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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第2章『黒い蝶と雪の月』
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『嗤う雪月は光すら凍りつかせて』②

 "あの日"――混沌に曇った絶凍の冬夜にて。

 深月の亡き父親の()夫婦・斎賀の叔父と叔母の家に、火は放たれた。

 事件の当日、深月は叔父夫婦を訪れると告げて自宅を出てから、連絡も足取りも途絶えさせた。

 当時の蛍は、一向に帰宅しない義兄を案じて叔父の家へ駆けつけた。

 しかし蛍の到着した頃には、既に空に昇るほどの炎が家を燃やしていた。

 家の焼け跡から発見されたのは、叔父と叔母の焼死体のみ。

 精密な捜査の結果、"強盗殺人"と"放火"、さらには一人の男性の"誘拐"という、悪質な殺人犯による事件として扱われた。

 発見時、既に消えていた自家用車は犯人が逃走用に盗んだと思われた。

 叔父夫婦の死因は焼死ではなく、刃物による刺殺であった。

 さらに、強盗殺人と放火の推定時刻に叔父夫婦を訪れていた"一人の若い男性"。

 その人物は、叔父の経営する会社の正社員だったらしい。

 しかし、彼の失踪から暫く日が経った頃に、本人の()()は付近の川で発見された。

 平和で治安の良いのどかな町・フルムーン区で起きた未曾有の残忍な強盗殺人事件は、当時の区民を震撼させた。


 「あの日……『冬の殺人火事件』に、義兄さんは巻き込まれて行方不明になった、と報告書には記録されていた……けれど、そうじゃなくて、義兄さんが……?」


 数年前の強盗殺人放火事件に深月も巻き込まれた。

 行方不明の理由は、例の凶悪犯に攫われたか、最悪殺されてしまったのかもしれない。

 当時の蛍は気の狂いそうな恐怖と喪失感に心を裂かれた。

 一旦、捜査が打ち切られた後もずっと、心の隅で深月を案じていた。

 しかし、事件の迷宮入りも深月の失踪も必然の理だった。


 「ああ。あの事件は全て()()()()だよ」


 何故なら、深月自身こそは事件の()()()だったのだ。

 蛍は信じられない、と言いたげな眼差しで深月を凝視する。

 一方、深月は決して離さないように、蛍の両手を包み込むように繋いだ手に力を込めた。

 波紋一つない水面さながらの瞳が告げた"もう一つの事実"は、蛍へ追い打ちをかけた。


 「殺傷事件の時もそうだけれど……僕はね――()()()()()()()()

 「え――?」

 「()()()()()()()()()()()()()()()()()――」

 

 嘘偽りも罪悪感もない、無垢で真っ白な微笑みで語る深月に、ようやく蛍は現実を悟った。

 深月との記憶に沈んでいた数多の"謎"の欠片は、大群となって記憶の水面に集まる。

 やがて、蛍の心で疑念は"確信"という形を成していった。

 勘の鋭い蛍も本当は無意識の内に認めたくなかったのかもしれない。


 「たとえ誰かが傷ついていても、目の前で消える命を見ても、悲しいみ怒りも、恐怖すら湧いてこない。何とも思わないんだよ」


 深月と共犯だった石井やレギン、E・Cは皆、惨い方法で被害者を傷つけ、殺すことを望むのに十分な動機と憎悪を燃やしていた。

 虐待、迫害、凌辱、悲嘆、喪失、孤独によって、愛する人も大切なものも、夢、希望、誇りを奪われたE・Cも皆、深い心的外傷(トラウマ)を抱えていた。

 深月はE・Cの悲嘆と憎悪へ理解を示し、傷だらけの心に寄り添い導いた。

 師走小学校の事件を含め、深月には蛍の知らない過去や心の傷を抱えており、故に社会へ牙を剥いたのではないのか。

 深月の冷酷非道な犯罪に対し、何か(もっと)もらしい"理由"を、蛍は求めていた。

 たとえ誰かの幸福や正義のためとはいえ、誰かを傷つけて殺すという法の秩序に反する行為は正当化できない。

 それでも、いつも蛍に優しかった深月は――かつて多くの患者の心を癒してきた心理療法士は、己と義妹の理想のために――人々の心を救うために社会を変えようとした――。

 せめて、そんな一縷(いちる)の希望が、深月の中にひとかけらでも在れば――しかし。


 「師走小学校……()()()()()()()が最後に見せたあの姿……本当に、()()()()()()()()()()

 「っ……義兄さ……何を、言っているの……」

 「あれこそ、心の……"魂の美しさ"……真に価値あるものだった――」


 蛍だけを恍惚と映す深月の瞳、昔と変わらない柔和な微笑み。

 どちらにも、被害者への憐憫や悲哀も、加害者への憎悪も、生き残った己への罪悪感も――何一つ浮かんでいなかった。

 犯罪への特別な理由も動機も何もない。

 傷つけられること、傷つけることから生まれる"人間らしい感情"は深月には()()()()()()

 己の冒した罪もその結末も、深月本人には取るに足らない現実だ。

 死と痛みを彩る血の赤にも染まらない、雪のように真っ白な心。

 そんな深月にとって、昔から今も唯一関心を寄せ、大切にしてきたものとは――。


 「蛍――全ては、()()()()()()()()()。そのためなら、何を、誰を、全てを犠牲にしたってかまわない。僕には何の"痛み"も感じないからね――」


 唯一人の存在に対する尋常ならぬ愛情と執着――。

 二人以外の全てを凍廃(とうはい)するような冷酷さこそは、深月という人間を構成している。

 深月らしさでもある、どこか虚ろな冬空色の瞳は、相手をありのまま映して包み込む彼自身の心優しさだ、と蛍は思い込んでいた。

 あの虚ろに澄んだ優しさも、全てを許容する叡智と穏やかさも――全ては善悪や罪悪感といった感情の欠落した性質に()るものに過ぎなかった。


 「E・Cの存在も彼らの事件も、僕には目的の"通過点"に過ぎない。僕と蛍が一緒にいるための、ね。」


 心理療法士としての深月もまた、()()()()()のどんな想いも全て受容し、理解を示した。

 真っ白で透明な心の深月だからこそ為せる術なのだ。

 目を背けたくなるような苦痛も悲嘆、憎悪、嫉妬、血も穢れも、現実も、ただ、あるがままに。


 「蛍、僕には君さえいれば、他に何もいらないよ」


 深月の本性を知った今、義兄妹としての優しい思い出は、まったく別の暗い色相へ塗り潰されていく――。


 「っ……ふざける、のもいい加減にしろ……! 貴様の身勝手な利己性(エゴ)のために、レギンや石井達……そしてE・Cに、あんな()()()()()()のフェンリルすら利用していたのか!? 一体どれだけの人達が苦しんで……!」

 「利用した? 人聞きの悪いことを言うね。彼らは決して、僕に強制されたんじゃない」


 動揺に凍りつく蛍を他所に、光は深月へ非難と激昂を浴びせる。

 しかし、当の深月は涼しい表情に薄笑いを浮かべながら答えるのみ。


 「僕は、ただ彼らへ他の道を……新たな"選択肢"を示しただけだ。結果、彼らは自ら道を選び、僕の手を取った。それだけの話さ」


 罪悪感の欠片もない深月の発言に、光は瞳に怒りを燃やした。しかし、光の義憤も被害者(加害者)の心を汲んだ優しさも、深月の前では全て虚しくすり抜ける。

 深月に唆された者達の罪は、彼ら自身の選択と結果である、と深月は悪そびれずに答えた。

 しかも、深月が自身の見解を伝えたのは詰問した光ではなく、あくまで目の前の蛍に向けて。

 蛍が深月の台詞を耳にした途端、薄氷の瞳は咎めるような色を帯びた。


 「深月義兄さん、なんてことを……! こんな間違ったやり方で、一体誰が幸せになれるというの?」

 「……どうやら、蛍は気に入らなかったようで、残念だ。僕はね、薄汚い大人と人間に苦しめられている子ども達を救ってあげたかったんだ……"かつて子ども達だった"彼らが自らの手で己の尊厳と心を取り戻す手助けをした」


 蛍に睨まれた深月は怖じ気づくどころか、むしろ穏やかに微笑み返してくる。

 己の教唆と幇助、独特の価値観を正当化するばかりの言葉を紡ぐばかり。

 薄氷と同じく冷たく硬くても、実は脆い蛍の心は怒りによって容易く被爆寸前までひび(やぶ)れ始める。


 「おかげで、運営管理違反の福祉事業所で搾取されていた福祉サービスの利用者も、慈愛ホームで虐待を受けていた保護児童達は救出されただろう?」


 皮肉だが深月の言う通り、結果的には事件に関わった福祉施設の子ども達の安全安心は守られた。


 「E・Cに襲われた者は過去の罪を暴かれ、一部は逮捕された。結果、子ども達もE・Cも皆、()()()()――そのためなら、殺された加害者(彼ら)の苦痛も死も、()()()()だろう?」


 深月は状況にそぐわない恍惚の色を瞳に灯す。

 蛍から激しい感情を向けられている事自体に、深月自身は何にも代え難い至福と興奮にに満たされていた。


 「ふざけないで……! 私ともう一度会うため? もう一度、一緒にいるため? ()()()()()()()、多くの人達を道連れにしたの!?」


 たとえそれが、怒りや悲しみであり、いずれは憎悪へ変貌し得るとしても。


 「そうだよ。"犯罪から子ども達の笑顔と命を救いたい"。再会した蛍への()()()にはピッタリだと思ったんだけれど。まさに、君が望んだ結末だろう?」


 罪悪感どころか、むしろ母親を喜ばせようとした子どものように無垢な返答。

 深月の歪な悦びに、蛍も光もジワリと凍りつくような戦慄を覚えた。

 まさに、無垢で、清らかで、狡猾な"悪魔"。

 無垢な悪魔の心には、真っ当な善意も共感、憐憫すら響かない。

 絶望的な事実を悟った蛍には、もはや迷う余地がなかった。

 深月と手を取り合っていた蛍の空気は冷やかに尖る。


 「それなら尚更、何としてもあなたを"逮捕"しなければ――」


 蛍は冷たい空気を一度吸い込んだ瞬間。


 ヒュッ――。


 空気を凍て裂くような音は、深月の耳朶を二度掠めた。

 漆黒の長靴(ブーツ)に包まれた鋭い爪先は、いつの間にか深月の横頬スレスレを通過していた。

 冬空色の双眼は軽く瞬きを繰り返した。

 もう一度、深呼吸した蛍は間髪入れずに目の前の腹部めがけて、渾身の前蹴りを放った。


 「――ほう……」


 蛍の攻撃をいち早く察知した深月は、咄嗟に距離を取ることで(かわ)した。

 しかし、深月の後退した隙を突いた蛍は、彼の前頭部めがけて強烈な高上げ蹴り(ハイキック)を飛ばした。


 「まさか、知らない内に格闘技(こんなこと)もできていたとは。さすが蛍だ」

 「それはどうも。伊達に刑事官をやっているわけではないの」


 喉から感心を零す深月も負けてはいない。

 蛍の強烈なハイキックを手刀で素早く防御した。

 白い手盾(てのたて)へ足を乗せたままの蛍は、薄氷の瞳に決意を燃やす。

 深月の方も愉しげな薄笑いを咲かせる。

 蛍は淡々と礼を述べてから一旦脚を引っ込め、素早く距離を取った。

 蛍は得意の"キックボクシング"の姿勢を立て直す。

 対照的に、深月は戦火とは無縁に舞う雪のように佇んだまま。

 それでも、蛍を映す冬空色の瞳には彼女と似て非なる"闘志"に愉悦を灯している。


 「よせ! 蛍! さすがのお前でも、その男は……!」


 深月と一騎打ちを始めようとする蛍を案ずる光は、必死な口調で呼び止める。


 「分かっているわ、光。私以上に己を常に鍛えているあなたすら苦戦した相手でしょう。ちゃんと用心するわ」

 「君とこうして物理的に戦うことになるのも、夢にも思わなかったよ、蛍。でも、これはこれで……やはり蛍は、どこまでも僕を愉しませてくれる」

 「生憎だけど、義兄さんの過ぎた悪戯(あそび)も、今ここで終わらせる!」


 両拳に力を込めた蛍は、冷たく研ぎ澄ませた息をもう一度吐く。

 瞬間、蛍は深月に向かって迷いなく駆け馳せた。

 (かけ)るハヤブサを彷彿させる速さで間合いを詰めた蛍から、深月は反射的に一歩退いた。

 しかし、その隙こそは蛍の狙い通りだった。

 深月を決して逃がさない――。

 蛍は深月の膝辺りへ低位蹴り(ローキック)を二連続当てる。

 直後、顔面には顔突き拳(ジャブパンチ)を放つ。


 「はあぁ――!」


 さらに蛍は、胴体部や頭部など急所を狙った容赦ない中位蹴り(ミドルキック)や、強烈なハイキックからの俊敏な回し蹴り等を執拗に炸裂させる。

 一方深月は、蛍の蹴り技と拳を両手や(すね)で防御するのが精一杯らしく、段々と追い詰められるように後退していく。

 今までにない気迫と俊敏さで、熾烈な格闘技を繰り出す蛍の雄姿に、光も圧倒される。

 鹿のように細長く美しい脚の織り成す蹴り技、男性の深月に躊躇せず立ち向かう冷凛な佇まい。

 まさに、"流麗"な戦いの乱舞。

 蛍の美しい強靭さに魅せられる光だが、一向に反撃しない深月に漠然とした危機感も覚えた。

 いくら蛍の格闘技が強力とはいえ、深月の実力はこの程度ではないはずだ。

 蛍の到着前、深月の尋常ならぬ強さに打ちのめされた光だからこそ知っている。

 光の不安は蛍自身も既に勘付き始めていた。

 そして、二人の悪い予感は、確信となって的中した。


 「ふふふっ。中々、筋の良い蹴りと拳だね、蛍。一秒でも時期(タイミング)を誤れば、さすがの僕も即脱落(ダウン)させられそうだ」


 追い詰められた深月は背中を後ろの本棚にぶつけたことで足を止めた。

 千載一遇の隙を突くために、蛍は渾身のハイキックを、深月の左側頭部に直撃させた――はずだった。


 「馬鹿な。今、確かに直撃したはずだ」


 光は動揺の声を隠せず、蛍ですら薄氷の瞳を大きく見開いた。


 「大方、脳震盪でも起こさせ、僕を気絶させようとでも考えたんだろうが……残念だったね」


 深月の左頭部へハイキックを喰らわせたはず蛍の足は、余裕の微笑みをたたえる深月の両腕に組み取られていた。


 「僕の動きを封じる攻撃を与えるとすれば、大抵頭部か鳩尾(みぞおち)の急所を狙う。蛍の攻撃様式(パターン)と狙いを予め読んでいれば、防ぐのはそんなに難しくないよ」


 蛍のハイキックが直撃する寸前、深月は蛍の脚を両手で素早く掴み、直撃を防いだのだ。

 深月は余裕の表情だが、ハイキックの衝撃を緩衝するのに絶妙な瞬間(タイミング)を狙う必要がある。

 優れた動体視力と先読み、さらに衝撃を止めるほどの筋力がなければ難しい芸当だ。

 蛍の強烈なハイキックを容易く受け流し、光を満身創痍にまで追い込んだ。

 どうやら、深月には智力だけでなく、強靭な筋力と戦闘技術まで備わっているらしい。


 「僕を殺すことのできない蛍が、考えそうなことだ」


 深月が読書を(たしな)む姿しか知らない蛍にとっても、彼の自分達を凌駕する物理的強さは"誤算"だった。

 ハイキックに失敗した脚を掴まれたままの体勢は危険だ。

 しかし、蛍の片足首を掴んでいる白い手は解放を許さない。

 見かけによらない握力は、頑丈な漆黒の長靴を軋ませ、痛みすら与えてくる。

 さすがの蛍も、冷徹な眼差しは崩さないが苦悶の声を零す。

 しかし、蛍が次に零した台詞は自信に満ちていた。


 「それは、どうかしら……!」

 「蛍? 逃げろ……!」

 「丁度いいわ、深月義兄さん。そのまま()()()()()()?」


 蛍は片脚をがっしりと掴まれたまま、地に着いているもう片方の脚を浮かせた。

 瞬間、深月の右頭部へ再びキックを喰らわせた。

 しかし、もう片脚の蹴り技も深月は当然のように素早く防いだ。

 瞬間、蛍の右脚を掴む力が一瞬緩んだ。

 蛍は見越していた隙を好機と捉え、囚われていた片脚を素早く抜いた。

 そのまま深月の身体を押しのけり勢いで咄嗟に距離も取った。

 深月の強固な拘束による不利な体勢を脱した蛍だが、光は案じる声を荒げた。


 「大丈夫か!? 蛍……!!」


 蛍の太腿に走っているのは、一筋の"赤い線"。

 赤い線からツゥ……とわずかに流れたものを視認した光の顔に悲痛な色が浮かぶ。


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