束される光を、涙に霞んだ眼差しで眺めながら、絶望を叫ぶしかできない。


 「お、ねが……い。やめ……て。光……には……!」

 「くそ、放しやがれ! 蛍! ほた……! むぐぅっ」


 光は己を嘲るように激しく痛む全身へ鞭を打って抵抗し、蛍の名を叫ぶ。

 しかし、悪あがきをやめない光の口を、B・Bは遂にガムテープで塞いだ。

 口を利く自由すら完全に奪われた光を、B・Bは軽々と肩に担いだ。

 まるで不要の"死体袋"を淡々と運ぶような光景に、蛍は絶望に溺れながらも必死に手を伸ばした。

 しかし、蛍が必死に伸ばす手も、幼児さながら弱々しく悲痛な叫びも、宙を虚しく漂うのみ。

 既に心すら折れ、襟首に入った手刀によって身体の力も奪われた。

 もはや、蛍ですら深月を振り払うことも、B・Bを止める事すら叶わない。


 「さあ……蛍。B・Bが彼をどうするのかは、さすがの僕にも想像はできない。でも……」


 深月の甘く冷たい声は、死の呪いと予言さながら不吉に響き渡る。


 「あんな男のことは、もう忘れたらいいのさ、蛍」


 嘘だ、こんなの。

 光は何も悪くないのに。


 真夏の太陽みたいな強さと優しさは、氷に閉ざした私の心を解かしてくれた。


 いつも光は、こんな私を愛して、大切にしてくれたのに。


 結局私は、光の優しさにあまえたうえ、最後に光の愛情を裏切った。


 あんな不器用なほどに真っ直ぐで、誰よりも優しすぎる光。


 こんな所で、殺されてもいい人間じゃないのに。


 もし、光が殺されたら、私のせいだ。


 かつて、私が目を逸らして置いた"罪と恋心"のせいで。


 このままでは、光が死んでしまうかもしれない。

 なのに、まるで凍り付いたように手足の力が入らない。


 「さあ、()()()()()()()、蛍。今更、君がどんなに後悔しても、()()()()()


 深月は、抗う力を奪われた蛍を憐れむように見つめ、愛おしむ口調で囁く。

 耳元で幾度と響く甘き呪いは、蛍の心を更なる絶望へ凍結させようとする。


 「い、や。やめ、て。や、めて、おねが、い。光、を、たすけ、て……!」


 光をどこかへ攫おうとするB・Bを見送る深月は、泣きじゃくる蛍を離そうとしない。

 母親と引き離される子どもさながら弱々しく泣く蛍。

 深月は蛍の肩を抱いてB・B達に(きびす)を返した。

 深月は、多目的広間の非常扉から蛍を連れて逃走するつもりだ。

 B・Bに担がれた光の姿が視界から消える寸前、蛍は再び手を伸ばした。

 蛍は光の方を振り返ろうとするが、深月の両腕はそれすら許さない。

 蛍と深月、光とB・B ――双方の距離はみるみる開いていく。

 このままでは、恐らく光はB・Bの手にかけられてしまう。

 また、蛍も深月によって攫われてしまう。

 それこそ、真の"終焉(しゅうえん)と絶望"を意味する。


 光――!!


 蛍――っ。


 どれほど必死に手を伸ばしても抗いようのない現実を前に、蛍と光は諦念の沼、絶望の底へ完全にのみ込まれる――瞬間。


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