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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第2章『黒い蝶と雪の月』
48/77

Interval⑧

 熱い――心も体も、何もかもが熱い。


 全ては消えない火傷を刻みつけられているようで。

 けれど、今までにない幸福へ甘く溶かされ、やがて深みに沈んでいく。

 言葉では決して足りない想いを、互いの存在を奏でる唇で互いに(むさぼ)り合う。

 融け合いそうなほどに恐ろしく、どこまでも優しくて熱い手と体で、自分の全ては絡め囚われる。


 ずっと離さない――決して逃がさない――。


 "ぬくもり"という鎖に繋がれるように。

 凍えるような冬気に晒されているはずなのに、不思議と熱くてたまらない――。

 まるで、氷炎にのみこまれるよう。

 引き裂かれるような痛みに比例して、締め付けられるような切なさは湧き上がる。

 それは、泣きたくなるほどの愛しさとなって、蛍の心と身体の深淵へ波紋する。

 自分の何もかもを甘く溶かし尽くす相手は、ただ一人の"女"を渇望するただ一人の"男"となっていた。

 男は、自分と溶け合う女の無垢な涙とぬくもりを貪る。

 己への純真な愛を紡ぐ涙声に聴き惚れる。

 幸せに澄み渡る女の微笑みに、男も至福へ満たされていく。

 清らかな愛を(かたど)り続けていた深雪をあっけなく溶かした炎。

 その灼熱は、無垢な冬の太陽すらのみこみ、凍える冬の静寂すら熱で(いろど)ってゆく。


 『蛍――実は僕、"ずっと欲しかったもの"があったんだ。今までずっと、どうしても手に入れることのできなかった、たった一つの』


 熱に浮かされた声で囁かれた言葉。

 深月は無垢な表情の蛍を抱きしめる腕へ力を入れた。

 冬森の湖のように艶やかな髪。

 氷雪のように透き通った肌。

 無垢で清らかな音色を奏でる澄桃色(すももいろ)の唇。

 蛍を構成する美しい部分(パーツ)を、深月は雪のようにひんやりとした綺麗な指先で愛おしく撫でる。

 今までにないほど恍惚とした炎に揺らめく冬空色の瞳は、蛍の存在のみを映す。

 夢見心地に浸る深月の甘い瞳と柔和な微笑みから、ただならぬ雰囲気を感じ取った。

 蛍の胸には、恐怖や緊張とは似ても似つかない感情が浮上していた。


 「深月、義兄さん?」


 蛍が異変に気付いた時には既に遅い。

 前方から襲ってきた重力によって、蛍の体は後ろ向きに崩れ落ちる。

 しかし、倒れそうになっている蛍の背中は、馴染んだ柔らかくて深い弾力に包まれる。

 思い切りソファへ倒されたものの、細い腰へ紳士的に添えられた力強い手のおかげか。

 蛍の体には不思議と痛みも衝撃もない。

 代わりに、自分へ迫る心地よい重みと締め付け、大きなぬくもりに、蛍は瞳をこれまでにないほど大きく開いた。

 帰宅したばかりで暖房機を点け忘れていたため、全身は未だ冷え切っている。

 雪のように冷えたままの蛍の唇を、()()()()()()()()()は甘く溶かす。


 「蛍。僕は、()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()


 熱を灯し始めた蛍の唇から、もう一つの熱は名残惜しそうに離れる。


 「我慢、していたって」

 「蛍のこと()()()()から。だが、もう抑えきれそうにない――」

 「義兄さ――」

 「こんな僕を、蛍は嫌いになるかい?」


 心から満足そうに微笑みながらも、不安に揺らめく声で紡ぐ問いかけ。

 しかし、唇で紡ごうとしていた蛍の答えは、新たな熱に再び呑み込まれる。

 臙脂色(えんじいろ)のソファの上で蛍へ覆い被さったままの深月。

 宝物を大切に扱うように丁重で、けれど振りほどけない力強さにみなぎる細腕。

 熱欲の炎に透き通った冬空色の瞳。

 淡雪を一瞬で熔かす熱を帯びた唇。

 溶けた氷砂糖のように甘い吐息と優しい声。

 雪のように触れては熱く熔けていくような口づけを、深月は蛍へ幾度となく降らす。

 目の前の深月の全ては、蛍の心も体も深く捕らえて離さない。

 家族としてではなく、一人の"男"としての深月を、蛍は今初めて強く感じた。


 「蛍……?」


 息継ぎのために唇を少しだけ離す度に、蛍を熱く見下ろす深月。

 まるで蛍自身の答えを待ちわびるような瞳と目を合わせた瞬間。

 かつて、自分が零した"何気ない言葉"を蛍は不意に思い出した。

 まっとうな不安と戸惑いを遥かに凌駕し、奥底から芽吹き燃えるモノの正体を()()()()

 確信を抱いた蛍の取った行動は――。


 「本当は、()()()()()……義兄さんのこと……」


 誰よりも敬愛する義兄にこうして抱きしめられ、優しい口づけを交わしている。

 どこか背徳的な行為に、蛍の心は不安に締め付けられながらも、義兄を自然と受け入れていた。

 深月の瞳が映す未来(この先)を想像すると、蛍は不安と恐怖をまったく覚えないわけではない。

 しかし蛍自身は、義兄の熱い瞳と腕からは逃げられない、と思った。

 むしろ、逃がさないでほしい――心の内でそうすら思ってしまった。

 今まで意識したことのなかった広い背中へ両腕を回す。

 雪花のように小さくて冷たい蛍の両手は、そっと深月を抱き寄せる。

 深月の想いへ応えるように。



 蛍が深月をすんなりと受け入れてくれたのが予想外だったらしい。珍しく、驚きに双眸を瞬かせる。


 「蛍――本当に、いいんだね?」


 冬空色の瞳は"歓喜"に満たされていくり

 一方で、蛍の意志をもう一度問う。

 蛍から逃げ場を奪うような形で迫ったとはいえ、深月が欲するのは、あくまで蛍自身の心。

 己の意志を強く貫く"穢れなき魂"を持つ蛍そのもの。


 「分からないことも、私は知りたい。以前、義兄さんにそう言ったの、覚えてる?」


 躊躇(ちゅうちょ)にも似た恥じらいを浮かべる蛍の呟いた想いと信念――それは、深月の胸にもすんなりと入った。

 予め約束された必然の答えとして、深月の心は既に見透かしていたのかもしれない。

 蛍は、決して自分を拒絶しない。蛍も心のどこかで自分を求めていている。


 「ああ、忘れるはずがないよ。蛍はそういう子だ。分からないことは好きなことも含めて、ちゃんと向き合って理解したい――美しいことだよ。だが、今の答えはちゃんと熟考したものとして捉えてもいいのかい?」


 歓喜する子どものように屈託なく微笑む深月は、心底満足そうに答えた。


 「言ったでしょう? 私は、ずっと義兄さんのことを……やっと気付いたのは、たった今だけど」

 「ふふっ。それなら、僕も随分と待たされたものだね……怖いかい? 蛍」

 「……怖くない、って言ったら嘘になる。でも私は、義兄さんと一緒がいい。これから先も、ずっと――」


 今度は迷いのない凛とした眼差しと声で微笑む蛍。

 最初から共鳴していた双方の心は、今まさに一つへ融け合おうとする。


 「ああ、僕も蛍と一緒だ。()()()――」


 最も凍える冬が訪れる、と予期された"あの日"――私は義兄さんと共に、決して忘れない"幸福の氷炎"に身を焦がした。

 白雪のように優しく、けれど凍傷しそうなくらい熱い。

 自分とはまったく違う、雪像のように引き締まった体も。

 慈しみを閉じ込めた大きな手も。熱欲に溶けた冬空色の瞳も。

 愛おしさを滲ませた優しい微笑みも。

 雪解けの露のように零れた汗。

 氷砂糖を熱したような甘く低い吐息。

 私にとって初めて瞳に映し、初めて触れる一人の男性はそこにいた。

 氷雪のように冷たいはずの指が慈しむように触れる場所から奥深くまで、蛍の体はじんわりと熱に溶かされる。

 どこか切なく苦しげな低い声は、甘い吐息と共に聴覚を侵す。

 自分の何もかもが絡め囚われていく一種の恐怖と安堵――相反する感情は融け合いながら波及していく。


「深月義兄さん。好き、大好き……っ」


 最後、蛍の心と身体心は初めて味わう()()()()穿(うが)たれた。


 「蛍……っ。名前で、呼んでみて?」


 言葉にせずにはいられない愛しさを。

 言葉では伝えたりない狂おしさを。


 「っ……み、つき?」

 「もう一度」


 互いの唇とぬくもりで甘く溶かしていく水底で。


 「っ……深、月 好き――」


 互いの名前を呼び合った瞬間。

 初めて、蛍と深月は互いを愛して求め合う……ただの人間の"女と男"になれた気がした。


 深月によって()かれ、蛍の最奥に眠り続けていた種子は、狂おしいほどの"恋心"を実り咲かせた。


 これからの未来も、ずっと深月と共に生きたい。


 この時、蛍は心の底から強く願った。

 深月は、己の存在と蛍一心へ灯してきた狂おしい想い――その全てを、蛍の無垢な心と体へ深く刻みつけた。


 「いい()だね、蛍」


 嘘偽りは微塵もなく、綺麗なほど澄んだ眼差しの深月は、蛍へ愛しさを囁いた。


 「僕も、()()()()()()――」


 しかし、深月が深く打ち(えぐ)った最後の(くさび)こそ、蛍の心に決して癒えない傷を遺した。

 逃げ場すら完全に奪われる"残酷な未来"を招くと、互いは夢にも思わず――。


 「嘘――義兄さん、どこ、どこなの!?」


 (ふた)ひらの花の寄り添うユキノシタのように――互いに結ばれた幸福な夜の後日。

 警察官試験の合格説明会から帰宅した蛍は、これまでにないほど動揺していた。

 冬夜の静寂に包まれた家の雰囲気と義兄の不在。

 強い胸騒ぎに駆られた蛍は、義兄の携帯電話へ連絡を試みたが、幾度かけても繋がらない。

 義兄は遅くなる時は必ず、電子伝言(メール)か電話で連絡してくれるはずの。

 そんなマメな義兄から、何の音沙汰もないのはおかしい。

 念のため、深月の"訪問先"にも連絡をいれたが、こちらにも繋がらない。

 明らかにおかしいと思った蛍は、深月が予め伝えてくれた行き先を目指して、雪道用自転車を走らせた。


 「(義兄さん、どうか、無事ていて――!)」


 今朝、蛍が外出する前に深月は"伝言"を残した。

 自宅から少し離れた近所に住む「斎賀《《叔父》》夫婦」の家に用事あってそちらへ赴く、と。

 斎賀夫婦が交通事故で亡くなった後、法律上の"後見人"となってくれたのは、蛍の()()()()に当たる斎賀叔父。

 後見人とは言っても、既に経済的自立を果たしていた深月と同居人の蛍は、普段から関わりを持っていなかった。

 斎賀叔父は、いざという時の緊急連絡先・相談役のような位置づけだ。

 二人を温かく見守ってくれた斎賀叔父は、この界隈(かいわい)ではそれなりに名の知れた大手企業の社長でもある。

 最近、蛍の合格祝いをするついでに「近々、大事な話をしたい」、と叔父夫婦から深月へ連絡があったらしい。

 しかし、今日は説明会の用事で都合の悪い蛍の代わりに、非番の深月が先に叔父夫婦の家へ向かった。

 今思えば、外出前の深月はどこか悩ましげに逡巡(しゅんじゅん)するような表情だった。

 余程大事な話をする予定ではないか、と蛍も薄々感じていたが、気に留める事はなかった。

 凍えるような冬にも関わらず、心臓から身体中を駆け巡る血潮の熱に当てられ、嫌な汗が露のように零れる。

 身を灼かれるような不安に淀んだ心を映しているようだ。

 暗泥色に凍りついた路面に、降り積もった灰色の雪に苦戦しつつも、蛍は必死に自転車を走らせた。

 深月がいるはずの斎賀邸に到着した蛍を迎えたのは――。


 「嘘――嫌、嫌 兄、さん、兄さん! 兄さん――!!」


 春を待ちわびる冬の希望を灰へ還す"絶望"の()だった――。


 *


 後日、焼け落ちた現場の状態と出火原因、聴き取り捜査の結果、数々の不審点は見つかった。

 家の焼け跡からは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 家の前で燃えていた一台の車の番号が、深月の車と一致した。

 確かに深月は叔父夫婦を訪ねてきたらしい。

 代わりに、()()()()()()()()()()

 数日後あたりには、現場から離れたハーベストムーン区で車が燃えているのは発見された。

 恐らく、事件の犯人は逃亡のために叔父の車を盗み、証拠隠滅を図る目的で乗り捨てて火を放ったと判断された。

 しかし、事件捜査の進行最中、さらに判明した或る不審点と"疑惑"は、唯一の拠り所を失った蛍へ追い打ちをかけた。


『斎賀叔父の会社に勤める()()()()()()()も、同日に叔父夫婦宅を訪れてから行方不明になっていました――ですが――()()()()()()()()()――』


 深月と同じく行方不明になっていた、例の男性社員は後日、()()()となって発見された。

 男性は()()()()()()()()無残な姿で、ギバスムーン区の河川敷に流れているのを発見された。

 真犯人の特定どころか、恐らく男性社員と同様に()()()()()可能性の高い、"深月の行方と生死"すら掴めなかった。


 フルムーン区を震撼させた凶悪殺人――『冬の殺人火事件』。

 真犯人の正体が動機、行方、そして斎賀・深月(行方不明者)の足取りすら掴めないまま――迷宮へと凍結された。


 嘘だ、どうして、なんで……っ。


 深月義兄さんと一つに繋がった。最初で最後の"幸い"を映した、あの夜とは似ても似つかない――陰鬱な冬の夜空の下。

 燦々(さんさん)と燃えていた炎の前で、私は今度こそ"全て"を失ってしまった。

 決して手のひらから零れ落ちてはならない、決して失ってはいけない……私にとっての"全世界"を構築する、唯一つの冬星の耀きと慈愛を。


 私にとって、深月義兄さんは世界の全てだった――。


 冬の静謐に咲く花のように、穏やかで幸福な世界を二人きりで構築してくれた義兄さん。

 無条件の愛情という太陽に焼き尽くされそうな不安に怯えていた私。

 そんな憐れで臆病な私を、義兄さんは穏やかな冬日向のように静かに温めてくれた。

 義兄さんの冷やかな優しさに、私は救われてきた。

 けれど私はどれほど愚かだったか。

 世界の叡智と賢者の(おもむき)を佇たえた義兄さん。

 深月義兄さんですら、悲劇と死の炎の前では、一瞬で跡形もなく溶ける雪のように儚い命の一つに過ぎなかった。


 最愛の家族を喪ってしまった。

 今、私の瞳に映る世界の全ては凍りつき、薄氷の地面から両足が崩れ落ちていくような喪失感に呑まれた。

 絶凍の吹雪を晴らし、凍え渡ったた自分を温める"冬日向"――深月義兄さんは、()()()()()のだ。

 慈しみの冬陽を失った夜銀の世界で、唯一人永遠に佇むような孤独は、蛍の涙すら氷結させた。


 世界に置いてきぼりにされた蛍の選んだ行動は――。


 「――()()()()()、深月、義兄さん……義兄さん――兄さんって、誰だっけ……? あは、あはははは……っ」


 深月の存在を()()()()()であった。

 泣きたくなるような幸福の刹那に、ようやく芽生えた……淡い恋心、優しいぬくもりの記憶と共に。


 しかし、当時の蛍は気付くことすら叶わなかった。


 今思えば、深月の周りには、しばしば奇妙な".不幸と死"が纏わりついていたことを。

 冬を知らぬ、あらゆる生命から遮断された無垢な世界には、いつのまにか蛍と深月のみが残されていたことを。

 彩りの花のような物語で咲き乱れる"二人の"世界へ踏み込んだ新参者は、何の予兆や音沙汰もなく、()()()()()()()


 深月の無垢な微笑みの後には――。





 ***



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