其ノ十七『幸福はあまりにも甘く残酷で』①
午後三時五十五分・国立十三夜美術館内。
視界を覆い尽くすは、臙脂色と虚白の冷気。
後ろ向きに縛られた両腕を苛むのは、"絶凍と獄炎"の交錯するような激痛。
疼痛は皮膚の上下で生き物のように蠢いている。
通常なら悶絶しながら叫んでもおかしくはない。
しかし、今の"俺"の四肢から内臓器官に至るまでは凍怠している。
ここは一体どこだ……今、俺は、何が、どうなっている……?
「おはよう、浜本刑事官。目が覚めてよかったぁ」
一度耳にすれば忘れられない、毒蜜のように甘い幼声は耳朶をくすぐった。
途端、凍怠しきっていた浜本の意識と身体は急速に覚め始めた。
そうだ、俺は確か――。
十三夜美術館の爆破直前、浜本は小川刑事官を含む仲間と共に館内を巡回していた。
しかし、突如足下へ転がってきた"爆発物"によって負傷した。
白い霧煙と爆風の勢いで吹き飛ばされた浜本は後頭部を強打し、間も無く意識を失った――と思われる。
予告通りに起きた爆発に相次ぎ、警察官を人質に捕らえた立て篭り。
事件はE・Cであり、彼らを率いる謎の主犯少女「フェンリル」が起こした。
「これで、もう一回"遊べる"ね?」
毒蜜を浸した刃で首筋をなぞられたような甘くもおぞましい声。
耐え難い悪寒に襲われた浜本は勢いよく顔を上げた。
退廃と耽美に彩られた"悪夢の惨劇"が、自分を待ち迎えたとも知らずに。
「はい、どーぞっ。今度はローズヒップティーを淹れてみたよ?」
玄関広間の左右には、豪奢な黄金細工の手すり付きに、ベルベット絨毯の階段。
欧風の煌びやかな階段を上がった先には、一階と吹き抜けになった二階の細長い通路。
通路からは一階の玄関広間と奥の休憩広間を一望できる。
赤い森の細道を彷彿させる二階の通路にて。
高級絨毯の上に置かれた二人分の白磁のティーカップに淹れたのは、"ローズヒップティー"。
フェンリルは、赤紫に澄んだローズヒップティーのカップを浜本の目前に置いた。
ローズヒップの甘酸っぱい芳香と湯気は、浜本の鼻腔をくすぐる。
「あ、ごめんなさい! その手じゃティーカップを持てないね」
黒い覆面と頭巾を外したフェンリルの顔には、上機嫌な笑顔が咲いている。
白桃のような淡い肌の艶めく愛らしい顔立ち。
黄金麦を彷彿させる長髪は、美しい波を描きながら美少女の頬を撫でる。
丸く透き通った緑柱石のような瞳に輝く無邪気さ。
フェンリルの可憐な美貌から、彼女が欧米系の在日外国人であるのは一目瞭然だった。
「だから、私が飲ませてあげる!」
殺伐とした危機的状況でなければ、可憐な少女との"お茶会"という微笑ましい光景に誰もが和むだろう。
一方、うつ伏せで両腕を拘束されているままの浜本は、首が痛くなるのも厭わずに、フェンリルを睥睨する。
「っ……やめろ。貴様」
「むぅ。せっかく、フェンリルが淹れてあげたのに。ほら、甘酸っぱくて美味しいよ? ふふっふふふふっ」
フェンリルはローズヒップティーのカップの縁を、浜本の唇へ強引に寄せた。
浜本は首を振って抵抗したが、フェンリルは無邪気な笑みのまま、彼の後頭部を押さえつける。
もう片手に掴んだカップを勢いよく傾けると、甘酸っぱい灼熱が浜本の口腔と喉を焼いた。
「っ〜!! ガハッ! ゲホッ、ゴホッ!!」
無遠慮に注がれたローズヒップティーを飲まされた浜本は、壮絶に咽せた。
浜本は激しく咳き込むと、赤黒い液体を吐き出した。
一方フェンリルは、苦悶に顔を歪める浜本におかまいなく「味わえ」、とひたすら無邪気に催促する。
「あーあ、もったいないねぇ。美味しいのに。絨毯まで汚しちゃって、お行儀悪いよ? くすくすっ」
一見可憐な少女・フェンリルの無垢な瞳に灯る残忍な耀き。
熟練警察《》の浜本ですら、底冷えするような戦慄を覚えた。
しかし、それ以上に毅然とした態度に努める浜本の焦燥と義憤を煽るのは、フェンリルの無邪気な残酷さだけではない。
浜本の口内から鼻腔、喉の奥まで侵した赤黒く澄んだ液体。
甘酸っぱいローズヒップの風味に融けた、遥かに赤く濃厚な酸味の素は、激しい吐き気と眩暈を催した。
「ねえねえ! 浜本刑事官! 見えるかな? すっごく綺麗だね♪」
喉の奥が焼け熔かされそうだ。
無理矢理とは言え、渇いた喉を仲間の体液で潤した、俺自身への"罰"なのか。
「っ……ふざけ……げほっ。一体、何が起こって……っ」
フェンリルによる悪魔のおもてなしの最中。
浜本は悪寒と嘔吐感で虚ろいだ眼差しを左横へ移した。
幼い視線の導く左横下に広がる一階の光景。
まさに、フェンリルの淹れた茶葉を育てる"悪魔の花園"である――。
「あなたさえいなければ、私の妹は自殺しなかった! あんたが妹に言った事は、一生忘れない。今度はあんたも忘れないように、あんたの体に刻んでやる!」
「や、やめてくれ……! たすけ――うっああぁああぁあぁ! 痛い、やめろ!」
一階の広間全体では、E・Cに"拷問"される仲間の阿鼻叫喚と地獄絵図は繰り広げられていた。
一階絨毯の上には、浜本と同様に両手足を縛られた人質の警察官達は、芋虫のようにうつ伏せに並んでいる。
不吉な黒い揚羽蝶を纏ったE・C達は、それぞれの警察官を罵倒しては、手にした多種多様の凶器で痛めつけている。
浜本の同期であり、最近機動隊へ出世した茅原警察官は、恐怖と激痛に泣き喚いている。
E・Cの女は、片手に握り絞めた鋭利な五寸釘で、茅原の皮膚と肉を刺し抉る。
茅原の尋常ならぬ絶叫、E・Cの憤怒の叫びは、殺伐とした空気をさらに熱く、冷たく、切り裂いていく。
「あそこ見える? 今、五寸釘で警察官の皮膚を抉り彫っているのは、祥子ちゃん。祥子ちゃんの妹さんはね、男の人に襲われたの。だから、勇気を出して相談しに行った。なのに、あの警察官ひどいんだよー?」
「何を」
「妹さんにね、『あなた、その時は濡れていましたか?』だって! さらにさらに! 『顔見知りだからって、隙を見せたあなたにも非がある』だってー! 無神経だよね~。そしたら妹さん、自分で喉を掻き切って死んじゃったんだって♪」
E・Cの女の妹を自殺へ追いやったらしい茅原の心無い言葉に、浜本すら愕然と凍りつく。
その間にも、茅原の皮膚と肉にはクレヨンで殴り書きするように、グリグリと抉り刻まれていく。
茅原自身の罪深さと台詞をそのままに――。
「がっ! ぎゃあ! やめ! 助けっ。ぐあああっ!」
今度は、耳朶を裂きかねないほどの絶叫が、館内の天井を突き抜けた。
しかし、ここには一つだけでなく、"有象無象の地獄"は炎上していく。
「お前が! お前みたいな奴こそ! 社会のゴミクズだ! 全部お前のせいだ!」
夏目刑事官――ルーナ警察・刑事部総部長のポストを永谷部長に横取りされたと逆恨みし、署内でも威張り散らしている。
夏目は警察官でありながら、数多の嫌がらせ行為を犯し、金と権力で清算してきた下衆な男。
「……ぁ……ぉ……っ」
浜本から見ても、嫌悪と軽蔑の対象である夏目は、虫の息の歪な"肉団子"と化していた。
長身男性と思しきE・Cの握り絞める金属バットで滅多打ちにされたからだ。
「俺の"大切な娘"は、お前ら警察に殺されたんだ! お前があの男に住所をバラしたから、娘は……!」
「そんな、私は、ただ……! ぎゃあぁっ」
爆発物処理班へ抜擢された貴重な理系女子の綾小路警察官。
輝かしい出世を讃えられる綾小路は理由不明だが、被害者の住所を被疑者へ教えてしまった。
「俺の娘を刺し殺したあの偏執者を逮捕するどころか、"証拠不十分"だとか何かで釈放したお前らを許さない! 娘を殺したあの男と同罪だ!」
「ぎゃあぁあぁぁ! 痛い痛い痛い! やめ……ふぐぅ、むうぅぅ~っ!!」
娘を奪われた悲憤に身を焦がすE・Cの男は、綾小路の淡い唇を太針で縫い留めている。
一縫いへありったけの悲憤と憎悪をこめて。
人の命すら奪った軽い口が、二度と"秘密"を漏らさないよう、と願掛けするよう入念に。
復讐と憎悪を満たす玩具として、人質達を罵倒しながら拷問の限りを尽くす。
E・Cの異様な暴走は、まさに狂気と地獄だ。
無残に変わり果てた仲間の姿に、浜本は猛烈にせりあがる恐怖と嘔吐感、眩暈を必死に堪える。
「きゃはははっ。みんな、楽しそうで、幸せそうで、よかったねぇ。大嫌いな奴らを自由に痛めつけられて!!」
しかし、凄惨な悪夢に不相応な朗らかさで実況するフェンリルの態度に、浜本の恐怖で凍怠していた義憤は発火した。
「おい! フェンリル! いい加減にしろ!」
「あれ? やっと私の名前呼んでくれたね! 浜本刑事官は、えらいえらい。ふふふっ」
「E・Cのあのふざけた拷問を今すぐ止めさせろ!」
「それは、だーめ♪ あなたも、ちゃぁんと聞いたでしょ? あの子達の"声なき叫び"を。もう、誰にも止められないよ。ま、あの子達の痛みは、私にも痛いほど分かるから」
E・Cの拷問を止めろ、とフェンリルへ激昂する浜本だが、やはり彼女は無邪気に聞く耳を持たない。
彼らがE・Cへ入った最大の理由である"復讐と制裁"を全肯定するフェンリルは、ほんの一瞬――今までらしからぬ憂いに陰る表情を浮かべた気がした。
この狂気じみた状況と激痛が浜本へ見せた、目の錯覚だろうか。
「貴様……っ。一般市民の次は、俺達"警察"への復讐が目的だったのか」
「んー……そうねぇ。でも、半分当たりで外れかな。惜しい♪ あはははっ」
「それに、お前達E・Cはいつの間に館内へ侵入した!?」
「あぁ……うん、そりゃ気になるよねぇ? まさか、本物の揚羽蝶に変身して隙間から入ってきたとか?」
「真面目に答えろ! どんな手段で我々を欺くことができた?」
フェンリルは無邪気な冗談でのらりくらりと躱すばかりの態度。
浜本は痛みも一瞬忘れで喉底から激昂した。
館内の扉から窓までは蝶どころか蟻一匹すら感知できる、厳重な監視警備と施錠に守られていたはずだ。
「ふふっ、そう怖い目で睨まないでよ、浜本刑事官。むしろ喜んで? 今ここにいる警察官の内、あなたは唯一"清廉潔白"で、正当な恨みを買っていない貴重な存在なのよ!」
最初はフェンリルの台詞を直ぐに理解できなかった浜本は、唖然と彼女を凝視した。
浜本には、警察の部下にも上司にも自分へ嫌悪や苦手意識を抱き、若い出世に対する嫌味や逆恨みを寄せられている自覚がある。
それよりも当の浜本は「半分外れ」、という不可解な台詞だけが胸に引っかかっていた。
復讐の狂気に駆られたE・C、彼らを率いる主犯格には、復讐とはまた別の目的がある?
対話を通じてそこを突き止めれば、この地獄の窮地を打破する手がかりと道は掴めるかもしれない。
「あなた達警察は、E・Cを含む一般市民を助ける立場にある者。なのに誰も救うどころか、むしろ傷つけてきた。だからあの人達は、今その"罰"を受けているの」
「っ……お前達」
「でも、あなたに復讐を望むE・Cは誰もいなかった。だから二階へ連れてきたの。浜本刑事官は、誰よりも高潔な警察官として勤勉、真面目、誠心誠意尽力してきたのねぇ」
やたら、フェンリルが浜本を贔屓しているとも捉えられる言動の理由は、ようやく腑に落ちた。
相手は倫理観の欠落した少女とはいえ、立て篭り犯の主犯格であり、言葉による意思疎通も可能。
幸い、浜本に対してむしろ好意的な評価と感情を持っている。
ならば、浜本次第で説得と交渉の余地はあるかもしれない。
「君の言う通りだ、フェンリル。俺は俺なりに真面目に働いて生きてきたつもりだ」
浜本刑事官には、悪童の扱いも上手い黒沢や、犯罪者の心へ訴えかけられる力を併せ持つ櫻井や藤堂ほどの器用さや優しさは備わっていない。
それでも、難攻不落な完全密室の館内で、唯一動けるのは自分しかいない。
日の当たる場所で勤勉に生きていた己を嘲笑うE・Cの狂気に打ち勝つには――。
「お前の言う通り、以前から犯罪被害者への対応は警察でも問題視されてきた。しかし、それは俺一人のちっぽけな力では解決できなかった。俺も、そのことが、いつも、もどかしくて、たまらなかった」
一欠片でも己の矜持を投げ打つことは、浜本が窮地を打破できる唯一の道であれば。
「あまりに非力で無知な俺だからこそ、知りたい。お前達が、本当は何を求めるのか」
浜本はフェンリルへ怒りや否定をぶつけるのを止めると、さりげなく"交渉と説得"の姿勢へ入った。
なるべく、高圧的にも卑屈にも映らないよう真摯な態度で応じる。
しかし、灼け凍えるような激痛に疼く両手足を縛られ、鮮血茶と唾液に汚れた口周りや襟はそのままだ。
本来は神経質で綺麗好きな浜本には極めて屈辱的だが、背に腹は代えられない。
「もしかして、あなたならフェンリル達の"欲しいもの"をくれる? 誰も聞いてくれなかってた"お話"も聞いてくれる?」
幸いか否か、浜本の真摯な態度は伝わったらしい。
フェンリルは顔をキョトンッと愛らしく傾げさせてから、期待に満ちた幼声で応答した。
「そのつもりだ、フェンリル。お前達は何が欲しくて、事件を起こしたんだ? 新しいお父さんとお母さんというのは、一体誰のことだ?」
「うふふっ。フェンリルが言っていた事、ちゃんと覚えてくれたんだ! 嬉しい。あなたになら教えてあげてもいいよ。浜本刑事官は、私達の話を聞いてくれる人だね!」
どうやら、掴み所は上々らしい。
すっかり気を良くしたフェンリルは、自分達の事を饒舌に語ろうとする。
このままいけば、事件解決と時間稼ぎと併せて、フェンリルを交渉と説得へ誘導できるかもしれない。
状況打開策の一歩を踏むのに一先ず成功した。
一方、この瞬間も浜本の耳をつんざく仲間の阿鼻叫喚、そこへの焦燥に足元を竦まれないように。
浜本は心内で己を奮い立たせた。
「それはね――」
そんな浜本の緊迫した心境も露知らず、フェンリルは屈託ない笑顔で口を開いた。
浜本は努めて柔らかな物腰で、慎重に相槌を打つ。
まるで呪いを一匙ずつ飲み込んでいくようなフェンリルの言葉に、心臓から凍てついてくるような悪寒と嫌悪感に表情が曇るのを抑えらなくなる中――。
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