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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第2章『黒い蝶と雪の月』
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『嗤う雪月は光すら凍りつかせて』③

 「……随分余裕だと思ったら、そんな"危ないもの"を持っているなんて、深月義兄さん……っ」


 深月から数メートル離れた位置で、蛍は片膝をついて強気に微笑んでいた。

 氷人形のような顔に浮かぶ一筋の汗。

 堪えるような声と共に零れる吐息。

 そして、深月には甘く香る血の気配に彼は恍惚と瞳を細める。

 戦火も知らぬ無垢な花のように白く滑らかな深月の右手には――真紅の血が伝う"銀の刃物"が握られている。

 蛍の香りのする血、と銀の耀きの溶け合う様を深月はうっそりと一瞥すると、視線を蛍に戻した。


 「これは僕の"お気に入り"。蛍は、随分これが気になっているようだね」


 "銀の刃物"は上質な漆塗りの木材の柄に、本物の銀に耀く"カッターナイフ"。

 明らかに高い殺傷力と鋭利な危険を誇示するような形だ。

 しかし、蛍と光がカッターナイフから目を離せない理由は一つではない。


 「蛍の考える通りさ。これは()()()()の頸動脈を切り裂き、命を(すす)った"凶器"だよ」


 苦々しい表情の二人が察する通りだった。

 美しくも禍々しい耀きに濡れたあの凶器こそ、大事な後輩の命を奪ったのだ。

 蛍のハイキックを封じていた手を緩めた瞬間、深月は(そで)の中に忍ばせていたカッターナイフを取り出し、蛍の右太腿へ刃を立てた。

 幸いかすり傷で済んだが、刃物を持つ相手との接近戦となれば、状況は一気に不利となる。


 「深月義兄さんが、そのカッターナイフで私達の後輩……()()()()()を殺し、彼を目の前で殺された望月刑事官の心を踏みにじったのね。なら、そのカッターナイフ、二度と使えないようにするわ!」

 「いくら蛍でも、このカッターナイフを壊されるのは気が引ける。これは本当に"良いもの"だよ。一般人がカッターナイフを持ち歩いていても、事務仕事用として誤魔化せる。こんな小さな刃物でも、人の"いのち"を摘み取れるのにね。あっけないほど簡単に」


 とはいえ、後輩を切り裂いた邪悪な凶器にも、愉悦に嘲笑う深月にも屈するつもりはない。


 「ただカッターナイフだと、一定以上の力を慎重に加えなければいけない。人間の薄く厚い皮膚も、赤い命を絶えまなく運ぶ血管を裂くためには」

 「深月義兄さん」

 「強い想いを胸に死にゆく命を――熱い生命の血もぬくもりも――全てが凍りつく瞬間、いつも僕は()という――二度と戻らない"不可逆性"の重みを実感できるんだ」

 「てめぇ、よくもそんな戯言を……」

 「だというのに、最近は集団やネットを利用したいじめ、犯罪による()()()()()()。猟奇的な戦闘遊戯(アクション・ゲーム)に溺れる者達といい……()()()()()へ蓋をしようとするこの社会といい……今の人間は、身近にはこびるはずの"死"を、"いのち"を、()()()()()()()()()()()――」


 もはや理解と共感の範疇(はんちゅう)を超える哲学、どこか矛盾を孕んだ持論。

 心臓を搔き回されるような不快感と自己嫌悪は光を襲う。

 結局、深月もただ血に飢えた残忍な知能殺人犯と断定――するのを躊躇させる台詞のせいだ。

 "現代(いま)の人は命を軽んじている"という考えは、快楽殺人鬼レギンには持ち得なかった思想と憂いだ。

 深月の台詞には一理ある、と一瞬でも共感した己を光は心底から恥じた。


 「なら尚更、没収しないと。逮捕した後、義兄さんの持論には、いくらでも付き合ってあげるわ!」


 一方、深月の奏でる幻惑的な言葉と狂気を(はら)うような冷凛の声と眼差しは深月を断罪した。


 「――ふっ。蛍は優しいね。独房越しに君と語り合うのも悪くはない。でも、僕は未だ捕まるわけにはいかないよ。それに……」


 氷柱の眼差しと声に怯むことなく、深月は児戯的な微笑みを返す。


 「蛍の"いのち"の香るこのカッターナイフも大事にしたいからね」


 深月は蛍に見せつけるように、カッターナイフの輝きを(ひるがえ)す。

 それでも蛍は、美しくも禍々しい耀きに臆せずに再び駆けた。

 冷気ごと裂く勢いでカッターナイフを振りかざした深月。

 容赦ない斬撃を辛うじて躱しながら間合いを詰める蛍。

 相手の呼吸と合わせ、時に乱すように、蛍は蹴りと拳を炸裂させていく。

 一方深月は、蛍の攻撃を受け流しながらも、銀に(ひらめ)く斬撃を繰り出して後退させていく。

 怜悧な斬撃から体を器用に反らしたりして避ける動作を繰り返す最中。

 ようやく、蛍は"危機"という名の好機(チャンス)を逃さなかった。


 「蛍――!!」


 蛍はへ真上から降りてきた迷いない斬撃から咄嗟(とっさ)に上肢を反らして(かわ)した。

 しかし、蛍が一歩後退した隙に、深月は右手に握るカッターナイフを、左へ素早く移した。

 左手のカッターナイフは再度、蛍へ振り下ろされる。

 蛍の方は後退したまま不安定な姿勢では、これ以上下がれない。

 そのうえ、一か八かで強引に蹴り技を出しても、どの道も刃の餌食となる。


 「深月義兄さん――!!」


 迫り来る銀の刃先に対して、蛍の瞳には恐怖や諦めとは異なる色が浮かんでいた。

 驚きの光景に光の双眸は大きく見開かれた。

 仰向(あおむ)けに倒れ伏せている一人。その人物を片手と膝で押さえつけながら、カッターナイフの刃を相手の喉笛ほ添わせているもう一人は――。


 「これで王手(チェックメイト)


 ――蛍だった。


 深月を床に押さえつけている蛍は、息を切らしながらも勝利を確信した様子だった。


 「蛍! 無事か……!? っ、げほっ」

 「私は大丈夫よ、光。あなたはじっとしていて、傷に(さわ)るわ」


 深月の刃が蛍の皮膚を裂こうとした寸前のわずか数秒間。

 蛍は深月の左手を素早く掴み締めた。

 深月の左腕を(ひね)り潰す勢いの握力は、カッターナイフを握る手の力を緩めた。

 さらに深月の隙を突いてカッターナイフを奪い取った。

 そして、体の姿勢と重心を直した蛍は、深月の左頬へ渾身のハイキックを(ふる)った。

 渾身の蹴り技を受け、数メートル程まで飛ばされた深月は仰向けに倒れた。

 すかさず蛍は深月の身体を床へ押さえ付け、奪い取ったカッターナイフを向けた。

 かくして、深月の牽制に成功したのだ。


 「動かないで、深月義兄さん」


 深月が少しでも身じろぎをすれば、ナイフの鋭い尖端は深月の雪肌の首筋へ赤い線を刻むだろう。

 

 「……君の望み通り、本当に強くなったね。僕をここまで追い詰めるとは」


 蛍のハイキックが直撃し、頬を赤く腫らしながらも唇を緩ませている深月と目が合う。

 諦めを微笑みで表す微妙な眼差しに、蛍は苦々しいものが喉元から胸へ下っていくのを感じた。


 「深月・斎賀。あなたを逮捕します。詳しい話は、署でずっと付き合ってあげましょう」


 蛍は、己の公務を全うすべく、深月を諌めながら彼へ手錠をかけようとする。

 本来なら気絶していないのが奇跡的な強い衝撃(ダメージ)を受けた。

 身動きも凶器も封じられ、もはや手も足も出ない状況に追い込まれた。


 「……ふふ、はははははっ」

 「何が、おかしいの? 深月義兄さん」


 一方、深月は窮地に陥っているとは思えない、花の咲き綻ぶような微笑みを崩さなかった。


「……やっぱり、蛍は()()()()。君は、決して僕を殺せない」


 慈愛すら(はら)んだ声、と意味深な台詞に、優勢であるはずの蛍は胸騒ぎを覚えた。


 「言っているでしょう。私は殺す、とかそんなこと――」

 「一体、僕が何のために、ずっと子どもの頃から君へ"毒"を注いできたと思う?」


 当惑に見開いた薄氷の瞳が、冬空色の瞳の真意を探るのに気を取られた、ほんの一瞬。

 

 「蛍。"大切なもの"からはいつも、目を離してはいけないよ」


 薄笑いを浮かべた深月は、手錠にかけられかけた右手で蛍の背後を指差した。

 柔らかくも冷たい声が蛍の鼓膜を震わせた瞬間には、既に遅かった。


 「蛍! 逃げろ、ぐっ……!?」

 「光……!?」


 蛍と深月から遠く離れた場所で倒れ伏せている光は、忠告と苦悶の呻きを漏らした。

 光の危機を察した蛍は、反射的に振り返った。


 「ほら、余所見なんか、していてもいいのかい? 蛍」


 蛍の手足の力が緩んだ隙に、深月は彼女の手を捕えた。

 上肢を素早く起こした深月は、蛍を自分の(ふところ)へ引き寄せると、彼女の襟首(えりくび)へ手刀を入れた。


 「――かっ――はっ」


 一応手加減はしたのか、気絶まではしなかった。

 しかし、首から頭部へ昇る強い衝撃と眩暈に、蛍は体の力が急速に抜けていくのを感じた。

 深月は、無防備になった蛍を深月は後ろから抱き締めて離さない。

 深月の右手には、既に奪い返したカッターナイフが握られている。


 「っ――ひ、かる」


 目と唇の筋肉を動かせる力が戻ったほんの数秒後。

 眩暈に霞んでいた視界に映ったのは、まさに深月の"形勢逆転"の状況。

 さらに、恐怖と焦燥に揺れる薄氷の瞳に映ったのは――。


 「助かったよ、B()B()――。やはり、君を残しておいて正解だった」

 「……礼には、及ばない」


 ルーナシティを恐怖と混沌へ陥れた、禍黒(かっこく)の揚羽蝶――E・Cの構成員である覆面男は、光の背中にのしかかっている。

 B・Bと呼ばれた覆面男の片手には、(さめ)の歯を彷彿させる刃の光るサバイバルナイフ。

 光は両手を後ろに縛られた状態で、うつ伏せに押さえつけられている。


 「てめぇ、離せ! ぐあっ」


 悔しさと怒りで血走った瞳の光は、拘束から逃れようと足掻(あが)く。

 しかし、光が身じろぎする度に、B・Bは彼の体へさらに体重をかけ、ナイフの柄で光の側頭部を殴った。


 「光! っ……離して、深月、義兄さん。」

 「形勢逆転だね、蛍。最初は追い詰められている装い(フリ)で、君を舞台へ誘導しようかとも思った。でも、君は賢いから逆に()()()()()()()()()()()()()()()

 「どういう、こと」

 「蛍。君ならむしろ、安全のためにあの男を、僕から何ともしても遠ざけようと考えるだろう?」


 確かに深月の台詞通りだ。

 戦闘中の蛍は、広間の舞台付近にいる光から、深月を遠ざけようとした。


 「だから、僕をこの壁際まで追い込んだ。けれど、逆に誘いこまれたのは君のほうだ」


 しかし、光の身の安全を考慮して距離を取ったことは仇となった。

 蛍が深月を追い詰めている隙に、舞台裏に隠れていたB・Bは、まんまと光を人質に取った。

 蛍は深月の策略に()まってしまった。

 蛍の蹴り技を受け流しながら後退したのも、彼女のハイキックを喰らったのも、蛍に組み伏せられたのも。

 全ては、深月の計算の内に入っており、"罠"に過ぎなかった。

 窮地に陥っても尚、余裕の微笑みを崩さなかったのも、今の形勢逆転を見越していた故。


 「惜しかったね、蛍。だが、君との遊戯は、ふふふ、中々に新鮮で愉しませてもらったよ。けれど……」


 この場所へ踏み入れた瞬間から、既に深月の手のひらの上(策略)に踊らされていた。

 残酷な現実に今更気付いた蛍は、悔やまずにはいられない。

 蛍は深月の腕を必死に振り払おうとするが、体に十分な力が入らない。

 蛍の抵抗と苦悶の呻き声に、深月は心底愉しそうな薄笑いを浮かべる。


 「もう、そろそろ……()()()()()()()


 深月は、詰めの甘い子どもを諭すような優しい口調で、蛍に憐れみと愉悦を囁く。


 「っ、深月義兄さん。光に手を出したら、いくら義兄さんでも」

 「それはこっちの台詞だ! お前こそ、ただじゃ済まないぞ! もし、蛍に手を出せば――」

 「僕を殺す――、とでも言いたいのかい? けれどそれは、君にすら無理だよ」


 どちらの身も絶体絶命の中、蛍と光は互いを庇い合って叫ぶのに精一杯だ。

 一方深月は、吠える光を嘲笑うように、蛍には慈しむように抱きしめる腕へさらに力を込めた。


 「蛍―― ()()()()()()、君は最初から僕を殺すつもりで来ることも出きたはず。でも、結局君が()()()()()()()だけ、きっと今も……多くの一般人や仲間が()()()()()のかもね」

 「っ――私、が……?」

 「でも、君には決してできない。()()()()()()()()


 深月は今までになく綺麗な微笑みを咲かせた。

 一方、深月の言い放った核心的な言葉に、蛍は激しい動揺に凍りついた。



 「僕は、ちゃんと理解っているよ、蛍。君の"本当の想い"を」


 薄氷の瞳は今までになく強い"自責の色に荒ぶる。


 「だから、蛍の恋人を()()この男にも、"本当の事"をちゃんと伝えてあげないと」


 目の敵にしている光に対して、深月が無慈悲に告げようとしている事実とは。

 深月の台詞と態度から、蛍だけは内容を瞬時に察した。

 途端、氷のような不撓不屈(ふとうふくつ)なはずの蛍の顔は一気に蒼白になった。

 今までの蛍らしからぬ"異変"を光も見逃さなかった。


 「よく聞くんだ、光・藤堂刑事官。蛍に関する"大事な事"だからね」


 顔面蒼白に震え始めた蛍を心配する光の瞳、と蛍の瞳が一瞬交差する。

 美しくも脆く輝く薄氷の瞳には、助けを求めるように、尋常ならぬ"罪悪感"の亀裂が浮かぶ。


 「深月、義兄さ、お願い。やめて、()()()()()……っ」


 蛍は抵抗するように頭を左右に振る。

 一方深月は、激しくも弱々しい姿の蛍を一層強く抱き締める。

 そして、蛍の決して望まぬ事実を、無情にも言葉で紡ごうとする。


 「蛍はね、ずっと僕を……否、"僕達"は」

 「やめて、深月義兄さん。言わないで、お願い。やめて。違う。()()()()は、許してっ」


 冷凛な氷の仮面すら剥がされた蛍は、消え入りそうな声で必死に止めようとする。

 しかし、蛍を抱きしめる深月の腕も、彼の冷徹さもあまりにも迷いがなく、決して振り解けない。

 今の蛍は「やめて」、とひたすら駄々をこねる子どものように喚くしかできない。

 蛍らしからぬ必死な姿に、光の胸が憐憫と悲憤に痛んだ。


 己を縛る忌々しい激痛も拘束も全て振り払い、蛍を助けに今すぐに駆けつけたい――。


 そう思うにも関わらず、いつの間にか光は激昂と抵抗の意すら失せていた。

 何故なら、今から深月の告げようとする事実は確かに重要だからだ。

 光にとって最も耳を背けたいと同時に、"最も知りたがっていた答え"の可能性が高いのだ。


 「やめて、違う、私は、お願い。聞かないで、光――!」


 絶望に凍え叫び蛍の悲痛な声に、光は一瞬で我に帰る。

 しかし、全ては既に手遅れだ。


 「蛍が本当に愛しているのは、昔も今も、僕一人だけだ。何故なら」

 「やめて、深月義兄さん、やめて――」


 冬に凍えし命を"愛玩"する神のように、どこまでも清らかで冷たい微笑みが咲く。

 深月の口が紡いだ、唯一つの忌々しき"真実"。

 最初の台詞だけならば、彼の妄言に過ぎない、と光は未だ失笑できたかもしれない。


 「"あの日"の前の夜、僕達は」

 「やめて!お願――」


 「()()()()()()()のだから――」


 しかし、深月が続けて述べたのは、光の予想すら凌駕するほど耳を疑う言葉(事実)


 「――は……?」


 あまりに呪わしい真実に、光の胸に燻っていた暗澹たる感情は爆沫(ばくまつ)した。


 「蛍の"初めての相手"こそ、()なんだよ――」


 深月が言葉に咲かせた真実は、毒のように甘く残酷な香りを放っていた。

 甘くも危険な香りは、暗澹たる感情を爆ぜさせた光を急速に蝕む。かつての自分にとって、決して忘れられない――甘く"幸福"な香りに眠っていた"真実"。

 しかし、今となっては狂おしい"絶望"の氷槍となって、蛍の心臓を抉り砕いた。


 「っ――ぁ――あぁ――っ」


 長き夜を支配した冬気すら斬り裂く勢いで、悲鳴は歌声のように響き渡る。

 冬空の瞳に囚われたままの薄氷の瞳――亀裂からは、氷泥へ溶け消える雪のような"(絶望)"が零れ落ちた。





 ***続く***





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